尾呂血

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第五章 輝龍家  卑埜忌村に足を踏み入れて四日目の朝を迎えた。今日も鈍色の雲が空を覆っている。もう随分と太陽を見ていない気がした。窓から臨む尾呂血湖は深い藍色をたたえているが、沖合の神島は相変わらず濃い霧の中だ。島を包み込む乳白色の塊に向かって大輔は自問自答した。自分は一体いつまで卑埜忌村に滞在するつもりなのだ。大輔の心は依然として揺れ動いていた。あの快活な美穂が死ぬなんて到底考えられないと思う一方で、卑埜忌村や父親に対する美穂の複雑な感情は大輔の想像を超えるものがあるようにも思えた。妊娠という不安定な精神状態の中で、衝動的にすべての懊悩から逃れたいと思ったとしても不思議ではない。せめて美穂が身を投げたという神島を訪れてみたかったが、それも叶いそうにない。そうだ、せめて湖畔にあるという分社でも訪ねてみよう。何か手掛かりがあるかもしれない。確か分社は桟橋の少し先の湖畔にあると、良枝が昨日言っていたことを思い出した。  質素ながらも手の込んだ朝食をいただいた後、湖畔の道を歩き出した。沖からの冷たい風にのって、今日も馥郁とした香りが鼻先をくすぐる。何とも言えない優美な香りだ。  やがて見覚えのある造り酒屋の日本家屋が視界に入ってきた。先日の店員が何やら店先で客らしき人物と揉めている。よく見ると、粗末な着物を纏った老婆が店員に向かって激しく悪態をついていた。老婆は長年櫛も通したことのないような黄ばんだ白髪を振り乱しながら目を剝いてがなり立てている。浅黒い染みの浮き上がった顔を歪めて、狂ったように叫び続けている。その風貌には見覚えがあった。卑埜忌村に着いた日に道端で酩酊していたあの老婆だ。やがて店員が乱暴に老婆を突き飛ばした。老婆が尻もちをつくと、着物の裾から骨と皮だらけの貧相な脛が露わになる。周囲をうろついていた野良犬たちが一斉に甲高い鳴き声を上げた。 「酒くらい、売ってくれてもよいだろうが」 「うるさい、鈴ばあ、あんたに売る酒はない。とっとと消え失せろ!」  鈴ばあと呼ばれた老婆はよろよろと立ち上がると、店員を指さしながら罵りの声を上げた。 「お前のような奴には八津神様が鉄槌を食らわすことだろうよ」 「八津神様の怒りに触れたのは鈴ばあ、あんたの方だろうが。あんたには一生、黒い手紙が届くはずだ」  鈴ばあは鬼女のような形相で店員を睨みつけると、足元にぺっと唾を吐き、何度も店員を振り返りながら歩き去っていった。 「一体、どうしたんですか?」  鈴ばあの背中を睨みつけている店員の後ろから大輔が声をかけた。 「どうもこうもないよ、全く」  店員はそう言いながらゆっくりと振り返った。声をかけてきたのが大輔だと気づくと、店員は一瞬、躊躇の表情を浮かべた。 「あんたか。何でもない。構わないでくれ」  店員はそう言うと、不機嫌そうに店内へと消えていった。  造り酒屋を過ぎると、湖畔に係留された渡し舟が見えてきた。桟橋の上では重男がどっしりとした両足を踏みしめ、今日もじっと神島の方角を見つめている。大輔が近くを横切っても重男は振り返りもせず、ただその分厚い背中をこちらに向けているだけだった。重男のその後ろ姿から大輔はふと金剛力士像を思い浮かべた。寺門の両脇を固める、あの力強い仁王像だ。その時、湖からの突然の風が重男のぼさぼさの髪を激しく揺らした。長髪に隠れていた赤銅色の首筋が露わになると、大輔の目は思わずそこに釘付けになる。そこには赤く盛り上がった刀傷の跡が毒々しく浮かび上がっていた。まるで刻印でも押されたかのように、その残痕は右耳の後ろから首筋を横ぎり左肩に向かってくっきりと刻まれている。尋常ではない傷跡だ。一体何で切りつけられたのだろうか。重男はその激しく生々しい刀傷と対極をなすような沈んだ瞳で、微動だにせず神島をただ見つめていた。  やがてこぢんまりとした鎮守の森が現れ、湖に向かって立つ石の鳥居が見えてきた。鳥居の奥へは短い参道が伸び、正面には小さな拝殿がある。その脇には簡素な社務所が立っている。これが分社だろうか。意外にもそれは思っていたよりも小さなものだった。鳥居をくぐり白い砂利の敷かれた参道を進むと、社務所の脇で竹箒を手に落ち葉を掃いている一人の老人と目が合った。真っ白い髪と髭、白衣に紫色の袴、見覚えのある人物だ。卑埜忌村に着いた日に、郵便局で山根家までの道を教えてくれたあの老人だ。 「やあ、また会いましたな」  老人は竹箒を脇に抱えると、顔を柔らかく崩した。 「あっ、先日はありがとうございました」  大輔もぺこりとお辞儀をする。 「今日はこちらに参拝ですか?」 「はあ、せっかく卑埜忌村に来たものでせめて分社にでもと」 「それは、それは。申し遅れましたが、私は輝龍秀胤、ここの宮司を務めております」  そうか、この老人が良枝の話していた分社の秀胤さんか。少し話を聞かせてもらえるといいのだが。 「もしお時間が許すようなら、狭い所ですが社務所に上がってお茶でも一服いかがかな?」  秀胤は大輔の心の内を見透かしたかのように社務所を指さした。  大輔は拝殿で簡単に参拝を済ますと、秀胤に誘われるまま社務所に上がり込んだ。そこは居宅も兼ねているようで、通された六畳ほどの空間は神社の事務室というよりは、一般家庭の和室のような趣だった。日に焼けた畳はかなりの年季が感じられたが、日々の掃除が行き届いていることはすぐに分かった。部屋の中央には見事な漆塗りの座卓、おそらくは村内で作られたものだろう。都会のデパートでもなかなか目にすることのない逸品だ。脇に置かれた緋色の座布団に腰を下ろすと、窓からはちょうど拝殿正面の鈴と賽銭箱が視界に入る。やがて秀胤が抹茶椀を二つ持って現れた。わざわざ点ててくれたようだ。 「お口に合いますかどうか」  そう言いながら秀胤は黒い抹茶椀を大輔の前に丁寧に置いた。大輔は再びぺこりと頭を下げ、両手を椀に伸ばした。抹茶は程よく泡立ち、冴えた緑色をしている。一口、口に含むと抹茶特有の芳醇な香りが鼻に抜け、気品のある豊かな旨味が舌の上に広がった。あまりお茶に詳しくない大輔にも、その抹茶がただの粗茶でないことはすぐに分かった。 「なかなかのものですね。見事なお茶です」  大輔の言葉に秀胤が相好を崩す。 「この茶は卑埜忌村で栽培しているものです。近年、茶葉栽培は近代化が進み化学肥料と農薬を使って無理やり茶木を育て、機械を使って乱暴に刈り取ったり挽いたりするところがほとんどです。なんせ、手がかかりますから、茶の栽培は。しかし、ここ卑埜忌村では昔ながらのやり方で今もやっております。有機肥料だけを与えて微生物に栄養豊富な土壌を作ってもらい茶の木が本来持つ免疫力を高め、病気や害虫に強い茶の木を育てるのです。それでも出現する害虫は人が丁寧に一匹一匹手で捕獲します。茶葉の刈り取りも新芽だけをきめ細かく収穫するために全て手摘みで行っています。そして茶葉は石臼でゆっくりと挽きます。粉砕機を使うほうが速くて簡単なのですが、機械の熱で茶葉に負担がかかり風味が劣化しますから」  秀胤はそこで一口お茶を含み、舌の上で転がすように味わった。 「ただ、手をかければそれだけ生産量は限られてしまいます。だからここでは村で消費する量しか作ることはできません。村の外の人はこの味を知ることはないでしょう」  大輔はもう一口、抹茶を含んでみた。先ほどよりも更に香りが開き、芳醇さが増したようだ。そして旨味の奥から姿を現したほのかな甘みが舌全体をまろやかに包み込んだ。 「いかがですか、時間と共に茶の香りと味が移ろうように変化していくのが分かりますか」  秀胤の言葉に思わず頷く。 「お茶だけではありません。卑埜忌村では米も野菜も化学的な物は一切使わずに、土壌微生物の力を借りながら全て人が手をかけて丹念に作っているのです。ただ、手間がかかるので自分たちが食べる量を作るのが精一杯ですが」  大輔は樵荘で供される滋味あふれた料理の品々を思い出し、納得した。そういえば卑埜忌村に入ってからは一度も持病のアトピーが出現していない。 「我々は昔からそうやって、他の村とはあまり交流をせずに全て自給自足でやってきたのです。舘畑さんのように外からやってきた方にとっては、いささか閉鎖的で息が詰まるところもあるでしょうが」  秀胤が同情するような笑みを大輔に向けたその時、シャランシャランという澄んだ音色が境内に響いた。音の方向を見やると、樵荘の女将が拝殿正面の鈴緒の前で深く腰を折りお辞儀を繰り返している姿が目に入った。やがて手を打つ乾いた音が境内に響きわたる。 「皆尾和子さんです。そういえば舘畑さんは皆尾さんのところに滞在しているのでしたな」  女将は両手を合わせたまま、拝殿の前で固まったように動かない。 「卑埜忌村の住人は皆、尾呂血神社の氏子なのです。その中でも和子さんは信心深く、特に次男の竜二君を聖様(ひじりさま)として神島に奉じてからは、一日も欠かさずに毎日参拝にいらっしゃっているのですよ。」 「聖様?」  その時、あの白い額縁に納められた少年の顔が思い出された。彼がその竜二君なのだろうか。秀胤は大輔の問いかけに一瞬困惑した表情を見せ、かすかに首を横に振った。 「いや、いずれまた、お話しする機会もあるかと」  秀胤はそう口を濁すと、窓の外に目をやった。女将は何かをブツブツと口ずさみながら、相変わらず熱心に祈りを捧げている。かすかに香気を帯びた風が境内を駆け抜け、樹々を揺らした。葉擦れの音が収まるのを待って、再び秀胤に質問を投げかける。 「卑埜忌村では皆が神道を信仰しているということでしょうか?」  大輔の声に秀胤は再び視線を戻し、かすかに首を傾げるそぶりを見せた。やがて言葉を選ぶようにして、ぽつりぽつりと話しだした。 「神道と言ってよいのかどうかは分かりません。もしかしたら舘畑さんがイメージされている一般的な神道とは少し異なるかもしれませんな。我々は皇室の祖先を祀っているわけでもありませんし。尾呂血神社の創建は三世紀中ごろと言われています。まだ出雲大社も創建される前のことです。現代の皇室につながる大和朝廷も、その頃はまだ確立されておりません。皇室の祖先神である天照大神を祀る伊勢神宮を総本山とする神社神道が確立するはるか前から、我々は独自の信仰を培ってきました」 「輝龍家もその頃から続いている古い家柄なのでしょうか」  秀胤は厳かな表情で頷いた。 「私の父の秀全が第八十三代の宮司です。今は巳八子様が第八十四代の宮司となられています」  気の遠くなるほど連綿と続く血脈に思わずため息が漏れた。 「それでは、尾呂血神社の御祭神は?」  大輔は眼前の老人の深い皺に覆われた顔を正面から見据えた。一瞬、秀胤の瞳がギラリと光を帯びたような気がしたが、その淡々とした口調は変わらない。 「尾呂血神社の御祭神は八津神様です」  秀胤は大輔から目を逸らすと窓の外を見やった。女将はようやく祈りが終わったのか、深く腰を折ってお辞儀をしている。八津神様、確かその言葉を女将の口からも聞いた記憶がある。 「八津神様とは一体?」  逸る大輔をはぐらかすように秀胤はお茶を口に含み、一呼吸置いた。ゆっくりと茶碗を座卓に戻すと、再び話し始めた。 「八津神様は八津神様です。長い歴史の中で八津神様の元々の由来は忘れられてしまいました。しかし今でも村人たちは大いなる力の象徴として八津神様を深く信仰しています」  怪訝な表情を見せた大輔に対して、秀胤が顔を崩した。 「ははは、今の説明では納得されていないようですな。それではもう少し私の戯言にお付き合いください。実は私は八津神様とは八(や)岐(またの)大蛇(おろち)のことではないかと考えています。あくまで私の推測ですが」  口を半開きにしたまま自分を見つめる大輔の姿に満足したように、秀胤が目を細めた。 「八岐大蛇とは、あの須佐之男命に退治された、頭が八つある怪物です。須佐之男命が降臨したと言われる船通山麓には、八岐大蛇に関する言い伝えが多く残っています。八津神様の八つという数字から、八つの頭を持つ八岐大蛇と関連があると考えるのは自然なことではないでしょうか。舘畑さんも八岐大蛇の神話はご存知でしょう」 「はあ、昔、学生の頃、ちょっと読んだくらいですが」 「古事記と日本書紀とでは若干、詳細部分の記述は異なりますが、大体の物語は以下のようなものです。高天原を追放された須佐之男命は現在の鳥取県と島根県との県境にそびえる船通山に降臨します。船通山とはこの卑埜忌村から目と鼻の先にある古代からの霊峰です。須佐之男命は渓流沿いで老夫婦に出会い、自分たちの娘の奇(くし)稲田(いなだ)姫(ひめ)が八つの頭と八つの尾を持った怪物に狙われているという窮状を訴えられます。須佐之男命は奇稲田姫を嫁にもらうことを条件に、八岐大蛇を退治することを請け負うのです。そして須佐之男命は八つの樽を強い酒で満たし、八岐大蛇が現れるのを待ちます。やがて現れた八岐大蛇は八つの頭を八つの樽に突っ込んでしこたま酒を飲み、酔いつぶれてしまいます。須佐之男命は寝込んでいる八岐大蛇を霊剣十握(とつかの)剣(つるぎ)でずたずたに斬り刻みます。そして尾を斬った時に何か硬いものに刃が当たり十握剣が欠けてしまいます。そこで尾を裂くと中から一振りの剣が出てくるのです。須佐之男命はその剣に付着していた血を湖で洗い流すのですが、その湖が尾呂血湖だと言われています。尾呂血という湖の名前もこの逸話に由来しているのでしょう。そして尾から出現したその剣が天(あまの)叢(むら)雲(くもの)剣(つるぎ)、またの名を草薙(くさなぎの)剣(つるぎ)とも呼ばれています。須佐之男命はこの剣を姉の天照大神に献上し、これがのちの天皇家の三種の神器の一つとなるわけです」 「はあ」  中学の頃に何かで読んだ記憶が蘇ってきた。 「もちろん、八つの頭と八つの尾がある怪物など現実には存在したはずはありません。諸説ありますが、私は八岐大蛇とは当時の人々を悩ませていた斐伊川の氾濫を指しているのではないかと考えています。斐伊川とは船通山を源流として日本海に向けて流れる一級河川です。昔から度々甚大な洪水被害を起こしてきました。奇稲田姫とは丹精込めて育ててきた稲田のことで、この伝説は当時稲作に従事してきた人々が度重なる水害に悩まされていたことを示唆しているのでしょう。斐伊川はくねくねと多くの支流に分かれていますので、これが八つの頭と八つの尾をもつ大蛇として表現されているのではないでしょうか」 「それでは八津神様とは治水の神様ということでしょうか」  秀胤が我が意を得たりという表情で頷く。八津神様という言葉の響きから何かもっとおどろおどろした由来を想像していた大輔は、いささか拍子抜けした。それが伝わったのだろうか、秀胤が 「ただ、」  と言葉を続けた。秀胤の瞳が再びギラリと光る。何を言い出すのかと大輔が秀胤の口元を見つめる。 「ただ、今のはあくまで私の推測です。神島にある尾呂血神社の本殿の中には、輝龍家に代々伝わる重大なものがご神体として今でも大切に祀られているはずです。それを確認すれば、もしかしたら私の推測とは全く異なることが明らかになるのかもしれません。ただ、本殿の中には代々、輝龍家の当主しか入ることが許されておらず、そして当主は本殿の中で目にしたものに関して決して口外をしてはならないという厳しい掟があるのです。だから、八津神様に関する本当のことは当主しか知らないのです。残念ながら私は分社の宮司に過ぎず、当主ではありません。私の父、秀全が当主を務めた後、巳八子様が当主を継承されましたので、私は神島の本宮で生まれ育ったにもかかわらず本殿の中のことは全く知らないのです」  大輔の心の中にむくむくとご神体に対する興味が湧き上がってくる。千八百年という気の遠くなるような時間、本殿の中に一体何を大切に祀ってきたのだろう。 「私は神島の尾呂血神社に参拝することはできないのでしょうか」  輝龍家の一員である秀胤に頼めば何とかなるのではないか。しかし秀胤は申し訳なさそうに首を横に振るだけだった。 「お恥ずかしい話ですが、私は一介の分社の宮司に過ぎません。神島に渡るには当主の巳八子様か、氏子総代の稗田さんの許可が必要なのです。お力になれなくて申し訳ない」  秀胤が力なく視線を逸らしたその方向を、大輔もつられて無意識に見やった。すると、ふと意外なものに目が留まった。漆塗りの小机の上に、紫色の袱紗が広げられている。その上に数珠が一つ、大切そうに置かれているのだ。連なった珠は朽葉色に変色し、長年にわたって使い古された痕跡が伺える。神社の社務所で仏教の法具である数珠を発見するとは意外だった。思わず疑問が口をつく。 「秀胤さん、あの数珠は?何故、神社に法具が?」  秀胤は視線の先を確認すると、何でもないことのように呟いた。 「ああ、あれは叔父の形見です。私の叔父は米子近郊の古寺で住職をしておりました」 「輝龍家の血筋の方が住職とは、意外ですね」 「いや、叔父に輝龍家の血は流れておりません」  秀胤は一旦大輔に視線を戻した後、再び窓の外に視線を移し、遠い目つきをして見せた。 「少し長い話になりますが、お付き合いください。私の母、清子には五つ下に新吉という弟がおりました。母は二十歳の時に私の父、秀全に嫁いだのですが、その時、まだ十五歳だった新吉も連れて一緒に神島に移り住んだのです。二人は本当に仲の良い姉弟だったと聞いています。まだ戦後の窮乏期で両親が病弱だったということもあったのでしょう、新吉の将来の為には秀全のもとで育ったほうが本人の為にもよいということだったようです。新吉は薪割りから境内の掃除、村への買い出しなどいろいろな雑務を黙々とこなしていたらしいのですが、ある日偶然、尾呂血神社本殿の鍵を見つけてしまいます。まだ十代の好奇心旺盛な年ごろです。つい本殿扉を開錠し、中を覗いてしまったらしいのです。運悪くその現場を父に見つかり、ひどい折檻を受けることになります。見てはいけないものを二度と覗くことのないよう、父は真っ赤に焼けた火箸を新吉の瞳に押し当てたそうです。母が咄嗟に火箸を素手でつかみ途中で止めたのですが、新吉は片目を失いました。母も手に大火傷を負います。そして新吉は村を追放されたのです。父が村に出入りしていたトラック運転手に命じて新吉を米子の駅前に、まるで犬猫でも捨てるように放り出させたのです。新吉は米子の闇市で何とか食いつないだそうです。片目を失った可哀そうな少年ということで、周囲の商店主たちから幾分かの同情を得ることができたのでしょう。やがてある寺にもらわれていきます。当時はまだ街に浮浪児が溢れていた時代で、戦災孤児救済のために多くの寺院が敷地内に養護施設を併設していました。その中の一つ、龍久寺という古刹に拾われました。結局そのまま出家し、その後は慈雲と名乗り僧侶としての人生を歩みます。先代住職亡きあとは、そのまま龍久寺の住職を引き継ぎました。母の清子とは密かに手紙のやり取りを続けていたので、消息が分かったのです。そして母の死後は、ぽつりぽつりと忘れた頃に私宛に手紙を送って近況を伝えてくれていたのですが、つい数年前に病で亡くなりました。その時に身に着けていた数珠を形見としていただいたという次第です。確かに神社の中に保管しておく物としては場違いですな」  秀胤はその柔らかい視線を大輔に戻した。 「新吉さんは本殿の中で何を見たのでしょうか」  一瞬、秀胤の視線が固くなる。 「わかりません。叔父は生涯、そのことは誰にも話さなかったようです。下手なことを言って自分の姉が秀全にひどい仕打ちを受けることを恐れていたのかもしれません」  しばらくの沈黙の後、ボーンと柱時計が鳴った。 「おや、もうこんな時間ですか。つい、長話をしてしまいました。すっかりお引き留めしてしまったようですな」  そう呟くと、秀胤は座卓の上の茶碗を片付け始めた。  秀胤に礼を言って社務所を出ると、既に女将の姿はどこにも見当たらなかった。再び拝殿の前に立ち何気なく建物を見上げると、正面の欄間を飾る龍の彫刻が目に入った。見事な宮彫りだ。大きな瞳をカッと見開き、口元からは鋭い牙を覗かせ、繊細な鱗が全身を覆っている。そして龍を取り囲むように大小さまざまな蛇の姿が周りに彫られている。蛇は様々な表情を見せており、怒っているもの、笑っているもの、驚いているものなど、いささかユーモラスに描かれている。どれも見事な彫りだ。大輔は興味を持ち、蛇の宮彫りを目で追いながら拝殿の側面にも回ってみた。宮彫りは建物側面の欄間にもずっと続いていた。その時、一人の男が建物側面の外廊下に腰かけていることに気がついた。秀胤と同じように白衣に紫の袴を身に着けているが、秀胤よりはるかに若い。よく見ると、手元からはタバコの煙が立ち上っていた。男は大輔に気づくと、チッと舌打ちしてタバコをもみ消した。恐らく社務所からは死角になっている拝殿の側面に隠れてタバコを吸っていたのだろう。男はそそくさと携帯灰皿を胸元にしまうと、見下すような視線を大輔に向けた。 「あんた、確か舘畑さんと言ったっけ」  やはり村の皆が既に大輔のことを知っているようだ。 「はい、先程まで秀胤さんにお茶を一服いただいていました」  神職が木造の社に座って喫煙をしているということにいささかの不快感を覚えたが、そのことが顔に現れないよう言葉を返した。 「何か面白い話は聞けたかい?」  男はあらぬ方向を見ながら投げやりな調子で聞き返してきた。 「尾呂血神社の由来と輝龍家の話を少々」  大輔がそう答えると同時に男は不愉快そうな声を発した。 「何が輝龍家だ。親父はただの分社の宮司さ。先代当主の一人息子だったのに巳八子なんかに当主の座を奪われ、神島を追い出された情けない男さ。おかげで俺もただの分社の禰宜だ」  この男が秀胤の息子の秀栄か。良枝の手厳しい人物評価を思い出した。秀栄が外廊下の柵を飛び越えて地面に降り立ち、無言で大輔の脇を歩き去っていくと、ニコチンの残り香が鼻をついた。  大輔は分社を後にすると、門脇食堂に向かうことにした。もう一度、あのカレーライスを味わっておきたいと思ったからだ。店舗脇の草地には今日もたくさんの村外ナンバーの配送車が停まっており、何台かの車の窓からは食事を終えた男たちの紫煙が立ち上っている。      暖簾をくぐると狭い店内は今日も作業服の男たちで混んでいた。炒め物の香りに交じる土と汗の匂い。カウンター席に目を向けると年配の男が一人座っており、厨房の源三と何やら熱心に話しこんでいる。薄鼠色の作業服に地下足袋を履き、首筋は赤黒く焼けている。大輔はその男から一つ間隔を開けてカウンター席に腰を下ろした。源三は大輔に気づくと、 「今日もカレーにするかい?」  と聞いてきた。同時に隣の男も大輔に視線を向ける。長年の肉体労働に耐えてきた精悍な顔つきの老人だ。 「舘畑さん、こいつは俺の木こり時代の仲間で三郎っていうんだ。じじいのくせにまだ現役で山に入っていやがる」  三郎と呼ばれた老人が軽く目を細めて会釈をすると、目尻の深い皺が際立った。大輔もぺこりと頭を下げる。そこへ良枝が水の入ったコップを持ってやってきた。 「舘畑さん、今朝は早速、分社に行ったんだって?」  驚いた。もう伝わっているのか。 「情報が早いですね」  大輔が苦笑いしながら答えると、良枝は幾分得意げに頷いた。 「それで秀胤様には会えたかい?」 「はい、わざわざ社務所でお茶を点ててくれました」  その後秀栄にも会ったと続けようかと思ったが、何となくそこで言葉を切った。 「秀胤様は素晴らしいお方だよ。誰にでも分け隔てなく接してくれる優しいお方」 「秀胤様は確かにいい方だが、秀全様の功績には遠く及ばないさ」  三郎が突然会話に入ってきた。顔を横に向けると、三郎と目が合う。昔飼っていた柴犬を思い出させるような混じり気のない黒い瞳。 「まあ、確かに秀全様は別格だね」  良枝も同意する。厨房では源三も大きく頷いている。 「秀全様とはどのような人だったのでしょうか?」  三郎と良枝を交互に見やりながら聞いてみた。良枝は譲るように三郎に視線を向ける。三郎は咳払いを一つすると滔々と話しだした。 「今の卑埜忌村があるのは全て秀全様のお陰だよ。秀全様は尾呂血神社の宮司だけでなく、ずっと長く村長もおやりになっていた。村の為に本当に尽くされたお方だ。公民館も、温泉施設も、小中学校の新校舎も、図書館も、みんな秀全様の時代に建ててくれたものだ。その上、村の財政も立て直してくれ、今じゃ秀全様の時代に蓄えてくれた基金の利子収入で、小中学校の学費も医療費も全て無料で賄えている。まさに卑埜忌村の恩人だ」  三郎の話を受けて、厨房から源三も加わってきた。 「俺のお袋は昔、山菜を採りに峠に入った時、秀全様が復員してきたところにばったり出くわしたそうだが、それは、それは神々しいお姿だったと生涯繰り返し言っていた。秀全様は確か俺のお袋より二つ上だから大正十四年のお生まれのはずだ。復員してきたときはまだ二十歳そこそこの若者だ。六尺を超える立派な体躯を陸軍の軍服に包み、颯爽と馬に乗って峠を越えてきたそうだ。腰に下げた美しい刀が今でも目に焼き付いているとずっと言っていた」  大輔は数日前に歩いたあの峠道を軍馬で駆け下りる若い軍人の姿を思い浮かべた。確かにそれは壮観な光景だったことだろう。 「秀全様は十数年前に忽然とそのお姿をくらましてしまったけど、今でもどこかであたしたちを見守って下さっていると信じている」  良枝が遠くを見るような眼つきでポツリと呟いた。 「しかし、倉瀧の兄貴も一体どうして秀全様に対抗しようなどと考えたのだろうか」  突然、三郎が沈んだ声を出した。 「ああ、昭和五十五年の村長選挙の時のことか」  源三も重苦しい声を漏らす。 「倉瀧さんとは?」  大輔の問いかけに源三と三郎はしばらくお互いを見合っていたが、やがて源三が口を開く。 「倉瀧重吉さんは俺たちがまだ木こりの見習いだった頃に何かと面倒を見てくれた当時の森林組合長さ。村の中では最大の檜林も所有していた。六尺を超える大男で、秀全様と並んでも決して見劣りすることはなかった」  源三によると、卑埜忌村から伐採される原木のほとんどは村内の需要を賄うために使われており、村外へ搬出する量はごく限られたものだったそうだ。しかし重吉は組合長として村の林業を発展させたいという強い熱意を抱き、村から土蜘蛛口のバス道路までの林道の舗装整備を強く主張した。原木を大量に積める大型搬出車が通れないことが、村の林業発展の最大のネックだと考えていたのだ。しかし村長の秀全はこの案に強く反対する。他村との交通の便の改善は、不要な災いを村に招くというのがその理由だった。両者は一歩も譲らずに激しく対立する。やがて重吉は自らが村長になって林道整備を強引に推し進めようと、現職の秀全の対抗馬として村長選挙に立候補することを決意する。激しい選挙戦が繰り広げられていたさなか、重吉の所有する森林が全焼する事件が起こる。重吉の森林に雷が落ちたのだ。火は勢いよく燃え広がり、あっという間に重吉の森林を焼き尽くしたのだった。やがて村に不穏な噂が流れはじめる。重吉の計画が八津神様の怒りにふれ、その報いとして雷が重吉の森林を焼き尽くしたと。村人は重吉との交流を避け始め、やがて黒い手紙が重吉に届くようになる。結局、選挙は秀全の圧勝で終わった。重吉は所有していた森林の全てを失った上、村八分になったことを悲観してふさぎ込むようになり、ある晩一家心中を図る。妻と当時十歳になる一人息子の重男を鉈で襲い、自分は猟銃自殺をしたのだ。幸い重男は首を大きく切られたにもかかわらず、何とか一命をとりとめた。しかし村人は誰も八津神様の怒りに触れた重吉の息子を引き取ろうとはしない。そんな中、独り身の渡しの留吉翁が重男を不憫に思い、引き取ることになった。それ以来重男は学校にも行かず、留吉翁のもとで渡しとして生きていくことになる。そして重男は言葉を失ってしまったかの如く、ほとんど口をきかなくなった。留吉翁が亡くなると、重男が渡しを引き継ぎ今に至るそうだ。  今朝ほど湖畔で目にした、重男の首筋に残る生々しい傷跡が脳裏に蘇った。あれは実の父親に鉈で斬られた痕跡だったのか。重男がその異形の風体から醸し出す何とも言えない雰囲気、深い諦念とでも言えばよいのだろうか、または底の見えぬ虚無、その理由の一端が見えた気がした。 「あれ以来、誰も秀全様に異を唱えるものはいなくなった」  三郎がポツリと呟いた。  大輔が樵荘に戻った時はまだ空はかろうじて明るく、鱗のような雲が一面に広がっていた。玄関を上がると、食堂から人の声が漏れ聞こえてきた。ふと興味を持ってそちらを覗くと、割烹着姿の女将と赤いジャージ姿の静香が並んで食卓に座っている後ろ姿が目に入った。卓上にはノートやらプリントやらが広がっている。二人は大輔が帰ってきたことにも気づかない様子で、真剣なまなざしをノートに向けている。静香は鉛筆を持つ手にグッと力を入れ、ノートと女将の顔を交互に見やっている。恐らく学校の宿題でも手伝ってもらっているのだろう。あまり覗き見するのもどうかと思い、大輔は二人の後ろ姿を尻目に二階に続く階段をそっと上った。  部屋に入り畳の上に仰向けに横たわり天井を見上げた。一人になるとどうしても美穂のことを考えてしまう。美穂もほんの一週間ほど前、今自分がいるこの部屋に滞在していたのだ。美穂はあの天井板を見上げ何を考えていたのだろう。自分のせいで不遇な死を迎えた父親のことか、それともお腹に宿った新しい命のことか。一人で悩んでいたのではないか。何故、俺に一言相談してくれなかったのか。ここ数日、繰り返し頭の中をよぎる答えのない疑問が噴出してくる。俺との生活を幸せだと恵美子さんに綴ってくれた美穂、俺の作家としての未来を信じてくれた美穂。深い喪失感がひしひしと胸の中に広がる。瞼を閉じると目頭が熱くなり、目尻から温かいものがツツッとこめかみに流れた。美穂、本当に死んでしまったのか。  その時突然、階下から女将の険のある声が響いてきた。 「村の中で暮らすのが一番じゃ。村を出てはいかん」  静香を諭すように発せられたその声は、館内に大きく響き渡った。恐らく大輔が二階にいることに気づいていないのだろう。女将の声に続いて静香が何かを言い返しているようだが、泣きじゃくっていてうまく聞き取れない。再び女将の声が響く。 「村の中におる限り、八津神様がお守りしてくれる。疫病も地震もなく無事に過ごせる。昔から皆、そうしてきたのじゃ。静香、どうして分からんのじゃ」  女将の尖った声に続いて静香の泣き声が聞こえた。やがてドタドタと静香が走り去る音が続く。
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