スキップ! あいうえおSS「い」

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 いい加減にして欲しい。  飯田さやかはチラッと上司の頭の上の時計に目をやった。  時計の針は11時15分を指そうとしていた。  6、5、4、3、2、1……はい。11時15分。  上司の山田の恫喝が始まって実に2時間が過ぎようとしている。今日は午後に行われる会議の資料をさやかが作っていなかったと言う理由で怒り出したのだ。連絡を忘れたのは山田自身だというのに。上司のミスで恫喝される理不尽。自分がうっかりしていたと謝って、さっさと指示を出せばこの2時間で資料は出来上がっていたに違いない。だが自分が悪くないことで謝るのは絶対嫌だった。それなら黙って怒鳴られている方がマシだ。どうせ困るのは山田なのだから。怒鳴っている間、指示は出されず、当然作業は進まない訳だが、午後の会議をどうするつもりなのだろう。会議開始は13時。今日も当然の如く企画部全員昼食返上で作業することになる。  本当いい加減にして欲しい。指揮もダダ下がり。あんたのせいでいつも残業。残業手当は出るけど、不毛な時間すぎる。パワハラ手当とかないかな。  自分は楽観的な性格だが、日常的に怒鳴り声を浴びているとさすがに心が死んでくる。 「大体君はね、いつだって雑なんだよ、雑」  山田が金切り声を上げる。唇の端に唾が飛んでいるのが見えた。見苦しいとさやかは思う。頭髪がかなり後退したこめかみに青筋が浮き出ている。陰で「ハゲ山」と呼ばれているのを知らぬは本人ばかりなり。怒鳴るたびに青筋がピクピク動くので、血圧の上昇は相当なものだろうと思う。いつかプチっと行くのではないだろうか。テレビの健康番組で血圧が高いと血管に常に高い負荷をかけることになるから病気のリスクがものすごく上がると言っていた。さやかはこの前32になったばかりなので実感はないが、50代半ばの山田はそれこそ黄色信号が灯る世代で日々注意が必要な世代だろう。そうなったとしても全く同情の気持ちは持てないが。 「書類ひとつまともに作れないってどういうことだ。メンターは誰だ。相当適当な指導だったんだろうな」 「村田さんです」 「は?」 「運営本部長の村田さんがメンターでした」  「本部長の村田さん」の一言に山田は黙った。村田は山田の2期後輩にあたるのだが、社内外から人望厚く時期社長との噂だ。山田はプライドなく村田に擦り寄り、取り入る隙を窺っているというのは周知の事実だ。見苦しいこと甚だしい。  毎日毎日怒鳴ってばかりでろくに仕事もせず、みんなのやる気とキャリアを潰しまくる上司なんて。  メンターの村田のことまで持ち出してきたことに一気に頭に血が上った。  この人は……会社で与えられた役割を果たすつもりはないんだ。何がしたいのかわからないけれども、毎日毎日サンドバッグにされるのはもううんざりだ。 「む、村田さんも気の毒だ。君みたいな給料泥棒が後輩とはな」  山田はさやかを鼻で笑った。その瞬間、さやかの中で何かが弾けた。 「大体君ね、推しはかるって知ってる?」 「推しはかれませんよ、山田さんの考えなんて」  さやかは山田の言葉を大きめの声で遮った。 「そんな連絡も指示もされていない事、できるわけないじゃないですか」 「な、なんだとう!」 「大声出せばみんな山田さんの言うこと聞くって思わないでください。山田さんの怒鳴り声聞いてる時間にできる仕事は止まる。生産性がありません。無駄です。精神的にもいいことなんて1つもない。パワハラだってわかっていますか」  わざと「山田さん」と呼んだ。山田は目を見開き、鯉のように口をぱくぱくさせている。感情が限界突破して言葉が交通渋滞を起こしているらしい。山田の怒鳴り声が響いていたフロアは静まり返り、さやかと山田に注目していた。 「これ、今日の会議で必要になると思うデータです。整理していませんけど。私、山田さんの怒鳴り声で気分悪くなったんで今日は帰ります。じゃ失礼します」  パチ……と小さな音が聞こえた。1人、2人と拍手が増えてゆく。拍手喝采の中、さやかはカバンを取るとスキップで部屋を出ていった。 了
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