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第三章【お前といる】
◆
昼食後、私の体調はすっかり回復していた。
しかし本日はおとなしく、離れ座敷で過ごすことにした。
「お前、目が悪いのか」
縁側で妖術書を読んでいると、突然声を掛けられた。
顔を上げると、離れ座敷の庭に影彦が立っていた。
ここには朝比奈家の者か、私の世話役しか入れないと思い込んでいたが、そんなことはなかったらしい。そもそも影彦は黒瀬家の人間なので、私が思う以上に朝比奈家と所縁があるのだろう。
「本、読みにくそうだな」
「そんなことはないけど」
私の回答には興味がなかったらしく、影彦は無言で私に右手を出した。
「なに?」
私には彼の真意がまるで分からなかった。
「アラヤがお前に、金を取られたっていってる」
「アラヤ?」
「今朝の、カワウソの名前」
私は「ああ」と合点した。
そういえば鬼に化けたアラヤに、金を出せといわれたのだった。
「取ってないよ」
影彦は私の顔をじっと見つめた。
「でもアラヤは、お前が財布を持ってるといってたぞ。なにか拾わなかったか」
そういわれて初めて、暗闇の中で巾着を拾ったことを思い出した。
どこぞに置き忘れたように思っていたが、着物を探ると袖の中から巾着が出てきた。
「これ?」
やっぱり盗んだなといわれたら、正直に拾っただけであると答えるしかないと考えていた。しかし影彦は「たぶんそう」と、それを受け取るだけだった。
「アラヤはどうやってお金を稼ぐの?」
鬼に化けて、人間からお金を奪っていたら嫌だなとは思った。
「俺が小遣いを渡してる」
想像していない答えが返ってきた。
「それは、どうして」
「別に。アラヤが喜ぶから」
変なことをしている自覚があるのか、影彦は私から目を逸した。
「スミさんは紅娘山のカワウソは、人間が嫌いだっていってた」
あなたは、いいように利用されているのではないか。
そんな言葉を吐こうとしたが、影彦は「なにがいいたいんだよ」と私の言葉を遮った。さらには噛みつかんばかりに、私を睨んだ。
「無条件でお金を渡すのは、あまりいいこととは思えない」
殴られるかも知れないと思いつつも、私は思っていることを口にした。
「アラヤは、病気なんだよ」
影彦はそういうと、さっさと庭を後にした。
すべてを拒絶するような影彦の背中に、私は謝罪することもできなかった。
◇
夕食後、私はそれなりに悶々としていた。
風呂上がりに縁側で涼んでいても、やはり悶々としていた。
「おい」
悶々としている直接の原因が目の前に現れたので、私は「うわ」と必要以上に驚いた。
「え、なに」
影彦に会ったら謝ろうと、心の隅では思っていたはずである。しかし夕暮れ過ぎに離れ座敷に影彦が来るとは思っておらず、心の準備がまるで出来ていなかった。
「お前、巾着からお金取っただろ。返してやれよ」
影彦の言葉には、まるで迷いがなかった。
「取ってないよ。そもそも巾着を開けてない」
しばらく悶々としていたことが嘘のように、私はきっぱりといった。
「でもアラヤは、お金が足りないっていってるぞ」
アラヤが病気であることは否定しない。
しかし影彦がアラヤに馬鹿にされている可能性は、おおいにあるように思えた。
「いくら足りないっていってるの?」
影彦は首を傾げた。
「わからない」
かなり雑に、お金の収集を頼まれたらしい。
「アラヤはここには、来られないの?」
「アラヤは、この神域には入れない」
そんな気はしていたが、この離れ座敷は神域とか、そういう類の場所になっているらしい。門扉が鳥居であることも納得である。
「庭の隅までいくから、直接来て欲しいと伝えて。声をかけてくれたら、そこにいくからって」
そして私は「あの辺なら、寝ていても気づくと思う」と、庭の四つ目垣を指した。
影彦は釈然としない様子であったが「わかった」と、去っていった。
◇
「きた、きたぞ!」
その声がしたのは、影彦が去って数時間後のことだった。
真夜中といっていい時間であったが、私は寝室の文机で妖術書を読んでいた。妖術書はそれなりに厚い本なので、まだまだ読み終わる気配はなかった。
「だぁれ?」
障子を開けて庭の隅に問いかけると「アラヤ!」と返事がきた。
私は縁側から庭に下りて、アラヤのいる方へ向かった。
「お金」
アラヤはそういって、離れの四つ目垣の間から前脚を出した。
さながらおねだりをする、子どもの手のようだった。
「私は巾着からお金を取ってない。わかってるでしょ」
アラヤは深くうなずいた。
しかしその後で、再び「お金」といった。
「あなたは病気って聞いたけど、どんな病気なの? 私にできることは少ないけど、私以外の人間に頼めることはあるかもしれない」
アラヤは私の言葉をゆっくり咀嚼した後で、口を開いた。
「ふるえる」
「震える? 寒いの?」
「ちがう」
アラヤは首を振った。
「お酒、のまないと、ふるえる」
単純に考えてアルコール依存症である。
「お酒を飲むために、お金が欲しいのね」
アラヤはうなずいた。
「あなたはきっと、影彦を騙している自覚はあるんでしょ」
「でも、お酒のみたい!」
悪意がない分、悪質である。
「とりあえず、断酒した方がいいと思うけど」
アラヤは「いやだ!」と首を振った。
「影彦と出会う前は、どうやってお酒を飲んでたの?」
「おなじ。にんげんの子どもは馬鹿だから、だましやすい」
「騙しやすいとしても、馬鹿といわれるのは悲しいと思う。影彦とは仲がいいんでしょ、たぶん」
「影彦はお金くれる。だから、いっしょにいるだけ」
人間の機微をカワウソに理解しろというのも無理な話なのだろう。
それでもこの事実を聞いたら、影彦は傷つくだろうと容易に想像できた。アラヤになにをいうべきか思考を巡らせども、なにも思いつかなかった
思考がまとまらないままで、私は庭の微かな違和感に気が付いた。
そちらに視線を向けると、そこにはアラヤの死角に潜んでいる、影彦の姿があった。
彼に怒りの色はなく、ひどく傷ついた顔をしていた。
「影彦はただ、あなたのことが好きなんだと思う。きっと病気を治してほしいとも思ってる。だからこれからは、その気持ちを利用することはしないで欲しい」
私の言葉に、アラヤは首をかしげた。
「とにかく私は、あなたにお金は渡さない」
アラヤは「わかった!」と、けろりとその場を去っていった。
私の真意がどこまで伝わったのかは不明である。
アラヤが去った後で、私は金木犀の側にしゃがんでいる影彦に近づいた。
「妖怪に馬鹿にされるのは、別に初めてじゃないんだ」
影彦は私の顔を見ずに、独り言のようにいった。
「その度に大人たちには、妖将官になるまでは妖怪に近づくなっていわれた。山にいる妖怪は子どもを騙すから、近づいたお前が悪いって」
「それでも、アラヤのことは信じたの?」
「信じたいと思ったし、一緒にいてくれるなら誰でもよかった」
影彦は静かに涙を流した。
涙を流す影彦は、ひどく幼くみえた。
「旭灯がいったように、俺はただアラヤが好きだったんだ。一緒にいてくれるから、好きだったんだ」
影彦のような性格ならば、建前の少ない妖怪との方が付き合いやすいと感じても不思議ではないように思った。
「誰かの側にいたいなら、私といればいいよ。私はきっとどこにもいけないし、あなたを騙すこともないと思う」
私は影彦の涙を、寝巻きの袖で拭いた。
「妖怪を信じることの善悪は、私にはまだ分からない。でも信用したいなら、もっと妖怪を知るべきなんだと思う」
影彦はまっすぐな視線を私に向けた。
「私は明日から塾に通うから、そういうこともしっかり勉強しようと思う。言い忘れてたけど、山で助けてくれたこと。ありがとう」
影彦は「うん」と、どこか呆けた様子でいった。
「お前が塾にいくなら、俺もいく」
影彦はそういうと、彼の涙を拭いていた私の手を強く握った。
「俺はこれから、お前といる」
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