尾呂血

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第三章 卑埜忌村  翌朝、一番早い便で羽田を飛び立った。米子空港に降り立ちJRに揺られること二時間弱、日南町の生山駅に到着する。地図を見ると卑埜忌村はここから更に山間に奥深く入ったところのようだ。駅前のひなびた観光案内所で卑埜忌村への行き方を尋ねると、近くまではバスで行けるとのことだった。ついでに宿泊施設について聞くと、村に一軒だけ(きこり)荘という民宿があるとのことだったので、今晩の宿泊の予約を入れてもらった。しかし、卑埜忌村に関する観光パンフレットの類はないとのことだった。  指定されたバス停で待つこと三十分、やっと現れたのはバスとは名ばかりで、定員九人ほどの小さなワンボックスカーだった。乗客は大輔の他には見当たらない。程なくしてバスは出発した。 「お客さん、どちらまで」  優に古希は過ぎていそうな運転手の男が、伸びた白い眉毛に隠れてしまいそうな小さな目を瞬かせながらルームミラー越しに聞いてきた。 「土蜘蛛口で降ります」  先程の観光案内所で教えてもらったバス停の名前を口にすると、運転席の老人はしばらく無言でルームミラー越しに大輔を見つめていたが、やがて小さく頷いた。  しばらく車は収穫を終えたばかりの棚田の中を走っていたが、やがて深い木立に覆われた山道へと入っていく。深い沢に沿って湾曲した道を静かに進んでいく。老人と二人きりの車内は不快なほど暖房がきいていて、時折かすかな加齢臭が鼻をついた。かすかに窓を開けると、晩秋の澄んだ空気が流れ込んでくる。静かなエンジン音を響かせながらバスはひたすら木立の中を進んでいく。 興味を持たれているのか、時折、老人がルームミラー越しに大輔を観察しているのが分かったが、気づかないふりをして窓の外を流れる景色に視線を預けていた。不意に老人が口を開いた。 「あんた、尾呂血湖(おろちこ)に行くのかい?」  一瞬、何のことだか分からなかった。前方を見やると、ミラー中の老人と目が合った。 「尾呂血湖?」 「卑埜忌村にある湖じゃ」  老人はくねくねとした峠道を運転しながら、ミラー越しにちらちらと視線を送ってくる。大輔はせっかくだからこの老人に卑埜忌村のことを聞いてみることにした。 「卑埜忌村に行くつもりなのですが、湖があるのですか」  ミラーの中の老人が頷いた。 「いつも霧に覆われていて、なかなかその全貌を現わすことのない湖だそうじゃ。高地にあるので周囲から流入する河川がなく、湧き水だけでできておるらしい。その昔、須佐之男命(すさのおのみこと)が剣の血を洗ったという言い伝えが残っておる」  老人はミラー越しに幾分得意げな表情を浮かべた。 「須佐之男命はお隣の島根県出雲の話ではなかったでしたっけ?」  鳥取県で須佐之男命の名前を聞くとは意外だった。確か古事記の記述では須佐之男命は天照大神の弟だったが粗暴なふるまいにより高天原を追放され、出雲に降り立ったはずだ。 「このあたりは昔、伯耆(ほうき)の国と言ってなあ、お隣の出雲の国と一つの文化圏だったのじゃ。だから出雲神話と言われるものの半分は、元々ここ伯耆に残っていた伝承じゃ。須佐之男命にまつわる言い伝えも随分とこの辺りに残っておる。この地域が鳥取と島根に分かれたのはずっと後になってからのことじゃ。」  老人はその後もおらが国、伯耆について誇らしげに語り続けた。老人によると伯耆は古代より独自の先進文化が栄えた地域で、古事記にもその地名が残っているそうだ。当時の重要戦略物資であった鉄の生産を一手に担っていたらしい。 「伯耆は古代の昔から良質な玉鋼を生み出すたたら製鉄が盛んでのう、日本で最初に鉄製の刀剣を作り出したところなのじゃ。お客さん、伯耆安綱の名前を聞いたことはあるかのう?」  ミラーの中の老人がどや顔を見せた。大輔はミラーに向かって首を横に振る。 「平安時代に活躍した伯耆の刀匠じゃ。酒呑童子の首を切り落としたと言われる天下五剣の一つ、童子切安綱(どうじぎりやすつな)も伯耆安綱の作じゃ。今では国宝として東京の国立博物館に展示されておる」  一通り老人の語りを拝聴し、区切りの良い所で大輔は質問をした。 「ところで卑埜忌村はどんなところなのですか」  先程までの得意げだった表情がふっと消え、困惑の色が浮かんだ。 「昔から変わった村じゃった」  そこで老人は口をつぐんでしまった。大輔は老人の反応に興味を抱き、その先を促した。 「どう変わっているのですか」  老人はしばらく口をもごもごさせていたかと思うと、おもむろに語りだした。 「このあたりでは一番古くからある村でのう、奈良の時代より前から存在していたらしい。ただ、ひどく閉鎖的な村で昔からわしら近隣の村とはほとんど交流がないのじゃよ。バスの乗り入れも頑なに拒否しておって、このバスも土蜘蛛口までしかいかんのじゃ。おまえさんもそこから三十分ほど峠道を歩くことになる」 「おじさんは卑埜忌村に行ったことはあるのですか」 「いや、ない」  そう言うと老人はピタリと黙ってしまい、その後は大輔に視線を送ることもなく、眉間に皺を寄せたままただくねくねとした道を無言で運転するだけだった。  老人に礼を言い土蜘蛛口のバス停で降りると、いきなり深山の冷涼な空気に包まれた。鬱蒼とした原生林の葉擦れのさざめきと、沢から聞こえるせせらぎの音が耳に心地よい。卑埜忌村へはバス道路から脇に伸びる沢伝いの林道をまっすぐ歩けば着くとのことだった。雑草に覆われた林道にはくっきりと轍の跡が前方へと続いている。恐らく卑埜忌村との間に最低限の車の往来はあるのだろう。  樹々から降り注ぐ野鳥の鳴き声を全身に浴びながら、杉の巨木の間を縫う林道をひたすらに歩いた。まだ陽は高く、森のあちらこちらに柔らかな木漏れ日が射しこんでいる。周囲には針葉樹特有の清涼感のある香りが充満している。時折目にする広葉樹は、その鮮やかな紅葉で大輔の目を癒してくれた。  道はしばらく沢に沿って続いていたが、やがて沢から離れ徐々に上りの勾配を強めていった。息が上がり額や首筋に汗が滲んでくる。背負ったリュックの重さが肩に食い込んでくる。日頃、机に向かって執筆ばかりしている大輔にはこたえる坂だったが、原生林が放出する濃密な酸素が肺の隅々にまでいきわたることが気持ちよかった。  峠に到達する頃、胸元の携帯が鳴った。画面を見ると編集部の担当者の名前が表示されている。恐らく、今日が締め切りの原稿の催促だろう。今はとても電話に出る気にならなかった。そのまま無視し続けると、留守録につながり静かになった。  峠を越え下り道が始まると、あたりの空気が一変する。それまで抜けるような青さを見せていた空はいきなり灰汁色の鈍重な雲に覆われ、穏やかな温もりは麓から吹き上げてくる冷たい風によって一気に追いやられた。軽やかに歌う小鳥たちはいつの間にか姿を消し、代わりに樹上に群れを成す漆黒のカラスたちの威嚇するような視線が大輔に向けられている。冷気のためか大輔は思わず身震いをした。その時、ふと路傍に何かの気配を感じた。大輔に向けられた威圧するような視線。ぎょっとしてそちらを見やると、生い茂るクマザサの隙間からこちらを睨みつけている古い石像と目が合った。地蔵ではない。歯を剥き目を大きく見開き今にもこちらに襲いかかってくるような恐ろしい形相で、通る者を威嚇している何かの像だ。土地の道祖神だろうか。かなり古いもののようで、表面は長年の風雨で洗われ一面苔に覆われている。その後も数体の石像を目撃した。邪鬼や野獣などそれぞれに異なった風貌をしていたが、どれも恐ろしい顔でこちらを睨んでいることに変わりはない。何のための像だろうか。まるでここから先に足を踏み入れる旅人を拒んでいるかのようだ。  下りの傾斜が緩くなってくるとやがて森が途切れ、前方の視界が開けた。どんよりと曇った空の下、眼前の斜面には畑や放牧地が広がり、その間にいくつかの民家が点在しているのが見える。どの家も庵のような風情の質素なものばかりだ。その向こうには湖が広がっているようだったが、そのあたりは深い霧に覆われていて全貌は見えない。ここが卑埜忌村、そしてあの湖が尾呂血湖だろうか。この村のどこかに美穂がいるはずだと思うと、自然と胸が高鳴った。大輔はもうすぐ美穂に会えるはずだと逸る気持ちを抑えながら、足早に峠道を下っていった。  そこは山奥に突然出現した、隠れ里のような村だった。中心の湖を護るかのように周囲のなだらかな丘に集落が形成されている。まだ陽のある時間のはずだったが、空を覆う鉛色の厚い雲のせいで村全体はどんよりと暗く沈んでいる。侘び色に干からびた水田の脇には収穫したばかりの稲が束にされて稲架に干されている。どこからか枯草を燃やしているような煙臭が晩秋の風にのって流れてくる。いくつかの民家からは囲炉裏の煙が立ち上っている。  まずは一刻も早く美穂の実家を訪ねてみたかった。もしかしたらそこで美穂に会えるかもしれない。山根巌氏の住所はメモしてあった。携帯を取り出し、グーグルマップを開こうとしたがつながらない。いつの間にか圏外になっていた。先程の峠ではつながっていたのに。美穂が自分の携帯から連絡してこなかったことを思い出した。恐らく美穂はどこかの固定電話を借りて電話をしてきたのだろう。仕方がない、誰か村人を見つけて山根家の場所を尋ねてみよう。しかし、何故かなかなか村人には遭遇しなかった。目に入るのは野良犬ばかりだ。今どき、野良犬がいるとは珍しいことだ。奥州で過ごした少年時代を思い出す。子供の頃には郷里でも野良犬をよく見かけたものだが、東京に出てきて以来その存在をすっかり忘れていた。犬たちには野犬のようなどう猛さは感じられず、どの犬も愛嬌を見せながら尻尾を振り付きまとってくる。何も餌になるようなものを持っていないことを犬たちに詫びながら人影を探した。  たまに遠くで作業をしている村人を見かけるのだが、大輔が近づこうとするといつの間にか小屋の中に入ってしまい、なかなかつかまえることができない。しばらく歩くとようやく前方に一人の老婆を発見した。畔道に腰を下ろして湖の方角を一心に見つめている。ぱさぱさに黄ばんだ白髪と染みの浮き出た土色の顔。粗末な着物からは枝のような手足が覗いている。大輔は相手を驚かせないようにわざと大きな足音を立てながらゆっくりと老婆のもとに歩み寄っていった。そして愛想のよい笑みを浮かべながら老婆に話しかけた。 「すみません、道を尋ねたいのですが」  老婆は聞こえないのか、黙って湖を見つめたままだ。 「すみません」  もう一度声をかけると、老婆は独り言のように言葉を発した。 「こんなはずではなかった」  途端に熟柿のような嫌な臭いが周囲に広がる。足元には徳利が数本転がっているのが目に入った。老婆はその後も独り言をぶつぶつと口の中で呟き続けた。湖を見つめるその瞳は濁って焦点を失っている。酩酊しているのだろう。大輔は諦めて老婆のもとを離れた。  その後も村人をつかまえることができず、そうこうしているうちに湖畔に辿り着いてしまった。穏やかな波が粒の細かい白浜に静かに打ち寄せている。湖は峠から見た時よりもずっと大きいようで、鈍色の湖面が霧の彼方まで続いている。先程は気がつかなかったが、どうやら沖合には島があるようだ。湖面を覆う深い霧の切れ目から、鬱蒼とした樹木が茂る島の断片をかすかに垣間見ることができた。時折、湖を渡る風とともに何とも言えない高雅な香りが流れてくる。馥郁とした優美な香り。島で誰かがお香でも焚いているのだろうか。  沖合からの冷たい風を受けながらしばらく湖沿いの道を歩くと、やがて古い木造の郵便局に出くわした。戦前からあるようなレトロな趣の建物だ。ちょうど良かった、ここで道を尋ねようと、古びた木の扉を押し開く。思いがけずにギギッと大きな音が響いた。途端に扉の向こうから刺すような視線が大輔に向けられる。窓口には事務の女性が一人、その奥に中年の男性局員、そして窓口の手前に佇む一人の老人、その全員が大輔に向かって一斉に射るような視線を浴びせかけてきたのだ。大輔は一瞬怯むも、視線を押しよけるように窓口に歩み寄り、笑顔を作りながら声をかけた。 「あの、道を尋ねたいのですが」  女性は聞こえていないのか、驚いたような顔でただ大輔を見つめている。大輔は構わず続けた。 「山根巌さんのご自宅にお伺いしたいのですが」  女性は強張った顔で大輔を見つめていたかと思うと、助けを求めるように後ろの男性局員を振り返った。男性局員は大輔に視線を定めたまま、奥の自席から窓口にやってきた。 「あんたはどちら様?」  男は棘のある警戒感を隠そうともしなかった。道を尋ねただけで、こちらの素性を聞かれることに軽い違和感を覚えたが、大輔は顔に貼り付けたままの笑顔を男性局員に返した。 「舘畑といいます。山根巌さんにご焼香をしたいとおもいまして」  男性局員は探るような視線を大輔に向けながら、しばらく迷っているようだったが、やがて大輔から視線を逸らすと吐き捨てるように言葉を発した。 「うちは交番じゃないから、他で聞いてくれ」 「教えてやればよいではないか」  突然、手前に佇んでいた老人が割って入ってきた。髪も髭も真っ白く、白衣を着て紫色の袴をはいている。神職関係の人だろうか。男性局員は睨みつけるような視線を老人に向けた。 「まあよい、舘畑さんとやら、私が教えてやろう」  老人はそう言うと柔和な笑顔を浮かべながら、扉の外へ大輔を連れ出した。そして山根家までの道筋を丁寧に教えてくれたのだった。  老人に丁重に礼を言って、教えてもらった道を再び歩き出した。山根家は湖畔から斜面を上った田園地帯にあるそうだ。秋蒔きの葉物野菜が実る畑や、収穫を終えて水の抜かれた田んぼの畦道を歩く。どこからともなく野良犬たちが寄ってきて、しっぽを振りながら後をついてくる。皆、あまり痩せていないところを見ると、村人たちから頻繁に餌をもらっているのだろう。自由に生きながら餌に不自由をしないとは、犬にとっては理想的な生活だ。飼い主の玩具に成り下がった都会の飼い犬たちが哀れに思えてくる。  時折、焚火の燻すような匂いが漂ってくるが、相変わらず人影は見当たらない。落穂目当てに集まっていたカラスの一群が大輔を警戒して一斉にバタバタと飛び立っていく。  背中に軽く汗を感じはじめた頃、前方に古い粗末な平屋建ての木造家屋が見えてきた。きっとあれが山根家だろう。美穂が生まれ育った場所。美穂がずっと語ることのなかったプライベートの奥深くを覗き見るような気がして、軽く気が咎める。しかし美穂と音信不通となってしまった今、ここで引き返すわけにはいかない。それにもしかしたら、美穂はあの家の中にいるかもしれない。一人、病に臥せっていることも考えられる。自然と足が速くなった。  その平屋の周囲にも小さな水田と畑があったが、水田の稲は収穫されることもなく全て無残に枯れ果て、畑は旺盛な雑草に覆われていた。その脇には錆びた農機具が無造作に放置されている。軒先に掲げられた古い表札には、かろうじて判読できる墨文字で山根と書かれている。確かにここだ。大輔は玄関の外から声をかけた。 「ごめんください。どなたかいらっしゃいますか」  中から美穂の弾けるような声が返ってくることを期待したが、いくら待っても返事はない。晩秋の寂しい風の音だけが耳元で鳴っている。いつの間にか犬たちもいなくなっていた。一瞬の躊躇の後、思い切って木の扉を横に押し開いてみた。鍵はかかっていなかった。家の中は玄関から一望できるほどの狭さだ。八畳ほどの居間と小さな板間の台所、たったそれだけだ。人影はない。枯色に退色した畳は擦り切れており、所々補修の跡が目立っている。居間の中心には囲炉裏があり、傍らには赤く錆びた鉄瓶が転がっている。大輔は玄関で靴を脱ぎ、恐る恐る畳に上がってみることにした。一歩踏み出すたびに床が軋み、かすかにカビの匂いが鼻先に漂う。周囲を見渡すと、粗末な棚の上に幾つかの写真立てが置かれ、色褪せた写真が掲げられている。制服を着た少女が校門の前で緊張気味に微笑む姿、父と思しき男性と仲睦まじく浴衣を着てはしゃぐ少女、ロウソクが掲げられたケーキの前で無邪気な笑顔を見せる少女、全て同じ少女だ。好奇心の強そうな大きな瞳、屈託のない笑顔、それは一目で美穂だと分かった。美穂の父はあの手紙を送った後も、きっと美穂の面影を大切にして生きてきたのだろう。大切に飾られている自分の写真を目にした時、美穂はどんな思いだったのだろうか。心の奥に抱えていた懊悩を少しは軽くすることができたのだろうか。美穂が父の臨終に間に合わなかったことが改めて悔やまれた。  室内を見回すと、部屋の片隅に見覚えのある旅行鞄を発見した。美穂が出かけていった朝に持っていたものだ。旅行鞄の脇には愛用していたハンドバッグもある。美穂は旅館をとらず、ここに滞在しているのだろうか。今、自分は美穂のすぐ近くにまで来ているという感覚がこみ上げてくる。もうすぐ美穂に会えるはずだ。そう思うと胸の奥にじわっと温かいものが広がっていく。ただ、何故かこの場所には人が生活をしている気配が全く感じられないことが気がかりだった。  更に部屋の中を見渡すと、北側の片隅の床に妙なものが置かれていることに気づいた。木製の小さな社のようなもの。かなり古い物のようだ。正面の扉は閉ざされ、その手前に形の異なる小さな白い陶磁器が並べられている。水や塩や酒をお供えするためのもののようだが、どれも中身は空っぽだった。恐らくこの社のようなものは、仏教の位牌にあたる霊璽(れいじ)を納めるための祖霊舎(それいしゃ)だろう。山根家は神道を信仰していたのだろうか。そうすると、恐らくあの扉の中には美穂の父の霊璽が納められているはずだ。  何気なく手元に視線を戻した時、何か違和感のあるものが視界に入った気がした。咄嗟にそちらの方向に視線を戻す。囲炉裏の灰の上にくすんだ色の薪のかけらが幾つか転がっている。そしてその中に、なにかが燃え残って散乱している。紙のようなもの。大輔は軽い胸騒ぎを覚えながら、その燃え残りを手に取ってみた。それはハガキの燃え残りだった。かろうじて残っている宛名を見ると、全て山根巌宛てとなっている。差出人名はどこにも書かれていない。そして奇異なことに裏面は一面黒く墨で塗りつぶされている。何だ、これは。ふと、美穂の父の手紙の文面が頭をよぎった。黒い手紙に悩まされている。黒い手紙、一体これは何なのだ。何か意味があるのだろうか。手紙を持つ腕に思わず鳥肌が走る。  大輔は冷えた畳の上に胡坐をかき、美穂の帰りを待ち続けた。時折、風が木戸を揺らす音の他は何も聞こえない。誰もいない部屋の中、静かな時間が過ぎていく。片隅の旅行鞄をぼんやりと見ながら美穂のことを考えた。一体どこにいるのだ。ここで生活をしているのなら何故、連絡をしてこないのか。いつまでここにいるつもりなのだ。何か連絡ができない事情でもあるのだろうか。いくら考えても分からないことばかりだった。  どのくらい、そうしていただろうか。急にあたりが薄紫色の夕闇に覆われていることに気づいた。しんしんとした冷気が体を包み込む。大輔は一度身震いをすると、おもむろに立ち上がった。暗くなる前には宿に入りたい。また明日、ここを訪ねてみよう。そう思い玄関に向かおうと思った矢先、ふと北側の壁の暗がりに置かれた祖霊舎に目がとまる。そうだ、せっかく来たのだから美穂の父に焼香だけでもしておこう。神道に焼香というものがあるのかどうか分からなかったが、とりあえず山根巌氏の霊璽に手を合わせておこうと、祖霊舎の前にひざまずいた。それは縦横五十センチほどの大きさで社のような屋根をもち、全体は檜でつくられていた。正面の扉は閉ざされている。小さな取っ手に両手をかけ手前に引くと、扉は簡単に開いた。中には檜の鞘に覆われた霊璽が安置されていたが、意外にもそれは全部で三つあった。一つはかなり古く飴色に色褪せている。あとの二つはまだまっさらな白木のままだ。古い方の霊璽を手に取り鞘を外してみると、霊璽本体には山根澄江命之霊という(おくりな)が書かれていた。裏を見ると、平成七年二月十日帰幽とある。美穂が幼い頃に亡くなった母のものだろう。美穂が父子家庭で育ったと言っていたことを思い出す。次に隣の真新しい霊璽を手に取り、鞘を外してみた。霊璽本体には山根巌命之霊とあり、裏には令和四年十一月三日帰幽とあった。美穂が東京を発った日だ。ほんのわずかの時間差で父の臨終に間に合わなかったというわけか。せめて最後に一言、父と言葉を交わしたかっただろうに。落胆した美穂の顔が目に浮かぶとともに、深い憐憫の情が胸に込み上げてくる。そっと山根巌の霊璽を祖霊舎に戻して合掌する。目を開くと隣の霊璽が視界に入った。それは山根巌の霊璽と同様にまだ真新しい白木のままだった。一体誰のものだろう。心臓の鼓動が不規則になり、嫌な予感が全身を駆け抜ける。大輔は恐る恐るその霊璽に手を伸ばしてみた。鞘を外そうと思ったが、何故か躊躇した。霊璽を持つ手はかすかに震えている。いや、そんなはずはない。息を呑みながら思い切って鞘を外してみた。そして無理やり視線を霊璽本体に向ける。白木の表面に並ぶ墨文字。次の瞬間、息が止まり背筋が凍った。そこには、真新しい墨文字で山根美穂命之霊と書かれており、裏には令和四年十一月九日帰幽とあった。最後の留守電が残されていた日の翌日だ。何だ、これは。霊璽を持つ手がブルブルと激しく痙攣する。苦い胃液が喉元に逆流する。何故、美穂の霊璽があるのだ。一体どういうことだ。誰がこんな質の悪い悪戯を、縁起でもない。全身を鳥肌が駆け巡る。思わず畳の上に尻もちをついた。その音に驚いたように屋根の上のカラスたちが一斉に気味の悪い鳴き声を上げた。  やっとの思いで霊璽を祖霊舎に戻すと、混乱した頭を抱えながら大輔は家を飛び出した。一刻も早く外の空気を吸いたかった。屋根の上に陣取っていたカラスたちがバタバタと飛び立っていく。既に辺りは薄暮に包まれていた。美穂は一体どこにいるのだ。教えてくれ。誰かいないか。畑の向こうの家の庭で野良着の女性が洗濯物を取り込んでいる姿が目に入る。大輔は狂ったようにそちらに向かって走り出した。女性はすごい形相で走ってくる大輔に気づくと、慌てて家の中に逃げ込んでしまった。大輔はその家の玄関に辿り着くと、無遠慮に扉を叩いた。 「すみません、教えてください。山根美穂はどこにいるのですか」  応答はない。構わず扉を叩き続けた。 「美穂を探しているのです。誰か、教えてください。お願いです」  大輔が叫び続けているとやがて扉が開き、中から険しい顔をした壮年の男が顔を出した。 「お前は誰だ」  男は右手に農作業用の鎌を構えていた。 「舘畑と言います。東京から山根美穂を探しに来ました。お願いです、山根美穂がどこにいるか教えてください」  男は哀願する大輔の様子をしばらく見ていたかと思うと、やがて鎌を構えていた腕をそっと下におろした。 「山根さんとこの娘さんは死んだよ。親父の後を追うようにね」  男の静かな低い声は、大輔の脳髄の奥に直接響いた。それは大輔が聞きたくなかった、最も恐れていた答えだった。 「うっ、嘘だ」  思わず男を睨みつける。 「嘘じゃない。既に葬儀も済ましている」  何を言っているのだ。信じられない。 「どういうことだ。何故死んだんだ」 「悪いがもう帰ってくれ。それ以上のことは知らん」  男はそう言うと、勢いよく扉を閉めた。  大輔はそれからどこをどう歩いたのかを全く覚えていない。気がつくと、樵荘に辿り着いていた。湖畔に立つ木造二階屋の民宿だ。あたりは既に深い宵闇に覆われており、宿の前に広がる湖は漆黒に沈んでいる。棟門をくぐると、質素な着物姿の老女が灯籠の灯りに照らされて佇んでいた。 「あんたが舘畑さんかい」  どうやら宿の女将のようだ。老女はあまり愛想の感じられない表情で大輔を見やった。 「山根さんとこに早速行ったそうじゃのう」  この村では大輔のようなよそ者の行動は筒抜けなのだろうか。 「山根さんとこも不幸続きじゃったわ」」  老女の声に、さほど同情している響きはない。老女はそう言うと、玄関扉を開けて先に入っていった。  記帳を済ませると、大輔は虚ろな瞳を女将に向けた。 「山根美穂さんは本当に死んだのでしょうか」  老女は一瞬、ぎろりと大輔を凝視する。 「ああ、死んだわ。自ら命を絶ったそうじゃ」 「自殺だと?ど、どこで」 「神島じゃ」  老女は暗い湖の彼方を指さした。 「あそこには尾呂血神社の本宮がある」  湖の沖合に見えたあの島のことか。あそこには神社があるのか。 「何故、自殺など?」 「わからん。そもそも神島へは渡しの重男の舟でないと渡れんのじゃが、あの日、重男は誰も乗せておらんと言っておる。不思議なこともあるものじゃ」  老女はそこで言葉を切ると、湖の方を見やった。 「あの娘は村を捨てた女じゃ。そのことを悔いて八津神様に懺悔に行き、自ら命を絶ったのじゃろう。自業自得じゃ」 「八津神様?」  老女はついしゃべり過ぎてしまったという表情を見せると、そのまま黙ってしまった。  結局その晩、大輔は夕食も風呂も断り、自失状態のまま布団に倒れ込んだ。暗い天井を見ながら美穂のことを考える。本当に美穂は死んだのか。それも自殺だと?あの快活な美穂が自ら命を絶つなど、到底考えられなかった。それに、美穂は最後の電話で何かを探り当てたと興奮気味に語っていた。そんな時に自殺などするはずはないのではないか。どうしても納得できない。思考は同じところをただぐるぐると回り、気がつくと東の空が白み始めていた。結局、一睡もできないまま朝を迎えることになった。
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