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煙草の煙のような灰色。
タールのように降り注ぐ黒。
血のように鮮やかに滴る赤。
オレの世界を構成するものは、それだけだった。
※
「ボスー!今日は組織裏切った奴ら5人始末してきましたー!」
漫画だったらピンクのハートが飛んでいそうな猫なで声で、チョコレート色の扉を開ける。
「ご苦労だった。山吹に報告して望みの金額を言え。」
襟足まで伸びた烏色の黒髪。白雪姫も真っ青だろと言うほど透き通った白い肌。書類に目を落とす三白眼からは感情の色は見えず、それが彼の落ち着きや知性を強調させる。
「もー、ボスー、オレが欲しいのは金なんかじゃないって知ってるくせに〜。」
ボス以外には聞かせない甘ったるい声を出しながらコツコツと距離を詰める。
「何が望みだ?」
書類から顔を上げたボスとピタリと視線が合う。冷たい目。金と自分以外何も信じていないというような。ああ、ボス、そんな目で見ないでください。それ以上見られたらオレ……。
「いや、やっぱり山吹のところ行ってきます……。」
カッカと火照る顔を逸らして部屋を足早に出ていく。
「毎度毎度なんなんだ、あいつは」
首を傾げるボスの胸では、メッキの剥がれたペンダントが鈍く光っていた。
※
「あー今日もボスに言えなかったー!オレのバカー!!」
自分の頭を両手でポコポコ殴った。
金なんていらない。いや、金があれば人生どうとでもなると思ってた頃もあるけど、今は違う。
反社会組織赤薔薇。それが今のオレの職場。オレは昔っから頭はからっきしだが、喧嘩は負けたことがなかった。学校でも社会でもそんなやつが馴染める訳がなく、問題ばかり起こしてた。そんなオレを拾ってくれたのが赤薔薇のボス、釧路壮司さんだ。ボスはオレと違って頭がキレる。ただボスの命令のままに人を殺してただけなのに、組織はどんどんでかくなったし、オレはいつの間にか組織のナンバー2になっていた。
そんなボスがオレは大好きだ。尊敬じゃなくて恋愛対象として。今じゃ同性愛とか普通だろ?だから本当は金じゃなくて、ボスに良くやったなって頭ポンポン撫でてほしい。でもあの真っ黒な瞳に見つめられると何も言えなくなって、結局手元に残るのは金。虚しい……。
「その話もう何百回も聞いた。」
「だってよー!山吹ー!お前には分からねえの?この複雑な恋心がさ!!」
「全く分からんね。俺は100人からの愛より金の方が嬉しいんで。」
「この金の亡者が!!」
ボサボサの黒髪を整えもせず、俺の目の前の机に札束を積むのは山吹金彦。三度の飯より金を体現したようなやつだ。組織の会計係兼情報屋でナンバー3。オレはこいつから直接金をもらいに行くことが多いから、関わるうちに自然と仲良くなっていた。
「大体相手がボスじゃ失恋確定だろ。身の程を弁えろよ。」
「身分とかオレ知らねえもん!!大事なのは気持ちだもん!!」
「はあ、これだから馬鹿とは話が出来ねえ。」
頭痛を訴えるような顔をしているが知ったこっちゃない。
「じゃあ殺される覚悟で告白してこいよ。」
「えっ、いやあ、だって、オレ、ボスと目が合うだけで上手く話せなくて……」
「いつの恋愛ソングだよ!!反社の構成員が地で行くな気色悪ぃ!!」
まるで寒気がするみたいに山吹は体を抱き込む。失礼なやつ。
はあ……とため息をついた山吹は神妙な顔で尋ねた。
「大体さあ、ボスとどうにかなれたとして、その後お前どうしたい訳?」
「は?」
山吹に初めての質問にオレはただただきょとんとしてしまった。
「2人で足洗ってカタギにでもなりたいわけ?言っておくけど無理だぞ。ボスもお前もこの世界じゃ有名すぎるし。」
「まっさか!カタギなんてつまらねえ。オレはボスをやってるボスが好きだし、オレも今の生活が気に入ってんの。」
「あっそ。お前がしっかり狂ってて安心したよ。」
でもよ、と山吹は話を続ける。
「ボスには他に大事な人がいるんじゃねえかなぁ。」
「はあ?」
思わずスーツの下に仕込んであるドスを布の上から撫でた。
「な、なんでそう思うんだよ。」
「いやさあ、これお前が他のアジト言ってた時の話なんだけど……。」
※
「で、逃げる時サツに見られて殺してきたって?」
「す、すみませんボス!!なんでもしますから命だけは!!」
あの日は下っ端が酔っ払ってカタギのやつをボコボコにしてきた時だった。運悪くサツに見つかって慌てた連中は銃で殺してきちまったらしい。まあ足がつくような最悪の事やらかしたよな。
「殺せ。」
ボスは氷のような声で突き放した。
「ボス!!すみません!!!本当になんでもします!!だから命だけは!!俺には病気のおふくろがいるんです!!」
まあこの業界、そんな命乞いがまかり通るわけないわな。
「なるべく事故で死んだように見せかけろよ。」
「はい。」
お前がいないから粛清として、別のやつがその下っ端を連れていこうとした。
「ちくしょう!!てめえは鬼だ!!いつも血が通ってねえ冷てえ目ぇしやがって!!」
そいつはよほど必死だったらしく、武器没収されて手足も縛られてるのにボスに向かって突進したんだ。
「危ない!!」
俺も止めようとしたが間に合わなくてな、そいつの体はボスに直撃しちまった。その時だ、ペンダントが吹っ飛んじまったのは。
「は、ない……。」
あんなに顔が青ざめたボスは初めて見たね。
「ない、ない、どこだ、おい、誰か、あれが無いと、俺は……。」
まずいと思ってボスを私室に連れていった。あんまり暴れるもんだから失礼承知で椅子に縛り付けたけどな。
「おい、今見た事他言無用だぞ。」
すでに気絶させられてた粛清対象以外の構成員に口止め料を渡した。その後、コンクリートの床に冷たく転がってるロケットペンダントを見つけた。
「これか……。」
中に入っていたのは、茶色く色褪せて所々はげた、2人のガキの写真だった。
※
「誰だよボスのこといじめるやつ!!オレが殺したかったわ!!」
「論点そこじゃねえよ!!分かれ馬鹿!!」
山吹は舌打ちしながらスマホを出して、すっと1枚の画像を見せる。
「これがボスのペンダントの中身?」
「ああ、写真の画像だから、だいぶ荒いけどな」
坊主頭で骨格のいいガキと、ヒョロいおかっぱのガキが肩を組んで笑っていた。
「おかっぱのガキがボスだとして、左のガキは誰?」
「さあな、ガキの頃だし近所の幼なじみとかだろ。」
「けどそれだけじゃない、そう言いてえんだな。」
「おっ、馬鹿の癖に話早えじゃん。」
山吹はタバコを取り出すと、ライターで火をつけて灰色の煙を吐き出す。
「馬鹿でも分かるよ、誰だよこいつ」
オレの知ってるボスはこんな無邪気に笑わない。オレの知ってるボスは気安く人に触らない。オレの知ってるボスはペンダントごときでうろたえない。オレの知ってるボスは……。
「お前すげえ顔してるぞ。」
はっと気がつくと左手首に青アザができるほど利き手に力が入っていた。
「ボスの出身地なら割れてる。気になるなら休暇がてら行ってこいよ。」
「はあ!?」
金の亡者のこいつが人の恋路に橋渡しをするなんて信じられない。
「まさか、オレを使ってボスの弱みを握るつもりじゃ……。」
「おいおい、見くびってもらっちゃ困るよ。俺はボスを尊敬してるし、お前のことだって金の次ぐらいに好きだぜ。」
たまには損得関係なしに人の恋路を応援するのもいいだろって。そんなもんだろうか。
※
血に染まった体。雨が洗い流してくれるかと思ったが、雨も黒くてどろっとしてる。うざったい。水がベタベタまとわりついて身動きできない。
「お前、1人か?」
見たことねえやつが覗き込んでくる。
知らんぷりした。なのにそいつは寂しそうに、にこりと笑うんだ。
「そうか。俺と同じだな。」
※
「お客さん、終点だよ」
「んあ?」
気がつくと駅員がオレの顔を覗き込んでいた。随分懐かしい夢を見た気がする。なんとか電子マネーが使えた無人駅に降り立つと、ずっと座って固まった体を大きく伸ばして、澄んだ空気を目一杯肺に入れる。
「しっかし見渡す限り緑だねえ。あっちとは大違いだ」
目の前には緑の小高い山。視線を落とすと畑、畑、畑。赤いトラクターに小さく農作業に勤しむ爺さん婆さんも見える。どう見ても人や家より緑の面積の方が広い。本当にこんなド田舎でボスは育ったんだろうか。
「けどまずは誰か捕まえなきゃな。」
聞き込みのために舗装もろくにされてない道をぶらぶら歩き出す。
「すみません、ちょっと聞きたいことがあるんですけど。」
畑の傍らで作業をしているほっかむりを被った中年女性に声をかけた。
「あんた、どちら様?この辺の人じゃないよね。」
Tシャツにジーンズのラフな格好をしたオレを上から下までじろじろ見やる。やばい。怪しまれてる。
「えーっと、オレ、釧路壮司さんの会社の部下で。」
「釧路壮司って……ソウちゃん!?白井さんとこのソウちゃんかい!?」
「ああ、はい。たぶん。」
ん?白井さんとこのソウちゃん?ボスの苗字は釧路だけど。
「ばあちゃんばあちゃん!大変だよ!!ソウちゃん知ってるって人が来たよ!!」
なんだ?そんなに驚くことか?あと今更だけどボスの名前を簡単に出して良かったんだったんだろうか。まあいいか。山吹から出すなとも言われてないし。
「まあまあまあ!!よくいらっしゃいました!!お茶でも飲んでいきんしゃい!」
「はあ、どうも。」
山吹から渡された向こうの銘菓をお茶請けに、ティータイムが始まる。オレ茶を飲みに来た訳じゃないんだけど……。
「それで?ソウちゃんは生きてるのかい?」
「えっ?そりゃあまあ……。」
「そうかい!!良かったよ。あたしたちずっとソウちゃんのこと心配してただよ。」
さめざめと泣き出す婆さん。何だこの空気。ここでボスに何があったんだ。気になるけど今はそこじゃない。
「それよりオレ、聞きたいことあってここに来たんですよ。」
「へえ、なんだい?」
「この写真の人、見覚えあります?」
スマホを取り出して、山吹から貰ったボスのペンダントの中身の写真を婆さんに見せる。
「あらあら、老眼でよく見えなくてねえ。」
婆さんは眼鏡をかけてスマホを遠くにかざしながら目を細める。
「これ!ソウちゃんとタマちゃんだよ!」
「タマちゃん?」
「ソウちゃんの友達だよ。そりゃー仲が良くてね、何をするにも一緒だったよ。」
「へえー。」
オレの知ってるボスは友達なんて作らない。いつも孤高で凛々しくて、誰よりカッコいいんだ。それがこいつには気を許してる。まだこの村に住んでるんだろうか?そうでなくても探し出して殺してやる。
「ソウちゃんのお母さん、都会に出てったかと思えばあかんぼのソウちゃん連れて帰ってきてね。しばらく2人で暮らしてたんだけど、お母さんも他に男作っちゃって、ソウちゃん置いて出てっちゃったのさ。」
なんつー母親だ。居所が分かればオレが殺してやるのに。
「タマちゃんはソウちゃんと仲が良くてね、親戚の家で馴染めなかったソウちゃんは、タマちゃんちで暮らすことにようになったのさ。」
「へ、へえー。親御さん許してくれたんですね。」
「許してないよ!タマちゃんは父子家庭だったけど親父さんろくなもんじゃなくてさ、大酒飲んではタマちゃんのこと殴ってて。ソウちゃんもだいぶやられたんじゃないかねえ。」
「そ、そうなんだ。オレだったら殺したくなりますけどね、そんな親父」
「それが死んじゃっただよ!」
「は?」
しまった、つい本音が、と思ったら思わぬ急展開。
「あの日は大嵐でウチは皆家に居たんだけどさ、どんどんどん!ってソウちゃんが血だらけでウチに駆け込んできてね、環と親父さんが!って言うんだよ。駆けつけてみればびっくり!タマちゃんと親父さんが頭から血ぃ流して倒れてただよ。」
親父はざまあみろだけど、白井環もそうなのか。俺が手を下すまでも無かったな。
「親父さんが病院に運ばれた時は手遅れだったけど、タマちゃんはなんとか助かってねえ。でも打ちどころが悪くて一生目覚めないかもって。犯人は見つからなかったし、ソウちゃんは行方不明になっちゃうし。でもそうかい。ソウちゃん元気にしてたかい。」
目の前が真っ白になった。
「その、環さんは、今もご健在、なんですか?」
「ん?そのはずだよ。最初はすぐ死んじゃうかもって言われてたけど、いきなり都会の大きな病院に移されてね。」
「へ、へえー。環さんの親戚さんお金持ちなんですね。」
「それが都会の資産家がタマちゃん引き取って1番の治療を受けさせてくれてるんだってよ!親切な人もいるもんだねぇ、良かった良かった……。」
頭が何度もハンマーで殴りつけられる痛みと鈍い音が響く。白井環を引き取って最先端の医療を受けさせられる資産家?そんなこと出来る人なんて1人しかいない。
「おや、どうしたい!?顔色が真っ青だよ!」
ボス、あなた自分も1人って言ってたじゃないか。孤独なオレが身を寄せられるのはあなただけだったし、あなたもそうだと思ってた。なのに、違ったのか……?オレに嘘ついてたのか?
身体が動かない。寒気がする。嫌だ、信じたくない。ささくれたちゃぶ台が涙をすする。誰か、誰か助けて……。ボス……。
※
「いてっ!」
「馬鹿!動かすなよ。昨日も親父に殴られただろ?」
「こんなの全然ヨユー!」
「……なあ、壮司。ごめんな、お前に出ていけって言えなくて。」
「馬っ鹿!当たり前だろ!俺らは2人で1人!何をやるにも一緒って決めただろ!」
「……うん!」
「いつか2人でここを出てさ、誰にも邪魔されないところで暮らすんだ!金なんかなくたっていいんだ。お前と2人になれるならどこだって。」
「……うん……。」
「ばっ、何泣いてんだよ!」
「壮司……俺おかしいんだよ。お前はいつも傷だらけなのに、俺のせいで親父に殴られるのに、俺は、お前が傍にいてくれるのが嬉しくてたまらない……。」
「環、俺だってお前の傍にいられるのが1番幸せだよ。他のことなんか、どうだっていいんだ。」
「壮司……。」
「ほら、分かったら早く寝ようぜ!遅刻したらまた廊下に立たされちまう!」
「へへっ、それも悪くないな。壮司と一緒なら。」
「……ばーか!」
※
「ボス」
虚ろな灰色の目の焦点が合う。オレの大好きな真っ黒な瞳がこっちを見つめる。
「ボス、月に1度の外出日です。」
「……もうそんな時期か。ん?今日の付き添いは山吹じゃないのか?」
「山吹は手が離せないとのことで、私が代わりに。」
「そうか。では運転を頼む。道は指示する。」
「承知しました。」
アジトの前に止めてある車の後部座席にボスを乗せ、オレも運転席に乗り込む。
「今日は珍しいな。お前が俺に敬語を使うなんて。」
「たまにはちゃんとしようと思いまして。」
「ははっ、そうか。」
いつもの冷えた声が弾んでいることに殺意が湧く。あなたのそんな声、今までオレは聞いたことがない。懐の中に手がかかりそうになるのを抑えて車を走らせていると、山吹から聞いていた指定の場所に着く。周囲に家がポツポツあるだけの道の真ん中。
「ここでいい。ご苦労だった。」
「いいえ、ボス。オレもついて行きます。」
予想してない返答だったんだろう。ミラー越しにボスの真ん丸な目が見える。
「聞こえなかったのか?ここでいいと言った。」
「聞こえなかったんですか?ついて行くって言ったんです。」
カチャリと金属が擦れ合う音が重なり合う。2つの銃口はお互いの脳天を指していた。
「見込み違いだったか?お前は俺の命令を確実にこなす忠実な部下だと思っていたが。」
「ええ。オレはあなたの忠実なるしもべです。ですが今日だけは聞けません。オレは知ってるんですよ。ボスが外出日にいつもどこへ行くのか。」
ボスの身体がぴくりと震える。
「それにオレがボスに引き金を引けないとでも思ってるんですか?今のオレは躊躇なくあなたを殺せます。オレとあなたが体で勝負すれば、どっちが勝つか分からないあなたじゃないでしょう?」
ようやくオレが本気だと思ったようで、ボスは銃口を下ろす。
「何が目的だ?」
オレも銃を懐にしまいながら答える。
「オレは会ってみたいだけですよ。ボスの1番大切な人に。」
何も答えないボスを後目に、先が見えない道を進む。
「環、来たぞ」
都心の一等地にどでかくそびえ立つ総合病院。その奥にある馬鹿みたいに広い個室に白井環は横たわっていた。
「またちょっと痩せたか?でも看護師さんから聞いたが、容態は安定しているようだな。とりあえず元気そうでよかった。」
物言わぬ干物みたいな人間相手に、ボスは健気に話しかけている。
「見舞いの花もまたしおれちゃったな。新しいの買ってきたぞ。」
茶色く傷んだ花を処分すると、ボスは花瓶に途中の花屋で買った薔薇を2本差した。
「もう、こいつが誰か知ってるんだろ。」
「はい。」
ボスは白井環を、オレは病院の壁を、それぞれ見つめながら言葉を交わす。
「こいつはオレの1番大事な人だ。いつか2人で暮らそうって言ってたのに、あの日親父さんに殴られて……。目の前が赤くなったと思ったら、俺は割れた酒瓶を持ってて、親父さんは倒れてて……。親父さんは駄目だったけど、環は生きてた。環を生かすために赤薔薇を立ち上げたんだ。環を生かすためには金が必要だった。ガキが手っ取り早く金を集めるには非合法の世界しか無かったから。」
カチャリと銃口をボスの頭に向ける。
「ボス、オレはあなたの自分語りを聞きに来たんじゃありません。」
「ははっ、そうだな。お前、俺を恨んでるか?」
「ボス、今まであなたの1番はオレだと思ってました。あの日、何も無いオレを拾ってくれた。何も無かったオレたちで、喧嘩して、殺して、血の味がする飯を食って、そうやって出来たのが赤薔薇だ。なのに、オレたちの今までは全部こいつのためにあったって言うんですか。」
「……そうだな。」
全身の血が沸騰する。撃鉄を親指で起こす。
「……撃たないのか?」
ボスの今まで聞いたことの無い穏やかな声に目の奥が熱くなる。
今引き金を引けばボスは死ぬ。……ボスが死ぬ?頭から血を流して絶命するボスの姿が頭をよぎって、呼吸が浅くなる。嫌だ、あなたがいなくなった世界になんて生きていたくない。後追いすればいいのか?あなたに見向きもして貰えないまま、1人惨めに死んでいくのか?そんな、そんなの……
「……そうですね。今、オレはあなたを殺したくて殺したくて仕方ありません。でも、オレより先にあなたが死ぬのはもっと嫌だ。」
「……そうか。分かるな。その気持ち。」
あなたが今、思い浮かべてるのはオレじゃないんだろ。喉まででかかった言葉が呼び水となって頬に冷たい水が流れる。
「ケイ」
この人から貰った名前を、目の前の愛しい人が涙をためて紡ぐ。
「もし、環が死んだらさ、その時は俺を殺してくれないか?」
「良いですよ。その代わりあなたもオレを殺してください。」
「ははっ、分かったよ。」
ボスは俺の肩に顔を埋める。俺の肩にだけ愛する人の体温が伝わる。どれくらいそうしていたんだろう。オレの腕がこの人の背中に回ることは、ついぞなかった。
※
「なんだよ、結局間男オチかよ。」
「嫌な言い方するなよ。」
組織の傘下にあるバーを貸切にして、オレは山吹と飲んでいた。
「山吹、お前何が目的だった?」
「どういう意味?」
「とぼけんな。全部知ってたんだろ。白井環の今も、2人の過去も。」
山吹はばつが悪そうにぽりぽりと頬をかく。
「まあね。」
へらへらして逃げようとする山吹をじとりと見つめる。
「怒るなよ。……俺はさ、ボスに幸せになって欲しかったんだ。でも、白井環が目を覚ます可能性は低いだろ。医学が日々発達してるっつったって、ボスが生きているうちに植物状態の人間が元通りになるとは限らない。だったらさ、いっそ死んじまった方がボスは幸せなんじゃないかなって。」
「それにはオレに全てを知らせて、逆上させるのが1番早いって?」
「そうだな。友達を利用しようとしたことは謝るよ。」
「やめろよ気持ち悪い。まともな神経でこの仕事が出来るか。」
「それもそうか。」
テキーラをストレートで喉に流し込む。焼けるような感覚が喉を刺す。
「なあ、2本の薔薇の花言葉、知ってるか?」
「は?知らねえけど。」
山吹は悲しげな顔をして目を伏せる。
「この世界はあなたと私2人だけ。ボスは今お前に甘えてくれてるかもしれないけど、あの人の全ては白井環だ。それが変わることは、この先もないんだぞ。」
「そんなこと、オレだってわかる。それでもオレは引き金を引けなかった。白井環にもだ。オレはあの人がいない世界を生きるより、絶望したあの人の傍にいるより、あの人に利用される生き方を選んだのさ。」
「それって辛くねえ?」
「辛いよ。でも、思いつく選択肢の中では1番まし。」
「はー、愛って分からねぇ。やっぱ俺は金が1番だわ。」
「それでいいんじゃねえの。」
カッコつけてみたが、実際は自分の身勝手さが嫌になる。オレのボスに対する愛と、ボスの白井環に対する愛は、根本的に違う。オレはただオレが存在するためにボスを愛してる。ボスの愛は、もっと暖かくて優しいものだ。ただその人が大切だから大切にする。相手に何も求めぬ無償の愛。オレはそんなもの分からないし、この先もきっと理解できない。でも、こんなオレでも、無償の愛が欲しかった。誰かのおこぼれでいい、ただ生きているだけで愛される、ボスの白井環に対する無限大の愛のチリ1つでもいいから、分けて欲しかった。それだけで、息ができる気がするから。
煙草の煙のような灰色。
タールのように降り注ぐ黒。
血のように鮮やかに滴る赤。
オレの世界を構成するものは、それだけだった。
それだけの方が、きっと幸せだった。
でも、オレは知ってしまった。
全てを柔らかく包み込んで抱きしめてくれるような、春色の愛情。
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