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第二章【涼やかな声】
◆
「取り急ぎ、お嬢様の処遇を確認してみます。本日は、ごゆるりとお過ごしください」
スミさんはそういうと、慌ただしく離れ座敷を後にした。
私はすることもないので、スミさんに渡された法律の本を縁側で読んでいた。
そうしているうちに、遠くからチリチリと聞き慣れた音がした。
「お姉様、なにを読んでいるんですか」
暁は私の隣にくると、いつものように優しく私の額を拭いてくれた。
「スミさんに渡された法律の本を読んでいたの」
「お姉様は、本が好きなんですか」
「うん。頭に知識が入ってくる感覚が好き」
暁は「よくわからない」という表情を浮かべていたが、口にはしなかった。
「暁は、なにが好きなの」
彼女は数年前から私の世話をしてくれているが、私自身は彼女のなにを知るでもなかった。
「私は、お姉様の側にいるのが好きです。落ち着くので」
なかなかの人たらしである。
「私の世話をしていない時は、なにをして遊んでるの」
暁は「そうですねぇ」と視線を浮かせた。
「だいたい山にいます。最近はあまり入っていませんが、紅娘山にいることが多いです」
紅娘山というのは、朝比奈邸が鎮座するこの山のことである。
「今は自由にしていいといわれているし、いってみようかな」
私は思いつくままにいった。
「山にいきたいんですか?」
予想していなかった答えだったのか、暁は少し戸惑った様子だった。
「うん、山でテントウムシを探したい」
「テントウムシですか」
暁は「なぜだ」という顔をしていたが、やはりそれを口にすることはなかった。
私は大学で生物学を専攻しており、大学院に進んだ際にはテントウムシの研究をしたいと思っていた。それくらいにはテントウムシには興味があった。
「紅娘山にいくなら、蔵の裏手に山へ入れる小径があります。私は一緒にはいけませんが、少し散策するくらいなら問題ないと思います」
◇
暁が離れから去った後、私は山にいってみることにした。
彼女が教えてくれた通り、蔵の裏手には小径があった。
テントウムシを山で探すなら、日当たりのいい、ひらけた場所がいい。これほどの山なら、該当する場所も少なからずあるだろう。
私は無策のまま、黙々と山を登り続けた。しばらくすると、それらしき場所があった。そしてほどなく、ナミテントウを見つけた。
ナミテントウはかわいらしい見た目をしているが、幼虫の時から肉食で、アブラムシを食べる。無農薬野菜に一役買っている益虫である。
異世界といえど、見慣れたナミテントウがいる。この小さな存在が、私を大きく安心させた。
私はその場に座り込み、時間を忘れてナミテントウを見つめていた。
そうしているうちに、周囲はいつの間にか薄暗くなっていった。
山の天気は変わりやすいと聞くので「いずれ明るくなるだろう」と、大して気にとめていなかった。
しかし周囲は明るくなるどころか、完全な闇になっていた。
なにかがおかしい。そう思った時はすでに、私の平衡感覚は失われていた。座っているにも関わらず、足元がぐらりと歪んだような感覚があった。
何かにきつく体を締めつけられたかと思うと、呼吸もできなくなった。もがくように暗闇の中で手を伸ばすと指先になにかが触れたので、私はすがるようにそれを握った。
気が遠のくほどには苦しかったが、それはほんの数秒のことだった。
周囲が明るくなると、体も呼吸も楽になっていた。
先ほどの暗闇はなんだったのか。
そんなことを考えながら周囲に目をやると、そこは先ほどまでナミテントウを見つめていた場所とは違っていた。
しかし感覚として、ここは紅娘山であるとも感じていた。
ふと自分の手を見つめると、小さな巾着が握られていた。暗闇で触れたのは、この巾着だったらしい。これはどういう現象なのだろうと思いつつ、私はその場で呆然としていた。
そうしているうちに、再び日が遮られた。
視線を上げると、そこには三メートルはありそうな鬼がいた。鬼は風神雷神像のような姿をしており、その周りは黒い霧が浮遊している。
鬼の目はぎょろりと私を見つめて静止した。
「かね」
奇妙な響きを持つ声だった。
「お金、だせ」
鬼は私にお金を要求しているらしかった。
できればお金を出して、その場から逃げ出したかった。しかし私は財布どころか小銭さえ持っていなかった。
「なにしてるんだ?」
鬼の背後から、よく通る涼やかな声がした。
私を襲わんとしていた鬼は、声の方を振り返った。すると鬼は、しゅるしゅるとカワウソの姿に変化した。カワウソが鬼に化けていたらしい。
「にんげん」
カワウソはそういって、私を指した。
カワウソが見つめる先には、美しい少年がいた。あまりにも整った顔立ちをしているので、彼も人間に化けたなにかかも知れないとも思った。
しかしそんな思考も、すぐに吹き飛んだ。彼は実に人間らしい表情で、訝しげに私をみた。
「なんで人間がこんなところにいるんだ。誰だ、お前!」
少年はそういって、勢いよく私の胸ぐらを掴んだ。
彼は私をじっと見つめると、口を開いた。
「お前、朝比奈家の角仙娘か」
私のツノに気付いたらしい。
「そう」
私は短くいった。
彼に短い返事をした後で、自分が猛烈な吐き気に襲われていることに気がついた。
謎の暗闇に出会って平衡感覚を失ったことも、鬼に化けたカワウソに恐喝されたことも、現在少年に胸ぐらを掴まれていることも、目覚めたばかりの私にとっては刺激が強かったようである。
私の異変を察したのか、少年は私から静かに手を離した。
「お前、具合が悪いのか。山酔いか?」
「わからない。気持ち悪い」
私が力なくいうと、少年は私に顔を近づけた。
「たぶん山酔いだな。吐いた方がいいぞ」
彼はそういって、ためらうことなく私の口に指を突っ込んだ。
私は抵抗することもできず、少年にされるがままだった。
その場で嘔吐したことは微かに覚えている。
しかしその後の記憶は、ふっつりと途切れている。
◆
額に冷たいものが触れて、目が覚めた。
目を開けると、そこにはスミさんの姿があった。
「お嬢様、ご気分はいかがですか」
私は離れ座敷の自室に寝かされているようだった。
「大丈夫、です」
吐き気がないことを確認すると、私は上半身を起こした。
「すみません。私、紅娘山にいたんですけど」
「だいたいの事情は影彦から聞いております」
「かげひこ?」
「私の孫でございます。黒瀬影彦。今年で十七になります」
彼はやはり人間だったらしい。
「そうなんですね。急に気分が悪くなったので、助かりました」
おそらく彼が私をここまで運んでくれたのだろう。
自分が紅娘山のどこにいたのかは不明であるが、人を担いで山を下りるのは一苦労だっただろう。
「影彦は山酔いだろうといっていたのですが。直前に、なにか変わったことはありましたか」
私は山で起きた出来事をスミさんに話した。
テントウムシを見ていたら、急に周囲が暗くなったこと。平衡感覚が失われて苦しくなったこと。鬼に化けたカワウソにお金を要求されたこと。
言葉にしてみるとそれらは、絵空事のように思えた。しかしスミさんは私の言葉を疑うことなく「なるほど」といった。
「話を聞く限りでは、たしかに山酔いのようですね」
スミさんの口ぶりから察するに、この世界ではよくある出来事らしい。
「あと一時間も横になっていれば、体調は戻るでしょう。しかし、しばらくは山に入らない方がよいと思います。それと、紅娘山はカワウソは人間嫌いなので、今後も気をつけた方がよろしいかと。影彦も、カワウソに馬鹿にされていないといいのですが」
そういった彼女の顔は、紛れもなく祖母の顔であった。
「カワウソは影彦に声をかけられて、私を脅かすのをやめてくれました。だから馬鹿にされているとか、そういう様子はなかったように思います」
スミさんは「それならいいのですが」と息を吐いた。
「影彦は優秀ではあるのですが、精神的にはまだまだ未熟なので心配が絶えません。昔から妖怪が好きで、馬鹿にされては泣いておりました。それでも妖怪が好きなんでしょうね。最近は塾にもいかず、山で遊んでばかりです」
「彼も塾生なんですか」
「そうです。まだ抜刀ができないので、妖将官試験には合格できておりません」
「刀が使えないんですか」
「いえ。私がいった抜刀とは、妖術の抜刀のことでございます」
それからスミさんは、抜刀についての説明をしてくれた。
この世界には妖術書という、妖術の基本書がある。
その妖術書を理解したものは、両人差し指の第一関節をマッチのように擦ると肢刀と呼ばれる妖怪を斬れる刀が出せるようになる。肢刀を出す行為のことを、妖将官らは抜刀と呼んでいる。そして妖将官になるには、抜刀できることが絶対条件であるらしい。
さらには成長期を終えた者は抜刀するのは難しいとされており、妖将官試験の受験資格は二十歳未満とされている。
スミさんから聞く妖怪退治の話には、いつも刀が登場していた。それは肢刀のことだったのだろう。
「スミさんは、今も抜刀できるんですか」
「はい、できます」
彼女は即答した。
「見てみたいです」
スミさんは「いいですよ」と、その場に立った。そして左手を腰に当て、人差し指を立てた。そして右手の人差し指と左のそれを擦ると、彼女の右手にはうっすらと光る白鞘の日本刀が現れた。
私は「すごい……」と、感嘆を吐いた。
「納刀の所作はありません。肢刀を握っていた手を開くと、勝手に消えます」
スミさんが右手を開くと、肢刀は音もなく消えていった。
「お嬢様は明日以降、紅々塾に通っていただくことが決定致しました。ご自身の力を知るためにも妖術書を学び、抜刀していただきたいのです」
スミさんは私の横に座り直した。
「それは二十歳までに、ということですね」
二十歳未満でなければ抜刀するのは難しい。
さらにはこれまでの角仙娘は二十歳前に衰弱死していた。
目覚めた私もそうなる可能性があり、それを回避するには抜刀する必要があるのかも知れない。
私は彼女の言葉を、そう理解した。
スミさんは「はい」と、いつも以上に落ち着いた声でいった。
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