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第四章 異俗
朝食後、大輔は女将をつかまえ美穂の自殺を誰が発見したのかを尋ねてみた。その人物に会えれば、もう少し詳しい話が聞けるはずだ。女将によると、第一発見者は稗田宗子という代々続く村の医師とのことだった。氏子総代も務めている村の有力者だそうだ。大輔は早速、稗田のもとを訪ねてみることにした。
稗田医院は樵荘から湖畔沿いに二十分ほど歩いたところにあるとのことだった。晩秋の重苦しい曇天の下、身を切るような風を横顔に受けながら襟を立てて湖畔の道を進む。風の音以外は何も聞こえない。いつの間にか数匹の野良犬が後ろをついてきたが、構う気がしなかった。犬たちも大輔の悲痛な心持ちを察したのか、やがてどこかへ消えていった。朦朧とした頭で美穂のことだけを思い浮かべながら歩いた。何故、自殺などする必要があったのだ。湖には細かい白波が無数に立ち、その向こうの神島は乳白色の霧の中にその姿を隠している。沖合からは今日もかすかに高雅な香りが流れてくる。
稗田医院の建物はすぐに見つかった。周囲に点在する民家から浮きたつように、その木造の洋館は遠くから目をひいた。二階建てのコロニアル風の建物全体には白い横板が張られ、正面玄関に設けられた小さなポーチの欄間には見事なステンドグラスがはめ込まれている。建てられてからかなりの年月が経っているようだったが、地元の名士宅にふさわしい明治期の趣を残す立派な建物だった。玄関脇の檜の一枚板には揮毫のように堂々と稗田医院と書かれている。
大輔が呼び鈴を鳴らすと程なくして扉が半分ほど開き、若い看護婦が顔を覗かせた。大輔の顔を見るや否や口元に手をやり、慌てて奥へと走っていく。やがて白衣に聴診器を提げた背の高い女が現れた。髪は既に白く、骨ばった顔の中央には一際目立つ鷲鼻。皺だらけの乾いた皮膚の中でつり上がった眼だけが鋭く光っている。
大輔が名乗ろうとするや、先に女が口を開いた。
「お前が舘畑さんとやらか」
女のぎろりとした眼光が大輔を怯ませる。その目は強い警戒心を抱いており、決して歓迎されていないことはすぐに分かった。大輔は強張った笑顔を女に返した。
「はい、舘畑大輔と申します。山根美穂さんのことでお伺いをしたくて参りました。稗田さんでしょうか」
女は大輔を見据えたまま、ニコリともせず軽く頷いた。しばらく沈黙が流れる。稗田はとくに大輔を室内に招き入れるそぶりを見せず、半分開いたドアの隙間に突っ立ったままだ。仕方がないので大輔はその場に佇んだまま、稗田に質問を投げかけた。
「美穂が亡くなった時のことを教えていただけませんでしょうか」
稗田の顎のあたりに力が入るのが分かった。
「お前さんは山根美穂とどういう関係なのかな」
稗田が訝しげに大輔を睨んだ。大輔は一瞬、返答に迷ったが変に取り繕ったことを言うのは美穂に対して失礼だと思い、正直に答えることにした。
「美穂は私のとても大切な人でした。我々は東京で一緒に暮らしていました」
稗田はしばらく大輔を観察していたかと思うと、やがてゆっくりと湖の方角に視線を移した。
「神島の天狗岩から湖に身を投げたのじゃ」
「天狗岩?い、遺体は発見されたのですか」
「いや、湖に沈んだままだ。湖の中は深い藻で覆われており、沈んだものは二度と出てこない」
「それではどうして自殺だと分かるのですか」
稗田がその鋭い視線を大輔に向けた。
「天狗岩に娘の靴とハンドバッグが残っておったのじゃ。そしてその日以降、誰も娘の姿を見た者はおらん。状況から判断すると身を投げたとしか考えられん」
美穂が湖に飛び込んだなど、大輔にはにわかには信じがたかった。思わず首を横に振ると、稗田が大輔を睨みつけた。
「あの娘は村を裏切った女だ。自分のせいで不幸な死を遂げた父親を目の当たりにして、罪悪感に苛まされていたとしても無理はない。恐らく自ら命を絶って詫びようと思ったのだろう」
父親の不幸な死?何のことだ。
「診察に出なくてはならないので、そろそろ帰ってもらえるかな」
稗田はそう言うと、大輔を押しよけて扉を閉めようとした。
「待ってください、稗田さん。それでは彼女の墓は」
大輔は必死になって扉を押さえた。
「墓はない」
「えっ、どういうことでしょうか」
「この村に墓はない。村人は皆、亡くなると悼み石とともに尾呂血湖に沈められる。それが遠い昔からの習わしだ。そして、神島に死者の御霊碑が設けられる。巳八子様が毎日祈祷を捧げてくださる中、再び卑埜忌村に生を授かるまでの間、死者の魂は静かに神島で安息の時を過ごすのだ」
「巳八子様?」
「輝龍巳八子様、神島の尾呂血神社本宮の宮司様じゃ。お一人で神島を護っておられる」
稗田の語る風変わりな話に大輔は全くついていけなかった。卑埜忌村の住人は輪廻転生を信じているのだろうか。墓もつくらずに、卑埜忌村という狭い範囲の中での生まれ変わりを。その御霊碑とやらのある神島は村人にとっての聖地なのだろう。何故、美穂はそんなところに足を踏み入れたのだ。大輔は自分も一度神島に渡ってみるべきだと思った。美穂の靴とハンドバッグが残っていたという天狗岩も訪れたかったし、美穂の御霊碑も確認しておきたかった。
「神島に渡るにはどうしたらよいのでしょうか」
「お前のようなよそ者が神島に渡ることは許さん。神島は聖なる場所、限られた者しか足を踏み入れることは許されないのじゃ」
稗田は言下に却下した。
「それに、あの娘の御霊碑はない」
「何故、美穂の御霊碑はないのでしょうか」
稗田はそこで口をつぐみ、しばらく神島を眺めていたかと思うと、再び冷たい視線を大輔に向けた。
「悪いがもう帰ってもらえんかな、忙しいのじゃ」
稗田はそう言うと、大輔の返事を待つこともなく、扉を勢いよくバタンと閉めてしまった。
大輔は稗田医院を後にすると、混乱した頭を整理するためにしばらく湖畔沿いの道を歩いてみることにした。昨日から想像もしていなかったようなことを目にし耳にしたことにより、大輔の思考は著しく惑乱していた。山根家の祖霊舎に安置されていた美穂の霊璽と囲炉裏に焼け残った不気味な黒い手紙。美穂が死んだ、それも自殺したということ。神島に渡った形跡がないにもかかわらず島の天狗岩に残されていた靴とハンドバッグ。遺体を湖に沈めるという奇異な風習。死者の魂が安息する神島の御霊碑。しかしどういうわけか美穂の御霊碑はないという。そして八津神様とは。考えれば考えるほど、頭が混乱してくるばかりだった。
ふと、大輔は自分に注がれている視線を感じた。そちらを見やると、湖畔沿いに立つ古い造り酒屋の日本家屋が目に入った。軒先の杉玉の下で、藍染めの前掛けをした若い店員と客らしき人物が大輔をじっと凝視している。二人は大輔と目が合うと、サッと視線を逸らした。しかし、大輔が通り過ぎると再び背後から突き刺さる視線を感じる。先ほどまでは思考に没入しており周囲の状況に注意が回らなかったが、改めてあたりを観察すると行き交う村人や通り過ぎる商店の売り子たちが皆、大輔を警戒深く観察していることに気づいた。まるで、村人全員で大輔の行動を監視しているかのようだ。よそ者に対するこのようなあからさまな態度は、古い田舎の村ではよくあることなのだろうか。野良犬たちだけが親しげに大輔にまとわりついていた。
村人の視線をかいくぐりながら更に湖畔の道を進むと、やがて舟着き場に出くわした。湖に突き出る形で小さな桟橋が設けられ、十メートルほどの長さの木造の渡し舟がもやい綱でつながれている。舟尾からは一本の長い櫂が突き出ている。桟橋の上では異様な風体の男が神島に向かって仁王立ちしていた。身の丈は一メートル九十センチはあるだろうか、大きな男だった。霧に覆われた神島から吹きつけてくる冷たい風が男の肩まで達するぼさぼさの髪を激しく揺らしている。男は既に壮年に達しているようだが、粗末な身なりの上からでも厚く盛り上がった肩の筋肉の様子が見てとれた。男は大輔に気がついた様子で、ゆっくりと振り返った。濃い眉と顔中を覆う無精ひげの間から鋭いながらも諦観を帯びた瞳が大輔を捉える。大輔は一瞬身構えたが、その男の瞳には敵意は感じられなかった。いや、敵意どころか感情そのものが感じられない。男は大輔に興味を示すこともなく、すぐにまた神島にその視線を戻した。この男が渡しの重男だろうか。男は指示でも待つかのように、ひたすら神島に全神経を集中させている。卑埜忌村に入って以来、ほとんどの村民から常に警戒され敵意すら感じさせるような視線を向けられてきたが、この渡しの大男にとって大輔は全く取るに足らない存在のようだった。
舟着き場を後にしてからもしばらく、その男の寂しげな、感情を全て捨ててしまったような暗い瞳が脳裏に焼き付いて離れなかった。
沖合から吹きつける湿った風が全身に絡みつく。背を丸め、鉛のように重たくなった体を引きずるようにして歩いた。大輔の心は美穂の死を受け入れることを頑なに拒否していた。遺体も発見されず墓もなくただ死んだと言われても、とても納得することはできない。あの快活だった美穂が死ぬわけがない。美穂は今でもどこかで助けを求めているのではないだろうか。美穂の失踪に関して、もう少し情報を集めるべきだ。今のような中途半端な状態ではとても東京に戻る気が起きない。もうしばらくこの村に滞在することにした。
樵荘に戻り女将の姿を探したが、帳場には誰もいなかった。玄関を上がり板張りの廊下を進み食堂を覗いてみる。やはり誰もいない。ふと、向かいの部屋の襖が半分ほど開いていることに気づく。何気なく中を覗くと、女将の後ろ姿があった。壁上部に設けられた白木の神棚の前に正座し、一心に祈りを捧げている。神棚の並びには幾つかの古い写真が掲げられていた。どれも黒い額縁で覆われ、黒いリボンが巻かれている。そこには黒い着物で正装した老人たちの姿が写っており、皆、静かに室内を見下ろしている。恐らくこの家の先祖たちの遺影なのだろう。
ふと、その中に異質なものが混じっていることに気づく。並んで掲げられた黒い額縁の中に一つだけ、真っ白な額縁が混じっているのだ。白いリボンが巻かれたその額には、少年の写真が納められていた。かなり色褪せた古い写真だ。無表情の少年が静かにこちらを見ている。これも遺影なのだろうか。何故、この写真だけ白い額縁に納められているのだろう。
その時、女将が大輔の気配に気づきこちらを振り返った。慌てて立ち上がると、険しい表情を浮かべながら大輔を押し出すように部屋の外へと出てくる。そして、後ろ手に襖をピシッと閉めた。
「何か用かい」
女将の険のある声が廊下に響く。
「実は、あと数日延泊をさせていただきたいと思いまして」
部屋を覗き見していたという気まずさを隠すように、大輔は固い笑みをつくる。女将はそんな大輔を不審そうに睨み上げていた。
結局、部屋は確保できた。樵荘の客室は二階の二部屋しかなかったが、幸い当分の間、大輔の部屋は空いているとのことだったので、とりあえずあと数日、滞在を延長することにした。
部屋に戻ると、いきなりどっと疲れがでてきた。睡眠不足の中、寒風吹きすさぶ湖畔を随分と歩き回っていたせいだろう。しばらく午睡を取ることにした。布団を敷くのも面倒だったので、そのまま直に畳に横たわる。目を閉じるとすぐに意識が遠のいていった。
昔から疲れている時に限って睡眠は浅く、嫌な夢を見る。今は美穂のことで頭が一杯のはずなのに、どういうわけか真由美の夢を見た。深夜のダイニングテーブル越しに大輔に向けられた険のある眼差し。紅いマニキュアで彩られた白い指先が神経質そうに細かく震えている。結婚当初には刻まれていなかった眉間の皺。かすかに漂うアルコール臭。そして、吐き捨てるように呟かれた言葉。
「わたし、負け組の男と結婚した覚えはないわ」
途端に胃の中で苦いものがこみ上げ、粘りつくような汗が首筋から染み出てくる。心の深い部分にかろうじて守ってきた大切なものが、音を立てて崩れはじめる。大輔は何か言い返そうとするが、喉からうまく言葉が出てこない。何を言ったところで、真由美の冷めきった視線に跳ね返されるだけだということは分かっていた。
もがいているうちに樵荘の板張りの天井が目に入った。この六年間、繰り返し見てきたいつもの夢だった。大輔は天井板の木目を見ながら深くため息をついた。寝汗で背中にシャツがじっとりとまとわりついている。その時、ふと人の気配を感じた。寝姿勢のまま横を見ると客室と外の廊下を隔てる襖が僅かに開かれており、その隙間からおさげ髪の女の子が顔を覗かせていた。二つの大きな目が緊張気味に大輔をじっと見ている。小学生だろうか。大輔は上半身を起こすと、少女に向かってウインクをしてみた。途端に少女の顔に安心したような笑みが広がる。まだ人生の憂いや哀しみとは無縁の、真夏のひまわりのような笑顔だ。大輔もつられて思わず微笑んだ。
「おじさんのうなされている声が聞こえたから、いけないとは思ったのだけど覗いてみたの、ごめんなさい」
「構わないよ。君が覗いてくれなかったら、嫌な夢から永遠に覚めなかったかもしれない。君のおかげで現実世界に戻って来ることができたよ」
ふふふ、と少女はさもうれしそうに笑った。愛らしい笑顔だ。
「君、ここの子?」
少女がコクンと頷くと、左右のおさげ髪が勢いよく揺れた。
「お名前は?」
「静香。皆尾静香」
「小学校二年生くらいかな?」
「おじさん失礼ね。もう四年生よ」
静香がツンと口を尖らせる。
「そうか、ごめん、ごめん。おじさんは舘畑大輔」
「知ってるよ。すごい作家先生なんでしょ」
どうしてこの子は俺が小説を書いているのを知っているのだろう。
「すごい先生ではないけど、どうして静香はおじさんが小説を書いていることを知っているの?」
「美穂姉ちゃんが言ってたの」
何だって!この子は美穂に会ったことがあるのか?そうか、美穂も樵荘に泊っていたのか。
「美穂姉ちゃんもここに泊っていたのかい?」
静香は再びおさげ髪を揺らしてコクンと頷いた。
「そう、おじさんが今泊っている部屋。最初、美穂おばさんって呼んだらいきなり頬っぺたをつねられたの。それで美穂姉ちゃんと呼ぶことにしたんだ。美穂姉ちゃん、私に舘畑大輔という名前を教えてくれて、いつかきっと有名な作家になるから覚えておくようにって。美穂姉ちゃんの自慢の恋人なんだって」
いつかきっと日の目を見る時が来るはずよ、という美穂の言葉が頭に蘇る。あらためて強い喪失感に襲われる。
「でも、美穂姉ちゃん、死んじゃったんでしょ」
静香の表情が急に曇った。
「おじさんもまだ信じられないのだよ」
しばらく二人の間に沈黙が流れた。やがて静香が神妙な顔を大輔に向けた。
「おじさんは美穂姉ちゃんのこと、愛していたの?」
静香のませた質問にいささか動揺しつつも、大輔はまっすぐに静香を見やった。
「うん。愛していたよ。とても大切な人だった」
答えた瞬間、過去形で言及したことに気づき、後悔する。俺は今でも美穂を愛している。大輔の言葉を聞き、静香の顔がぱっと明るくなった。小さな前歯が口元から覗く。再び、ひまわりが花開いた。
「いいなあ、私も素敵な人と結婚できるかなあ」
まだ年端もいかない少女の言葉に大輔の頬が思わず緩む。
「君はいい子のようだからきっと大丈夫だと思うよ。ただ、まだ四年生だろ。随分先のことだよ」
すると静香は真顔で大輔を睨み、首を横に振った。おさげ髪が激しく揺れる。
「そんなことないわ。女の子はみんな高学年になると婚約するのよ」
何だって?静香の言っている意味が分からなかった。その時、廊下の向こうから女将の声が響いた。
「よその人に余計なことを言うんじゃないよ。こっちへ来なさい」
その声に叱責の響きを感じとった静香は、慌てて襖を閉めて駆け去っていった。
翌日、女将に書いてもらった地図を頼りに葦原恵美子を訪ねてみることにした。美穂が村を出た後も唯一、手紙のやり取りを続けていた女性だ。
玄関を出た途端、晩秋の冷気に包まれる。今日も空は幾層もの鉛色の雲に覆われている。湖を見やると神島は相変わらず深い霧の奥にその姿を隠している。身を切るような風に地図が飛ばされないように気をつけながら、湖畔から続くなだらかな坂道をゆっくりと上っていく。途中何人かの村人とすれ違った。そのたびに努めて明るく挨拶をするのだが、皆一様に警戒感を持った目で大輔を一瞥するだけだ。道端で体を休めていた野良犬たちだけが嬉々としてしっぽを振りながら大輔にまとわりついてくる。
やがて恵美子の家の玄関に辿り着いた。小さな木造の平屋だが、脇に離れのような別棟が隣接している。何かの作業小屋だろうか。扉の前に佇んでいると、呼び鈴を押す前に扉が開き丸顔のふくよかな女性が顔を出した。オーバーサイズのピンクのトレーナーが良く似合っているかわいらしい雰囲気の女性だった。
「舘畑さんでしょ、お待ちしていました。葦原恵美子です」
恵美子は愛想のよい笑みを浮かべながら、大輔をちゃぶ台の置かれた居間に招き入れた。卑埜忌村に足を踏み入れて以来、ほとんどの村人から露骨な警戒感を示されてきた大輔には、恵美子の歓迎ぶりは少々意外だった。
「今、お茶を入れてきますね」
恵美子が台所へと消えると、大輔は見るとはなしに部屋の中に視線を巡らした。そこには手造りらしき木工製品が溢れていた。眼前の重厚なちゃぶ台もそうだが、箪笥、飾り棚、祖霊舎、座椅子、そして動物や鳥をモチーフにした置物の数々。どれも精緻な技巧が感じられる一点ものばかりだ。やがて恵美子が盆に湯呑みを二つのせて戻ってきた。
「どれも随分と手の込んだ木工製品ばかりですね」
大輔は正面に座った恵美子に向かって感嘆の声を上げた。お世辞ではなく本心だ。
「ああ、これらは皆、主人が作ったものなんです。主人は木工職人をしておりまして。この村では家具のほとんどは手造りなので、結構忙しいのですよ。おかげさまで私達も何とか食べていけます」
そう言いながら恵美子は大輔の前に湯呑みを差し出した。改めて室内の家具を見渡した。どれも見事な工芸品ばかりだ。日頃、大輔が使っている量販店の安っぽい合板家具とは全くの別物だった。
「主人は一日中、隣の離れに籠って作業をしているので、ご挨拶にも出てこなくてすみません」
「いえいえ、こちらが勝手にお邪魔させていただいただけですから、どうぞお構いなく」
恵美子は大輔にお茶を勧めると、自分も湯呑みに手を伸ばした。そして一口すすると、早速、美穂の話をし始めた。
「私、美穂とはずっと同級生だったんです。都会に出てキャリアを積んできた美穂とは違い、もうただの田舎のおばさんですけど」
そう言って自嘲気味に笑う恵美子の目尻に年齢相応の皺が浮かび上がる。若い頃、それなりに異性の目を惹いたであろう面影がまだかすかに残るが、確かにその容色は幾分衰えを見せていた。
「美穂はとても勉強ができる子で、高校の進路指導の先生も県の大学への進学を強く勧めていたんです。美穂も進学に乗り気だったのですが、結局、お父さんに反対されて断念したんです。周りのみんなは、本当にもったいないって言っていました」
恵美子がそう言ってちゃぶ台に目を落とすと、顎のあたりに白い贅肉が浮き上がった。
「美穂のお父さんはどうして反対されたのですか?」
「女は大学なんて行く必要はないって言われたそうです。早く結婚して子供を産むのがいいと。まあ、うちの親も似たようなものでしたが、美穂の場合は間に入ってくれるはずの母親を幼い頃に亡くしているので、直にお父さんと衝突を繰り返していました」
そう言うと恵美子はお茶を一口すすり、再び話を続けた。
「結局、美穂はお父さんと大喧嘩をして、村の古い風習にも馴染めていなかったのでしょう、高校を卒業すると逃げるように村を後にしたんです。それからは私にだけは手紙をくれて、数年おきに近況を報告してくれました。私たち、幼い頃から仲が良かったから」
そこで恵美子は正面から大輔を見やった。
「舘畑さんのことは美穂から手紙で聞いていました。とても才能のある作家の方だと。私、美穂が東京に出てからどんなに苦労をしてきたかをずっと聞いていたので、やっと美穂が幸せをつかむことができたと自分のことのようにうれしかった」
かすかに憧憬を含んだ視線を感じ、大輔は大きく首を横に振った。
「いえ、私はただのしがないフリーライターです。ところで、美穂は何故亡くなったのでしょうか?」
一瞬恵美子は目を見開くと、再びちゃぶ台の上に視線を落とした。
「美穂が自殺をしたなんて、私、いまでも信じられないのです。お父さんの葬儀が終わった後に久しぶりに会ったのですが、その時はとても元気だったのに」
そこで恵美子は言葉を切ると、何か言いづらそうなものを抱えたような表情で大輔を上目遣いに見やった。
「舘畑さんはご存知だったのでしょうか、美穂のお腹のことを」
恵美子が何を言っているのかよく分からなかった。
「何のことでしょか、美穂のお腹のこととは」
そう言葉にした瞬間、心の奥底でざわつくものがあった。
「やっぱり、言っていなかったのね」
恵美子の瞳に憐憫の影が浮かび上がった。大輔は恵美子が言わんとしていることを、頭より先に体で察知した。その先を聞きたくなかったが、恵美子の言葉は容赦なく続く。
「美穂は舘畑さんの子供をお腹に宿していたんです。美穂自身も卑埜忌村に帰ってきてから気づいたそうです」
全身の血管がぎゅっと収縮するのを感じた。網膜に映る室内の景色が急に暗くなる。何ということだ。俺は美穂だけでなく、自分の子供までも失ったというのか。大輔は目を閉じ、大きく息を吸った。閉じた瞼の中から涙が溢れ出てくるのが分かった。やがて胸が苦しくなり、息を吐きだしていなかったことに気づく。深く息を吐くと、目尻から涙が一筋流れた。
「舘畑さん、何と言っていいか、本当にご愁傷様です」
恵美子の声は大輔を覆う悲しみの膜の外からぼんやりと聞こえてくる。二人は黙ったまま、空になった湯飲みをただ見つめていた。
「恵美子、お客さんかい」
突然、奥の襖が開き、作業服姿の男が顔を出した。年の頃は四十くらいだろうか、色白の端正な顔立ちの男だ。
「あっ、啓一さん」
恵美子が驚いたように振り返った。
「珍しいわね、お仕事中に離れから出てくるなんて」
「ああ、ちょっと休憩しようと思ったら人の声が聞こえたもので」
男はそう言うと、大輔の方を見やり爽やかな笑みを浮かべた。
「葦原啓一です。どうぞよろしく」
啓一はペコンと頭を下げると、柔らかそうな髪をかき上げた。
「主人です」
恵美子は横からそう付け加えると、そそくさと台所に三つ目の湯飲みを取りに行った。穏やかな笑みを浮かべている啓一を、大輔は改めて見やった。くっきりとした二重とスッと通った鼻筋、男から見ても美しい男だった。
結局、啓一も腰を下ろし、話の輪に加わることになった。
「今回の美穂ちゃんのことは、僕たちも本当に心を痛めているのです。もっとできることがあったのではないかと」
啓一はそう言うと、整った瞳を大輔に向けた。
「美穂ちゃんは随分と悩んでいたのではないかと思うのです」
咄嗟に恵美子が啓一を見やる。
「悩んでいたとは?」
大輔も思わず聞き返した。
「お父さんのことです。美穂ちゃんが村を出たことによって、巌さんに黒い手紙が届くようになっていたことはご存知でしょうか」
黒い手紙?囲炉裏の中の燃え残った手紙の情景が頭に蘇った。
「いえ、あの、黒い手紙とは?」
「ご存知ないですか。まあ、村の外の人は知らなくて当然でしょう。お恥ずかしい話ですが、黒い手紙とは卑埜忌村に古くからある風習で、言ってみれば村八分のシグナルのようなものです。舘畑さんも既にお気づきかもしれませんが、卑埜忌村にはかなり閉鎖的なところがありまして、昔からなるべく隣村とは関わらずに村の中だけで生活の全てを完結させてきたという歴史があります。当然、村人にも一生村にとどまって生活することが求められてきました。だから美穂ちゃんが村を飛び出した時には、巌さんは周囲の村人から強い非難をうけたのです。娘の教育がなっておらんと。そして村人たちは無記名の黒く塗りつぶされた手紙を巌さんに送りつけはじめたのです。これは村に伝わる旧習で、お前はもう共同体の一員とは認めないという意思表示なのです。毎年黒い手紙が送り続けられる限り、村八分は続くのです」
「家族が村を出ただけで村八分になるというのですか」
淡々と説明する啓一の話に驚き、思わず大輔の声が上ずった。啓一は無表情のまま、ただ大輔を見つめている。
「それで、村八分になるとどうなるのでしょうか」
啓一は湯呑みを口に持っていき、一口ごくりと飲み干した。静かに湯呑みをちゃぶ台に戻すと、再び語りだした。
「村人との全ての交流が閉ざされます。回覧板は回ってこなくなり、ごみも収集されません。祭りや集会からも排除されます。そして商店は物を売らず自給自足の生活を強いられます。病気になっても医者は面倒をみません」
「それでは巌さんは危篤状態の時にも、医者には診てもらえなかったのでしょうか」
「残念ながら」
ポツリと啓一が呟いた。美穂は自分のせいで村八分になった父親が、危篤時にも医者に診てもらえず一人孤独に死んだことをどう受け止めたのだろうか。その時の美穂の心情を察すると心が痛む。
「美穂ちゃんは巌さんの死を目にして、強い自責の念に駆られていました。妊娠をしている時は情緒不安定になりがちだと言いますが、それらが相まって衝動的に自らの命を絶ってしまったということは十分に考えられます」
理路整然と語る啓一の態度が癪だったが、大輔も同じことを考えていた。しばらく言葉が途絶えた。三つの湯飲みはいつの間にか空になっていた。やがて啓一が沈黙を破った。
「村八分でも最後に葬式だけはあげてもらえます。しかし遺体は尾呂血湖に沈められるだけで神島に御霊碑は作られません。だから巌さんの御霊碑はありません。つまり、死後その魂はもう卑埜忌村に戻ってくるなということです。行き場を失った魂は永遠に彷徨うことになります。これは村人にとっては、とても恐ろしいことです」
啓一はそこで湯呑みに手を伸ばしたが、空だということに気づき恵美子を見やった。恵美子が慌てて台所に向かう。
「美穂ちゃんは自分の死後にも神島に御霊碑が作られないことが分かっていたので、直接神島の地で命を絶つことを選んだのではないでしょうか。他の村人と同じように死後も神島にとどまることができるように願って」
啓一の推論にはとても納得できなかった。美穂の父親はいざ知らず、美穂は死後に村にとどまりたいなどとは思っていなかっただろう。それに死後の魂の存在など美穂が信じていたとは思えない。
「美穂はどうやって神島に上陸したのでしょうか。渡し舟を使った形跡はないと聞きましたが」
異議を唱える代わりに、心に引っかかっていた疑問を投げかけた。
「私もわかりません。この村では重男以外に舟を持っている者はいないはずです。誰も神聖な尾呂血湖に勝手に漕ぎ出ることは許されていません。どうやって神島に渡ったのかは今でも謎のままです」
そう言うと、啓一催促するように台所を見やった。
やがて恵美子がお盆に新しい湯呑みを三つのせて戻ってきた。それからしばらくは、恵美子の美穂にまつわる思い出話が続いた。共同で作成した夏休みの自由研究、秋の村祭での夜店巡り、手作りお菓子の交換など、二人がいかに仲良かったかを示す逸話が延々と続いたが、どれもたわいない話ばかりで大輔はただ頷きを繰り返すばかりだった。ふと傍らの啓一を見ると、冷めた様子であらぬ方向を見ている。やがて啓一がちらちらと自分の腕時計を覗き始めたので、大輔はそろそろいとまを告げることにした。
玄関まで見送りに出てきた恵美子がふと呟いた。
「私、誰かに目撃されることを恐れて、最後まで巌さんのお見舞いに行かなかったんです。村八分の家に出入りしているところを見られると、自分も村八分にされてしまう恐れがあるので。巌さんは親友のお父さんなのに、何もしてあげられませんでした。今ではそのことを深く後悔しています」
俯く恵美子に大輔は返す言葉が見つからず、ただ頷いた。
「でも、勇気がある人がいるのですね。巌さんの死後、遺品整理にお伺いした時に、誰かが病床の巌さんに食事を届けていた形跡を発見しました。折詰の弁当の容器が幾つか残っていました」
そうか、村人の中には村八分に賛同していない者もいたということか。必ずしも村の人々は旧習に対して一枚岩ではないのかもしれない。黒い手紙などという陰湿なしきたりを耳にし、重く沈んでいた心がかすかに軽くなるのが分かった。
思いのほか恵美子の話に長時間付き合ってしまったようで、葦原家を出た時には既に昼時にさしかかっていた。樵荘では朝晩の食事しか供されないので、大輔は昼食を食べられる店を探すことにした。
あてもなく湖畔に向かって坂を下っていると、畦道の脇に立つ妙な建物に遭遇した。きつく勾配をつけた茅葺屋根のてっぺんには神社の鰹木のような丸太が並んでいる。三方の壁は板材で覆われ、正面の木の扉は観音開きのように両側に大きく開かれている。そして数段の木造階段を上った先に広がる畳の間。神社のようだが、その建物はほんの八畳ほどの大きさしかない。まるでミニチュアの神社だ。正面に回って中を覗くと、畳の間には白衣を着た若い女が壮年の男と座卓を挟んで向かい合って座っていた。そして驚くことに、座卓の上にはパソコンが置いてあるではないか。今の時代パソコンなど珍しくもないが、卑埜忌村に入って以来タイムスリップのような時を送っていた大輔には、その白い機械は異物のように映った。
白衣の女は慣れた様子でキーボードを叩きながら、時折、向かいの男に何かを語っている。男はまるでご神託でも受けるかのように神妙な顔で正座をし、女の一言一句に耳を傾けていた。
やがて女が大輔に気づき、こちらを睨んだ。男も同様に大輔を睨みつける。大輔は慌てて目を逸らし、その場を立ち去ることにした。
幸い、湖畔に戻ると一軒のひなびた食堂を見つけた。長年の紫外線にさらされすっかり色褪せた看板には、かろうじて門脇食堂という文字が読み取れた。その下では退色した藍色の暖簾が揺れている。店舗脇の草地の駐車スペースには何台かの配送トラックが停まっており、ナンバープレートを見ると境港市や鳥取市といった地名が目立った。恐らくここは村外から定期的に物資を運んでくるドライバーたちが利用する食堂なのだろう。案の定、暖簾をくぐっても刺すような視線を浴びることはなかった。大輔はほっと肩の力を抜いて店内を見回した。むき出しのコンクリートの床に粗末なテーブル席が四つと、あとはカウンターに数席あるだけの小さな店だ。ビールメーカーから供与された水着カレンダーの他は何の飾り気もない古い店だったが、日常のこまめな掃除が行き届いている様が感じられた。店内は作業服やつなぎを着た男たちで混んでいたが、幸いカウンターの隅の一席を確保することができた。奥の厨房では白髪交じりの髪を短く刈り込んだ老齢の男が鍋をかき回しており、色褪せたジーンズをはいた化粧気のない女が忙しく客席に料理を運んでいる。女は大輔と同年代くらいだろうか。壁に掲げられた手書きのメニューを一通り眺め、カレーライスを頼むことにした。どんな店で食べても最も外す確率の小さい料理だ。女は注文を受けると、厨房に向かって、
「お父ちゃん、カレー一つ」
と声を発した。親子なのだろうか。
男たちは皆、定食をかき込むと慌ただしく店を飛び出していく。
「良枝ちゃん、また来月の配送の時に顔だすわ」
良枝と呼ばれた女はレジを操作しながら、さばさばした笑顔で男たちを見送っている。やがて良枝がカウンターにカレーを運んできた。その瞬間、意外にも鋭利なスパイスの香りが鼻をついた。大輔はこんな片田舎の食堂で供されるカレーは当然、出来合いのルーを使い蕎麦つゆなどで適当に味付けをした寝ぼけた味の代物だとたかをくくっていたのだが、どうも様子が違うようだ。紙ナプキンの巻かれたスプーンをほどき、一匙カレーを口に運ぶ。途端に何とも言えない深みのある辛さが舌の上に広がり、複雑に絡んだスパイスの香ばしさが鼻に抜けた。スパイス以外にも何か滋味深い味が風味の土台を構成している。それらの味が立体的にバランスよくまとまり、程よいハーモニーを形成している。それは東京でもなかなか巡り合うことのない、本格的なスパイスカレーだった。思わずカウンターの奥を見上げると、厨房の男と目が合った。まるで、俺のカレーの味はどうだ、と言わんばかりのどや顔で大輔を見下ろしている。
「親父さん、このカレー、かなり本格的なものですね」
大輔は思わず、感嘆の声を上げた。
「お前さん、少しは味が分かるようだな」
男は満足げに口角を上げた。
「俺は市販のルーなんか使わずに、八種類のスパイスを駆使して風味の土台を作っている。しかし、カレーの味に本当の奥行きを作るのは実はスパイスじゃないんだ」
男は、先を聞きたいか、というような視線を投げてきた。
「確かにスパイス以外の、何か滋味あふれる深みのある味が効いていますね。これは何なのでしょうか」
思わず興味をそそられて質問すると、男は満足げに頷いた。
「自然農法で採れた玉ねぎと、山に自生するエノキタケさ。肥料も農薬も使わずに土壌の微生物の力だけで育った玉ねぎはそこらのものとは甘さや風味の力強さが全く違う。カレーの土台となる下味を形成するためには、スパイスを加える前にまず玉ねぎを飴色になるまでしっかりと炒める必要があるのだが、肥料や農薬に頼った脆弱な玉ねぎだと長時間の火力によって甘みも風味も飛んでしまう。その点、自然農法で育った玉ねぎは強いぞ。炒めれば炒めるほど凝縮した甘みが滲み出てくる。そしてスパイスを加えた後に山から採ってきたエノキタケを加える。山に自生しているエノキタケは驚くほどの滋味がある。あんたが普段口にするようなエノキタケは大概工場のクリーンルームで作られたものだ。自生のものとは別物だ。あんなもの、風味も何もあったもんじゃない。採ってきたエノキタケは一度乾燥させる。そうすると旨味成分が更に濃厚に閉じ込められる。それを仕上げに加えしっかりと煮込むのさ。野生のエノキタケの滋味がスパイスにほどよく絡み、これがいい隠し味となる。俺が独自に編み出したレシピさ」
「また源三さんの蘊蓄が始まったな」
レジで会計をしていた青い運送ユニフォーム姿の男がからかうように横から声をかけた。
「うるせえ、お前ら田舎もんには俺の料理の味は分からんだろうよ」
源三が毒づいた。
「確かに俺は田舎もんだが、少なくともここよりは開けた境港の出身だ。源三さんこそ、卑埜忌村から一歩も出たことのない正真正銘の田舎もんだろうが」
ユニフォーム姿の男が言い返すと、源三は口をあけて笑った。言葉はきついが、二人のやりとりには親愛の温もりが行き交っている。
男が店を出ていくと、源三は再び大輔に視線を戻した。
「やっぱり東京の人は舌が肥えているな。俺のカレーの味が分かるんだから」
源三は満足げに何度も頷いた。
「何故私が東京からだと?」
「あんた、舘畑さんって言うんだろ。村中の者が知っているさ。こんな狭い村だから、あんたみたいなよそもんがうろついていたらすぐに評判になるさ」
「お父ちゃん、お客さんによそもんなんて言ったら失礼じゃないか」
横から良枝が口を挟んだ。
「そうかい、悪かったな。ただ安心してくれ。あんたがよそもんだろうが何だろうが、味の分かる客だったらいつでも歓迎だ。こんな閉鎖的な村だ、嫌な思いもしたかもしれないが、少なくとも俺と良枝は外の人間にも慣れている。いつでも気軽に食べに来な」
傍らで良枝も大きく頷いている。この三日間、重苦しく両肩を圧迫していた何かがスッと霧散するのを感じた。
随分と店内が空いてきた頃、ふと斜め後方からの強い視線を感じた。何気なく振り返ると、隅のテーブル席に座っている一人の男と目が合った。他の客とは異なり、小皿料理を何品か並べてコップ酒を傾けている。年の頃は大輔より少し若いくらいだろうか、農作業用の鼠色のつなぎ服に長靴という出で立ちだ。男は大輔と目が合っても悪びれずにこちらを睨み続けている。男の瞳に単なる好奇心を越えた敵意を感じ取り、大輔はそっと視線をカウンターに戻した。
カレーライスを平らげる頃には、店内の客は大輔と先ほどのつなぎ服の男だけになっていた。やがて男が椅子をずらして立ち上がる音が背後に響く。大輔は振り返らずに、男がレジを済まして出ていくのを待った。しかし男の足音はレジには向かわず、そのまま大輔の背中に向かって近づいてくる。足音がすぐ背後で止まったかと思うと、男は大輔の隣のカウンター席に投げやりな態度で腰を下ろした。手には徳利とお猪口を持っている。
「舘畑さんとやら、一杯どうだい」
酒臭い息を吐きながら、男がお猪口を大輔の胸元に突き出した。男の血走った瞳と目が合った。そこには明らかな敵意が浮かび上がっていた。何故この男は俺に絡んでくるのだろう。
「私は結構です」
大輔はなるべく相手を刺激しない声遣いを心掛けたつもりだったが、男は感情を逆なでされたかのようにいきり立った。
「あんた、何、気取ってんだよ」
男がそう怒鳴りながらカウンターを拳骨で叩くと、楊枝立ての容器がガチャンと倒れた。
「俺の酒は飲めないっていうのか」
その時突然、男の頭から顔にかけて勢いよく水が滴った。いつの間にか背後にいた良枝がコップの水を男の頭からぶっかけたのだ。
「冷てぇ、何しやがるんだ」
慌てて振り返る男を見下ろしながら、良枝が一喝した。
「こら、純平、調子に乗るんじゃないよ!ただでさえ昼酒を大目に見てやっているというのにさ。これ以上この人に迷惑をかけたら、あんた、出入り禁止にするよ!」
純平と呼ばれた男は良枝の迫力に圧倒されたように縮こまった。良枝は純平の二の腕を乱暴に引っ張って立ち上がらせると、出口の方へと突き飛ばした。
「当分、あんたには酒は出さないからね、覚えときな」
純平は振り返ると、大輔を一瞥して小さく呟いた。
「美穂の奴、一人で死にやがって」
純平はふらつきながら出ていった。良枝は戸口で仁王立ちしながら純平の姿が消えるのを確認すると、ゆっくりと振り返った。
「舘畑さん、すまなかったね。嫌な思いをさせて」
さばさばした笑顔が大輔に向けられた。
「いや、別に、大丈夫です」
大輔はほれぼれとした目で良枝を見上げた。見事な酔客さばきだった。良枝は何事もなかったかのようにレジ脇の定位置に戻ると、小さく溜息をついた。
「あたしは小学校の頃から純平を知っているのだけど、あいつ、根は悪い奴じゃないのさ。元々は心の優しい子でね、あたしにとっては弟分みたいな存在だった」
良枝はそう言うと、カウンター脇に積んであるコップを一つ手に取り蛇口から水を注いだ。そして半分ほど勢いよく飲み干すと、再び大輔に視線を戻した。
「あいつ、美穂ちゃんが失踪してからすっかり変わっちゃって」
父親から美穂に送られた手紙の文面が突然、脳裏に蘇る。確か、純平君は自暴自棄になり、と書いてあったはずだ。今の男がその純平か。あいつと美穂は一体どういう関係なのだろうか。良枝は大輔の疑問を察したかのように、言葉を続けた。
「純平と美穂ちゃんは婚約していたのさ」
良枝がさらっと口にした言葉に大輔は一瞬、耳を疑った。美穂が婚約していただと?
「その婚約者が村から失踪しちゃったので、あいつ、一時はうつ病状態になっちゃって。そりゃ無理もないさ、美穂ちゃんといえば、あの学年では恵美子ちゃんと並んで男の子たちのあこがれの存在だったからね。そんなマドンナと婚約できて有頂天だったのに、突然、相手がいなくなっちゃうんだもの」
「そういえば恵美子ちゃんは昔の面影がすっかりなくなっちまったな。この前、エノキダケを採りに山に入った時、美穂ちゃんと恵美子ちゃんが連れ添って峠に向かうところにばったり出くわしたんだ。恵美子ちゃんは何だか肉がついて随分と貫禄がついていたぞ。相変わらず溌溂と若々しい美穂ちゃんと並ぶと、恵美子ちゃんはどうみてもただのおばさんだなあ。花の命は短いとはこのことだ」
そう言うと、カウンターの奥で源三が舌を出した。
「お父ちゃん、失礼なことを言わないの。葦原さんに怒られるよ」
良枝に窘められ、源三が刈り込んだ頭を掻く。
「源三さん、それはいつのことですか」
大輔は思わず横から口を挟んだ。
「さあ、いつだったかなあ。確かカレーの仕込みをする前日だったから、先週の火曜日だ」
先週の火曜とは十一月八日、つまり美穂が死んだとされる日の前日のことだ。
「純平の奴、ここ数年は何とか立ち直って真面目に畑仕事に精を出していたのさ」
大輔の疑問には全く注意を向けず、良枝が話を続けた。
「ところが今回、突然美穂ちゃんが帰ってきたことで、また未練が頭をもたげてきたらしく、巌さんのお葬式の後に随分と美穂ちゃんに言い寄っていたらしいのさ。無理もないよ、だって美穂ちゃんは昔よりも更に魅力的ないい女になっていたんだから。髪なんか金髪にしちゃって、まるで西洋のお姫様みたいだったよ。でも結局ふられたらしい。それであいつ、今度は物騒なことを言い出したのさ」
良枝が眉間に皺を寄せながらため息をついた。
「物騒なこと?」
思わず体を乗り出して良枝の言葉を待った。
「そう、物騒なこと。あいつ、美穂ちゃんと一緒に無理心中するって言い出したのさ。昔から変に純粋なところがあって、きっと思いつめちゃったのよ。馬鹿なことは考えるなと一喝してやったのだけど、最後までストーカーのように美穂ちゃんの後を追いかけていたのさ。そしたら美穂ちゃんが一人で湖に身を投げちゃっただろ。あいつ、また裏切られたと絶望して、多分それが原因でやめていた酒に手を出すようになっちまったんだよ。そこへ憎き恋敵が現れたもんだから、あいつが取り乱しちゃうのも分からなくはないさ」
「良枝さん、美穂が湖に身を投げたというのは本当なのでしょうか」
大輔はすがるような視線を良枝に向けた。良枝は幾分憐憫の色を含んだ瞳でカウンターの大輔を見下ろした。
「舘畑さん、今回のこと、あんたもつらいだろうね。よく分かるよ」
そう言う良枝の表情には心の底からの同情が溢れていた。
「湖に身を投げたところは誰も見ちゃいないさ。だけど、神島の森の中を思いつめた表情で歩いていたところは、あたしの姪の小百合が目撃している。あの目立つ金髪だろ、すぐに分かったって言っていた。小百合もたまたまその日、尾呂血神社を訪れていたのさ」
大輔は森の中を一人歩く美穂の姿を想像してみた。思いつめたような陰りのある表情。「とうちゃん、ごめん」と涙する美穂の寝顔がその姿に重なる。突然目頭が熱くなり、思わず顔を背け目を閉じた。客のいない店内に沈黙が流れる。良枝がそっと水の入ったコップを大輔の前に置いてくれたのが分かった。
しばらくしてから深く息を吸い、水を一口含んだ。ようやく落ち着いてくると、今度は新たな疑問が湧いてきた。何故、そんな若い頃から美穂に婚約者がいたのだろうか。美穂が村を出たのは高校を卒業してすぐのはずだ。
「良枝さん、美穂が村を出たのは十八の頃のはずですが、一体幾つの時から彼女は婚約をしていたのでしょうか」
良枝は一瞬、間を置いて源三を見やった。それから頬に手を当て、何かを思案している様子を見せた。やがてゆっくりと口を開いた。
「舘畑さん、卑埜忌村では女は初潮を迎えると神島の尾呂血神社で婚約者を決めてもらうことになっているのさ。輝龍様が最適な縁組みを取り決めてくれるというわけ。ずっと昔からそういうしきたりなのさ。だから美穂ちゃんも中学に上がる前には当時高校生の純平と婚約していたんじゃないかな。」
「えっ、神社が結婚する相手を決めているのですか?」
大輔は思わず素っ頓狂な声を上げた。大輔の反応を予期していたかのように、良枝は何回か頷いた。
「舘畑さん、そんなに驚くことじゃないよ。一昔前は日本中どこでも親や村の有力者が決めてくれた相手と結婚するのは当たり前のことだったはずよ。まだ人を見る目も養われていない若者同士が勢いでくっつくより、信頼できる確かな人が決めてくれる相手と一緒になったほうが長い目で見たら安心だと思わないかい」
大輔はとても同意できず、首を傾げた。良枝は大輔が黙っていることに勢いづき、更に言葉を続ける。
「あたしみたいな何のとりえもない女が結婚できたのも輝龍様のお陰さ。そうでなきゃ、達ちゃんみたいに甲斐性のある男と一緒にはなれなかったと思う。あたしは自慢じゃないけど男にもてるタイプじゃないし。輝龍様には感謝しかないのさ。今じゃ、いい義父ちゃんにも恵まれてさ、ふふふ」
源三が厨房で咳払いをした。
「俺の息子、達也は山で木を切っている。俺も若い頃は木こりで飯を食っていたんだが、達也が一人前になってからは山を下りたんだ。良枝はうちの嫁だ。気の強いところはあるが、まあまあの嫁だよ」
「珍しいね、お父ちゃんがあたしを褒めるなんて。何にも出ないからね」
良枝が上気した顔を崩した。
「輝龍様とはどんな人なのでしょうか」
大輔は卑埜忌村に来てから度々耳にする輝龍という人物について尋ねてみた。どうもこの村では特別な存在として崇められている人物のようだ。レジ台に寄り掛かっていた良枝はそっと佇まいを正すと、大輔を正面から見据えて話し出した。
「輝龍家は代々神島の尾呂血神社の宮司を務めている家系で、現在の宮司は巳八子様。あたし、巳八子様は本当に神の子なんじゃないかと思っているのさ」
良枝はかすかに恍惚の表情を浮かべながら語り始めた。
良枝の話によると、輝龍家は奈良時代よりさらに前から続く由緒ある家柄で、代々神島の尾呂血神社の宮司職を世襲してきた。戦後は輝龍秀全が長く当主を務めてきたが、還暦も近づいたある嵐の晩、稲妻が激しく光り輝く中、尾呂血神社の鳥居の下で一人の女の赤子が産声を上げているのが発見される。その赤子は巳八子と名付けられ、神から授かった大切な子として秀全に引き取られた。秀全には当時二十八歳になる一人息子の秀胤がいたが、気性が荒く剛直な秀全にとって、おとなしく野心も感じられない秀胤は跡取りとしては物足りなく、日頃から疎んじられていた。やがて秀全は巳八子を輝龍家の正式な後継ぎとすることを決める。その結果、秀胤は神島を出て湖畔に立つ分社の宮司として今日に至る。
「巳八子様はあたしより幾つか年下なのだけど、子供のころから周りの子とは少し違う雰囲気を持っていたのさ。あれは生まれ持ったオーラと言っていいかもしれないね。透き通るほどの白い肌と漆の様に艶やかな黒髪が印象的で、幼い頃から皆が一目置く存在だった」
良枝は遠くを見るような目でしゃべり続けた。
「確かあれは巳八子様が十歳になられた頃だったとおもうけど、神島の森の中に突然現れた白い大蛇にふくらはぎを噛まれたんだよ。巳八子様は高熱を出して寝込んだのだけど、秀全様は医者を呼ぶことを拒み、そのまま放っておくことにしたのさ。秀全様がおっしゃるには、これは八津神様に特別な力を授けられるイニシエーションなので自分の力で治癒しなくてはならないと。結局、巳八子様は一週間ほど寝込んだ後に何事もなかったように目を覚ました。そして、その後の巳八子様は更に神々しいオーラを纏うようになったのさ。あの深く澄んだ瞳で見つめられると、誰もが心の内までを見透かされているような気になるものさ。巳八子様の前では嘘やごまかしは一切通用しない。不思議なもので動物も皆、巳八子様にはよく懐いたものだよ。いや、あれは懐くというよりはひれ伏して従うと言った方がいいかもしれないね。それまで騒いでいた動物たちも皆、巳八子様が通ると首を垂れるように神妙になるのだから。あたしは巳八子様には神が宿っていると信じている」
良枝はうっとりとした表情で言葉を結んだ。
「巳八子様も初潮とともに婚約をしたのですか」
大輔のいささか不躾な質問に良枝は我に返ったように振り返る。
「いいや、輝龍家の女性だけは二十歳になった時に輝龍家当主に結婚相手を決めてもらうことになっているのさ。本当だったら秀全様がお決めになるはずだったのだけど、巳八子様が二十歳の時に突然、秀全様が神隠しに遭われてしまって、結局、巳八子様は未だにお一人身のままなのさ」
「神隠しですか?」
大輔が訝しげな声を上げた。
「そう、神隠し。秀全様は突然、消えてしまったのさ。誰も詳しいことは知らない」
良枝は神隠しという言葉を日常に起こる何でもないことのように使った。そしてさも残念といった様子で首を横に振っている。
「巳八子様もとてもよくやってくれているよ。確か今年で三十七になるはずだけど、相変わらずの美人だし」
厨房から口を挟んだ源三を、良枝がキッと睨みつける。
「お父ちゃん、巳八子様は美人なだけじゃないよ。秀全様に勝るとも劣らない逸材だよ。宮司を継がれてからは、あたしたち村人が時代に置いてけぼりにならないようにと、開明院をお作りになってくださったじゃないか。あれは秀全様にはなかった発想だよ」
「確かに良枝の言うとおりだ。俺も新しいレシピを編み出すために随分と開明院のお世話になったものだ。あそこがなけりゃ、今のカレーの味は出来なかったよ」
源三が厨房から顔を乗り出してきた。
「開明院とは一体何ですか?」
会話についていけない大輔を二人が同時に見やる。
「開明院はあたしたちが知りたいことを何でも教えてくれるところ。蒙導師に聞くだけで何でも答えてくれるのさ」
「良枝、お前のその説明じゃ、舘畑さんが理解できねえだろ」
「そうかい、悪かったね」
良枝が不貞腐れたように横を向いた。
「舘畑さん、俺が説明してやるよ。開明院には衛星通信アンテナが取り付けられていて、インターネットに接続できるようになっているんだ。でも、それだけじゃねえ。蒙導師が俺たちに代わって調べたいことを何でも検索してくれる。その上、その結果を親切に嚙み砕いて教えてくれるのさ」
「蒙導師には学校の成績が優秀なほんの一握りの者しかなれないのさ。美穂ちゃんだったら多分、いい蒙導師になれてたと思うよ」
良枝が機嫌を直して会話に加わってきた。
「でも、そんなまどろっこしいことをしないで、各自の家にインターネットを繋げた方が便利ではないでしょうか。そうすればわざわざ人に頼らなくても、いつでも自分で好きに利用できるわけだし」
思わず浮かんだ疑問を口にした。
「だって危ないだろ」
良枝がすかさず返答する。
「えっ、危ないって、何が?」
「インターネットは怖いところだって言うじゃないか。あたしみたいなのが迂闊にそんなところに入っていったら、とんでもないことに巻き込まれちまうよ。テレビでよくやってるだろ。詐欺に遭ったり違法請求されたりしてお金を盗られちまう事件がさ」
「俺みたいな老いぼれにとっては、知りたいことを蒙導師が手際よく検索してくれて、それを噛み砕いて教えてくれる方が楽なんだよ。何か調べたいことがあっても、それをどう調べていいか分からないしな。出来のいい人間を通して教えてもらうのが一番なのさ」
当然といった様子で源三が何度も大きく頷いた。
「それに、各自が勝手にインターネットを使うようになったら、馬鹿な奴がとんでもないことを調べようとしたりするだろ。蒙導師はちゃんとそういう場合は検索を却下してくれるのさ。巳八子様は本当に賢い仕組みを作ってくれたものさ」
「それに引き替え、秀胤様のところの秀栄はしょうがないな、ぼんくらで。巳八子様と同い年のくせに雲泥の違いだ」
厨房から源三が口を挟むと、良枝も大きく頷いた。
「秀栄っていうのは分社を任されている秀胤様の一人息子。子供のころからひねくれた意気地なしで、巳八子様とは天と地ほどの差があるボンボンよ」
「まあ、幼い頃から何かにつけてあの巳八子様と比べられたんじゃ、ひねくれもするだろうよ」
源三が幾分の同情を含んだ声を発した。
「秀栄は子供ができる前に奥さんを病気で亡くし、今は男やもめなのさ。輝龍家の血筋を絶やさないために早く再婚すればいいのに、あいつ、最近では節操なく恵美子ちゃんに色目を使っているらしい。葦原さんにばれたら大変だよ。まったくどうしようもない奴だよ」
良枝が吐き捨てるように呟いた。
大輔は門脇食堂を後にすると、あてもなく村の中を足任せに歩いてみた。相変わらず、すれ違う村人たちは警戒心を帯びた目で大輔のことをじろじろと見やったが、大輔の方にも徐々に免疫ができてきたのか、今ではあまり気にならなくなっていた。源三や良枝が温かく受け入れてくれたことも少なからず影響しているのだろう。そして気が向くと、まとわりついてくる野良犬たちを撫でたりしながら、重苦しい灰色の空の下をただあてもなく歩いた。
考えまいとしてもどうしても美穂のことが頭に浮かぶ。進学することも拒否され、幼い頃に決められた婚約者と狭い世界で生きていくことを強いられるということは、活発で好奇心旺盛な美穂にとっては息が詰まることだったのだろう。しかし一方で、唯一の肉親である父親が自分の失踪のせいで村八分になり、看病もされぬまま孤独に病死したことは美穂の心に大きな傷を残したはずだ。そして予期せぬ妊娠。真由美との苦い経験から新しい結婚に臆病になり中途半端に同棲生活を続ける大輔に対して妊娠の事実をどう伝えるべきかを悩み、そして新しく宿った命とどう向き合うべきかを美穂は一人で抱え込んでいたのではないだろうか。美穂の心は大輔が思うよりもずっと不安定に揺れていたのかもしれない。明るく快活に見える美穂だったが、その心の内には繊細なものを抱えていたのかもしれない。大輔は、美穂が自ら命を絶ったということが必ずしも考えられないことではないようにも思えてきた。
その時ふと、むせび泣くような笛の音が湖面を渡る風に乗って流れてきた。雅楽特有の優雅さと厳粛さを帯びた音色だ。いつのまにか桟橋に来ていた。今日は重男の姿も渡し舟も見当たらない。その代わり桟橋の上には中年の男女が佇み、何やら心配そうに湖の彼方を凝視している。二人の視線の先にある神島は相変わらず深い霧に覆われたままだ。笛の音はその霧の奥からそっと流れてくる。時に強まったり弱まったりしながら、聞く者の心の奥底にまで沁みわたるように広がっていく。まるで時空を超えて遠い過去から流れてくる古の調べのように。
突然、乳白色の霧の中から別の種類の音が聞こえてくる。ぎっ、ぎっ、ぎっという規則正しい音。音はだんだんと近づいてくる。突然、霧の中から木造の舳先が姿を現した。渡し舟だ。やがて舟の全貌が露わになる。舟尾では重男が長い櫂を規則正しく左右に動かしている。櫂が動く度に重男の長い髪が揺れ、ぼろきれの様な服から覗く二の腕の筋肉が大きく盛り上がる。そして渡し舟の中ほどには、着飾った一人の少女が緊張気味に座っている。真っ赤な着物を纏い、きれいに束ねた髪にも赤い簪が見てとれた。少女は膝の上に置かれた丸い筒を大切そうに両手で握っている。
やがて舟が桟橋に横付けされると重男は少女を軽々と抱え上げ、桟橋の上へと移動させた。両親だろうか、桟橋で待っていた男女が駆け寄り少女を交互に抱きしめる。途端に少女の顔に安堵の色が広がっていく。やがて父親らしき男が少女の抱えていた丸筒の蓋を開け、中から一枚の紙を取り出した。母親らしき女も横から男の手元を心配そうに覗き込む。二人はしばらく無言で紙を見つめていたが、やがてお互いに目を合わせると納得したように何度も頷いた。
大輔には想像がついた。恐らく少女は初潮を迎え、尾呂血神社で将来の結婚相手を決めてもらってきたのだろう。少女のあどけない顔が、山根家に残されていた美穂の幼い頃の写真の姿と重なった。美穂もあのように緊張して舟に揺られていたのだろうか。桟橋では父親が待っていてくれたのだろうか。そして、父親はその温かい胸で美穂を抱きしめてくれたのだろうか。笛の音は大輔の胸の奥深くにまで染み込み、いつまでも心を揺さぶり続けた。
日暮れ前に樵荘に戻り、ひと風呂浴びた。糊のきいた浴衣の上に丹前を羽織って食堂に下りていくと、今日も大輔以外に客はいなかった。既に食卓の上に用意されていた山菜の揚げ浸しに目が留まると、無性にビールが飲みたくなった。卑埜忌村に来てから精神的に随分と翻弄されてきたが、ようやく気持ちの整理がつき始めているのかもしれない。女将にビールを頼むと、しばらくして台所から静香がビールの中瓶と栓抜きを持ってやってきた。今日も赤いジャージが良く似合っている。
「偉いなぁ、お手伝いかい?」
静香が照れたようにはにかむ。静香は大輔にビール瓶を渡した後も、去るそぶりを見せずにその場に佇んでいた。何か話したげな視線で大輔を見上げている。そして大輔がコップに注いだビールを半分ほど飲み干すと、待っていたかのように話しかけてきた。
「今日の午後、恵美子おばちゃんがおじさんのこと、訪ねてきたよ」
「えっ、葦原恵美子さんが?」
静香はおさげ髪を揺らしながら大きく頷いた。何だろう、午前中に会ったばかりなのに。何か話し忘れたことでもあるのだろうか。
「何か言っていたかい、恵美子さんは?」
静香が首を横に振ると、おさげ髪が左右にぶるんと揺れる。
「美穂姉ちゃんが死んじゃったあと、恵美子おばちゃんは美穂姉ちゃんの荷物を実家まで運んでくれたの」
そうか、それで樵荘に滞在していた美穂のスーツケースが山根家に置いてあったのか。ただ、いずれ美穂の荷物もあの部屋に残されている写真と共に処分されるのだろう。
山菜の揚げ浸しに箸をつけると、何とも言えない旨味が口の中に広がった。昨日までは美穂の死のことで頭が一杯で、食事をしている時も味覚にあまり意識が向いていなかったが、今日、改めてじっくりと樵荘の料理を味わうと、どれも質素なものばかりだったが驚くほど美味なことに気がついた。白米はつやつやと輝き噛むほどに甘みが口の中に染みわたり、野菜はどれもシャキシャキと張りがあり都会の野菜が失ってしまった野菜本来の甘みと風味に満ちている。山菜も滋味に溢れ、まるで山の生命力を直に頂いているかのようだ。東京の高級店でもなかなか味わうことのできない本物の味だ。どれも卑埜忌村で採れたものなのだろう。
その後も静香は台所と食卓を往復し、料理の上げ下げを手伝っていた。食後のお茶が運ばれてきたときに、ふと静香の腰のあたりで揺れているバッグのようなものに目が留まった。先ほどから忙しく働いているにもかかわらず、ずっと大切そうにそのバッグを肩から斜め掛けしている。布地のバッグの表面には若い女の子たちの写真がプリントされている。
「静香、その袋は何?」
大輔がそのバッグを指しながら尋ねると、静香はニコッと微笑み得意げな顔を見せた。
「これ、袋じゃなくてサコッシュって言うのよ」
「へえ、サコッシュか。その写真の女の子たちは?」
途端に満開のひまわりが咲いた。
「NiziUよ」
思わず美穂の顔が頭に浮かぶ。
「ファンなのかい?」
静香が大きく何度も頷くと、おさげ髪がぶるんぶるんと揺れる。
「お父ちゃんが村の外から来るトラックの運転手さんに頼んで、米子駅前のデパートで買ってきてもらったの」
「美穂もNiziUが大好きだったの、知ってる?」
「知ってるよ。NiziUのこと、たくさんお話ししたよ。お姉ちゃんはリクが好きだと言ってたけど、私は断然マユカだな」
静香は腰のサコッシュに両手を添えると、大輔の目の前に掲げた。そこには、大輔には見分けがつかないような似た顔の九人の若い女性が微笑んでいる。静香はその中の一人を指さしていた。恐らくそれがマユカなのだろう。それから静香はいきなり、ワナメイキューハッピー、と口ずさみながらリズミカルに左右の足を交互に跳ね上げさせた。おさげ髪が大きく揺れ、もぎたての桃のような頬が薄紅色に上気する。そして、うれし恥ずかしそうにふふふ、と両手で口元を隠しながら大輔を見上げた。大輔も拍手で応える。
「とても上手だね。将来の夢は歌手になることかな?」
途端にひまわりが萎れたように静香の表情が曇る。静香はチラッと台所を見やると、無言のまま廊下へと駆け去っていった。
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