避暑地にて涼む

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避暑地にて涼む

 地下鉄の淀みを鎮めてからというもの、桃矢様は丸一週間寝込んだ。  これで休暇はなしになったんだろうなと諦めていたものの、見舞いに来ていた咲夜さんはあっさりと「いいえ?」と答えた。 「次期当主がこれだけ働いた上で倒れたのは、どう考えても現在現場に出ている風水師の練度が足りていないせいです。我々の落ち度で、どうして次期当主の休暇を削れると?」 「そうなんですけど……桃矢様がしばらく留守になって大丈夫ですか?」 「今回の件で、分家のごたごたも収束するかと思いますし」  それに私は喉を鳴らした。  ……桃矢様と当主様の仲は、前ほどぎこちなくはなくなった。でも。  私が子供を産まない限りは、本家と分家の問題は宙に浮いたままだと思っていたから、まさかここに来て解決のめどが立つとは思ってもおらず、拍子抜けしたのだ。  咲夜さんは淡々と言った。 「我々が盆の期間ぎりぎりまで使っても鎮めきれなかった淀みを、次期当主がたった一日で鎮め終えてしまったんですからね。もう誰も体が弱いからと文句は言えやしません。どうぞ休暇中ごゆるりとお過ごしください」 「……まあ、なにからなにまでありがとうございます」  私は深々と頭を下げてから、咲夜さんに甘酒を飲んでもらって帰ってもらったのだ。  一週間寝込んだあとの桃矢様は、ようやっと元気になったために、避暑地へと向かう手はずを整える。  服をどうしようと悩んだ結果、できる限り動きやすいようにと、ワンピースを数枚持っていくことにした。さすがに避暑地で洗濯をするのは気が引けるため、着物はやめておいた。  桃矢様は着流しを数枚持って出かけることになった。  車は今回は風水師の仕事ではないため、執事のひとりが運転手を務めてくれることになった。  桃矢様は出かける前に、彼方さんに挨拶をした。 「彼方、それでは行ってきます。あとのことは頼みました」 「はいはい、かしこまりましたよ。どうぞ奥様とお寛ぎください」  それがただの軽口なのか、心からの言葉なのか、私にはわからなかった。  車を走らせて数時間。街中の景色が薄らぎ、だんだん樹と道しかない場所に出る。水が澄んでいるんだろう、車を走らせるあぜ道の堀を、透明な水が流れ、魚が泳いで過ぎ去っていく。  いつか出かけた直さんの家よりも森に近い、静かな場所に洋館が建っていた。  鎮目邸は和洋折衷の場だと思っていたけれど、ここは完全に洋館だ。  車は私たちの荷物を降ろすと「それでは休暇終了までには迎えに来ますから」とひと言添えて、走り去っていった。  私は何度も車に会釈をしてから、やっと洋館と向かい合った。扉や壁はずいぶんと分厚く見える。私がじろじろと見ているのに気付いたのか、桃矢様が説明を加えてくれた。 「たしか先々代の当主が、西洋文化に被れて仏蘭西の屋敷をまるまる買い取ってここに立て直したそうです」 「屋敷って買えるものだったんですか」 「自分もあまり知りませんが。日本と西洋ですと湿気が違いますからどうかとは思っていましたが、少なくともあの屋敷は避暑地としては最適ですよ。お久し振りです」  屋敷の扉を開くと、管理人夫婦が出てきた。 「あら、坊ちゃまお久し振りです。手紙は拝見しましたけど……これが坊ちゃまの奥方ですか」 「は、はじめまして。いろりと申します」 「元気でなによりです。私たちはここで管理を務めております三葉で、隣は亭主の義郎です。どうぞ滞在期間中のんびりなさってくださいませ」  奥さんの三葉さんが私の荷物を運んでくれ、桃矢様の荷物は義郎さんが運んでくれ、私たちの部屋へと通してくれた。  大きめな寝台のある部屋で、窓の外からは見通しがいい。 「わあ……」  ここは山だけれど、木々の向こうから海が眺められる。麓の町も見られるのはずいぶんと贅沢だ。  それを見ながら桃矢様は微笑んだ。 「眺めがいい場所でしょう? 季節が過ぎてしまいましたが、春先だったら山菜がおいしく、秋は木の実がおいしいんです」 「そのときも行ってみたいですね」 「なかなか行けませんけどね。それじゃあ散歩しましょうか」 「はい!」  私は浮かれて桃矢様と一緒に、森に散策へと出かけていった。  桃矢様なりに気を遣ってくれているんだろう。  寝台には枕がふたつ、布団がひとつ。今までは布団をふたつ無理矢理くっつけて眠るだけだったのが、いきなり生々しくなり、私の身が一瞬竦んだのを、桃矢様に見られてしまったのだから。  手を取ると、桃矢様の手はじんわりと汗が滲んでいた。ここは木々に遮られて日差しは和らぎ、日頃だったら暑さを思い出させるはずの蝉時雨すら、涼しげに聞こえてしまうというのに。  この方もまた、緊張しているのだとしたら、私も少しだけ嬉しい。 ****  その日の夕食は、鹿の葡萄酒煮に猪の香草焼きと、ずいぶんと野性味溢れるものばかりだった。サラダに入っている刻んだ肉もまた、鹿の肉の燻製らしい。  私はおいしいおいしいと食べてしまったが、桃矢様は大丈夫なのかと思いきや、意外と思い切りよく食べていた。  それを見て、三葉さんはかなり感激した顔をしていた。 「坊ちゃまは、避暑地に来られるたびに、ほとんど物が食べられず、せめてもと甘酒ばかり飲ませてましたから……こんなにたくさん食事が摂れるようになって……」 「元気なときもあまり固形物を食べず、せいぜい汁物くらいしか飲まなかったから……本当に元気になられましたなあ」  義郎さんまで感激しているのに、私は思わず桃矢様を見ると、桃矢様は困った顔をして笑っていた。 「心配おかけしてすみません。いろりさんと結婚し、本当に亀の歩みのようさ速さで、少しずつ食べられるようになったところなんです」 「それは本当になによりです。お風呂も沸かしておきますから、食べ終わって休憩してから、入ってくださいね。そうだ、坊ちゃま。晩酌はいかがですか?」 「そうですねえ……」  それに私はあれと思った。  桃矢様は、最近でこそ一日三食食べるようになったものの、酒は勧められない限りまず飲まないし、当然晩酌も嗜まない。  これって……今晩のことのためなのかな。おいしかったはずの香草焼きを食べる手がゆっくりになってしまった中、桃矢様が口を開いた。 「いただこうかと思います。いろりさんはどうなさいますか?」 「え、ええっと……私もお願いします」 「かしこまりました。寝室にお持ちしますから、お風呂上がりましたら飲んでくださいね」  そう言ってご夫妻はせかせかと風呂の湯加減の調整や寝室の準備に戻ってしまった。  私は思わず俯いてしまう中、桃矢様は微笑んだ。 「あまり緊張なさらないでください。ああ、そうだ。一緒にお風呂に入るんでしたよね」 「ああ……はい、そうでしたね。そういう提案、ずっと飛んでしまっていましたから」  もう既に互いの脱ぎ着なんてずっと見ているのに、なにをそこまで照れているのか。  そう自分でも思うものの、ふたりでこうやって過ごすことなんてもうないだろうから。そう思いながら、私は桃矢様と一緒に寝間着の浴衣を携えて、浴場へと向かっていった。  服を脱ぎながら、どうにかタオルを体に巻く。そのまま洗い場に入って、私は息を飲んだ。  元々鎮目邸の風呂場も、離れのものでさえ立派だったとは思うけれど。ここは西洋かぶれな先々代の影響なのか、風呂は風呂でも露天風呂だった。体を洗い場で洗ってから、夜風を浴びながら風呂に入る。灯台の灯りの落ちた海や、町の灯りを眺めながら風呂に入るのは気持ちがよさそうだ。 「昔は贅沢が過ぎるって言われて、反対されたらしいんですがね。真冬にはさすがにこの浴場は使えませんが、秋は紅葉を眺めながら風呂に入れ、春先でしたら山桜を見ながら風呂に入れるということで、意外と人気なようですよ」 「そ、そうだったんですか……」  そう言いながら桃矢様の体を見て、思わず目を背けそうになった。  前よりはずっと肉付きがしっかりしてきたとはいえど、それでも細くて筋張った体。肌はやや青白く、太い血管が透けて見える。ただわかるのは、私の女の体とは紛れもなく違うということだけだった。  私が緊張して竦んでいる中、桃矢様は私の髪に手を取った。 「それじゃあ、約束通り洗いましょうか」 「は、はい……」  髪をお湯で湿らされると、糠を付けられて、丁寧に泡立てて洗われていく。その指圧は普段しょっちゅう倒れる桃矢様の力に反して、ずいぶんと力強く感じた。痛いと悲鳴を上げるほどの力はないが、気持ちいいと思うくらいには力を込められている。 「ここを洗ってほしい、ここを指圧してほしいって場所はありますか?」  桃矢様に尋ねられ、私は小さく「大丈夫です。気持ちいいです」と言うと、桃矢様は少しだけふっと微笑み、私の頭皮にぐっぐっと力を込めていく。  本当に気持ちがよく、お湯で頭を流されたあと、髪は手拭いで拭われて乾かされた。 「終わりました」 「あ、ありがとうございます。お礼と言ってはなんですが……お背中お流ししましょうか?」  私が尋ねると、桃矢様はうっすらと頬に熱を持たせた。それに私はキョトンとする。 「桃矢様?」 「い、いえ……お願いしてもよろしいですか?」 「はい」  私は糠袋で彼の体を洗っていった。  思えば糠袋越しとはいえど、彼の体に触るのは初めてだ。体をくるくると洗ってあげると、桃矢様の体が本当に筋張っているのがよくわかる。  骨と皮しかないんじゃと心配していたのが最初の結婚したての頃。今はそこまで肉付きが悪い訳ではないものの、よくもないのだ。体力を消耗したら、簡単に骨と皮だけに逆戻りしてしまう。  背中を流してあげてから、やっと桃矢様と一緒に浴槽に入っていった。檜だろうか、木でできた風呂は、体を入れてみると少しだけお湯にとろみがあるような気がする。 「温泉ですっけ? でも匂いはしませんよね」  温泉には効能ごとに匂いが違うらしいが、このお湯からはなんの匂いもしなかった。それに桃矢様は苦笑した。 「この辺りは温泉はありませんから。これは湯冷め防止の入浴剤ですね」 「はあ……なるほど。それでですか」  じんわりと温まる体に肩からお湯をかけつつ、桃矢様と夜空を眺めた。ふたり同時に入っても足を伸ばせるし、景色も堪能できる。  そんな中、桃矢様がトン、と私の肩にもたれかかってきたのに、思わず固まった。 「……桃矢様?」 「緊張なさっていますか?」 「ま、まあ……一応は、覚悟していたつもりだったんですけど」  嫁ぐことになったときから、覚悟はしていたが。特にそんな風なこともなくて拍子抜けしていた。  ただ毎日が楽しくて忙しいとバタバタしていたと思っていたけれど、それはただふたりの関係を先延ばしにしていただけで、なんの解決もしていなかった。  私はお湯に視線を落とした。 「ずっと夫婦だったのに、なにもなかったんで、いざ進展となったら……すみません。本当にヘタレで」  そんな私のことを、桃矢様は黙って見つめていた。
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