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第七章【菩薩のような】
◆
翌朝、スミさんは「硯利からです」と赤縁のメガネを渡してくれた。
その際に、書庫の出入りは好きにして問題ないともいわれた。硯利がなにかいってくれたようである。
それから私は、紅々塾へと向かった。
塾には決まった登校時間はないらしく、各自が与えられた課題を黙々とこなしている。
私が塾長の元へ向かうと、昨日とは少し違った好奇の目を向けられた。私が角仙娘であるとか、入塾試験で満点を取ったとか、そんなこと以上に、影彦と親しげであることの方が、塾生たちは興味がありそうだった。
教育機関という世間から離された場所においては、全国模試で一位を取るよりも、全国大会で優勝することよりも、価値があるとされることが山ほどある。
「きたぞ」
妖術書を読んでいると、影彦は昨日と同じく私の隣に座った。
「うん、おはよう」
影彦はおもむろに私が掛けていたメガネに手を伸ばした。そしてそれを私から奪うと、自分でメガネをかけた。影彦が「似合うか?」といったので、私は「似合うよ」と答えた。
「読みやすくなったか?」
「そんな気がする」
「よかったな」
影彦はそういうと、メガネを返してくれた。
「うん、ありがとう」
私がお礼をいうと、彼は心底満足した様子だった。
その後、私たちはそれぞれに妖術書を読み進めた。
毎度というわけではないが、私は深く集中すると寝食を忘れることがある。おそらく本日もそれに近い状態だった。影彦がいつ塾から出ていったのか、私はまるで気づかなかった。
私が影彦の不在に気付いたのは、塾の終了を知らせる塾長のよく通る声を聞いた時だった。
それを合図に、塾生たちはそれぞれに塾を後にした。
塾長に質問のある者たちは一列に並んでいたので、私も最後尾に並ぶことにした。
私の前には黒髪の少女が並んでいた。彼女は私の顔を確認すると、遠慮がちに口を開いた。
「あの、私。上野仲緒といいます」
「朝比奈旭灯です」
「はい。旭灯さんのことは、一方的に知っています。私、ここを質問しようと思っているんですが、旭灯さんは分かりますか? 大変優秀であるとお見受けしたので」
彼女はそういって、持っていた教本を開いた。
その教本は妖術に関連するものではなく、通常の座学のものだった。官吏試験には座学も必要なので、その勉強をしている生徒がいても不思議ではなかった。
私は仲緒の教本を受けとり、できるだけ丁寧に解答の導き方を説明した。彼女は私が言葉を発する度に、しっかりとうなずいてくれた。
「ありがとうございます! 今度は一人でも、解けそうな気がします」
仲緒は目を輝かせていった。
「役に立てたなら、なによりです」
私は安堵の息を吐いた。
私は今まで一度も、誰かに勉強を教えて欲しいといわれたことはなかった。そのせいか、初めて味わう満足感と達成感に包まれていた。
「お時間を取らせて、すみません」
塾長に質問する列は消失しており、塾長もすでに塾内にはいないようだった。
「明日質問すればいいので、大丈夫です。この教本を借りたいとも思っていたんですけど、どうしてもというわけではないので」
私は塾の本棚に教本を戻した。
「その教本なら、朝比奈家にはあると思いますよ。それなりに有名な教本なので」
妖怪が当たり前に跋扈するこの世界においては、妖術書以外にも、それに関する本が教育機関以外にあってもおかしくないのだろう。
「たしかに、書庫にはあるかも知れません」
「朝比奈家の書庫になら、それ以外の教本もたくさんあると思いますよ。絶版になった戯作もたくさん所蔵されてると聞いているので、羨ましい限りです」
仲緒は思いを馳せるようにうっとりといった。
彼女は本が好きなのだろう。
「今日は、元々書庫にいく予定だったんですけど。よければ、一緒にいきますか」
◇
「夢みたいです!」
彼女はその場で飛び跳ねんばかりに喜んでくれた。
私も初めて朝比奈家の書庫に入ったわけであるが、予想以上に本が置かれていた。硯利の洋館とは違い、近所の図書館を思い出させる本棚の配置だった。
「本が好きなんですね」
私はいった。
「はい、物語が好きなんです。でも本ばかり読んでいるので、親にはよく叱られます。妖将官試験はあと一回しか受けられないので、私以上に焦っているんでしょうね」
なかなかの童顔なので同じ年くらいかと思っていたが、彼女は十九らしい。
私は十六なので敬語も敬称もいらないと仲緒にいってみたが、それはやんわりと拒否された。
「私の敬語はクセみたいなものなので、気にしないで下さい。旭灯さんこそ、仲緒と呼んでください。敬語もいりません」
なんだか菩薩のような人だなと思った。
「仲緒は、妖将官になりたいんですか」
失礼かもしれないと思いつつも、彼女に焦りのようなものを感じなかったので、私は質問した。
「なれたらいいなとは思います。でも、向いていないだろうとも思っています。でも受験資格があるうちは、妖将官を受け続けるつもりです。合格しても向いてないと思ったら、文官に転属すればいいので」
私は二十三才で死に、転生して十六才で目覚めた。それでも十九才の仲緒の方が、ずっと大人のように思える。
「それに、ありがたいことに、弟はすでに妖将官試験に合格しているんです。だから両親は焦りこそあれど、私に過度な期待はしていないので、気が楽なんです」
「弟がいるんですね」
「はい。徒真といいます。特別任務とかで、先日からうちに帰ってきていますが、普段は将学院の寮に入っています。妖将官試験に合格した者は将学院で四年間、訓練生として実務経験を積みながら学ぶんです」
「たぶん、昨日すれ違いました。影彦と町を歩いている時に」
「そうだったんですね。あの子、そんな話は一言もしてくれませんでした」
仲緒は不満げにいった。
「影彦とちょっとあったので、話すほどでもないと思ったのかも知れません」
私の言葉に、仲緒は青ざめた。
「また何か、いらぬことをいって、影彦を怒らせたんでしょうか」
「まあ、少し」
私は目を逸しながらいった。
仲緒は「姉として、影彦に謝罪したい」と、がっくりと肩を落とした。
「仲緒が謝る必要はないです。でも、家族の行動に頭を下げようという気概は、すごく素敵だと思います。今、ちょっと感動してます」
「いえ、感動されるところでもないかと」
私は見当外れなことをいったらしく、仲緒は笑った。
「彼は、影彦が嫌いなんですか」
「いいえ、むしろ好きだと思います。影彦は七才まで女児の格好で育てられていて、それはもうかわいらしい子どもでした。本人は認めませんが、徒真の初恋は影彦だったと思っています。私たちは家も年齢も近いので、幼い頃はよく三人で遊んでいたんです」
いわゆる幼なじみなのだろう。影彦にそういう存在がいたことに、私は少しほっとした。
「影彦が女児の格好をしていたのは、この辺にそういう風習があるんですか」
「そうですね。この辺といわずとも、歴史ある家の男児は、七才までは女児の格好をさせられることが多いと聞いています」
そういう風習は日本では主に社家にあったと聞いている。
「病魔や荒神を遠ざけるためでしたっけ」
「そうです。男の子の方が悪霊に狙われやすいともされていたので。でも影彦は幼い頃から健康でした。そして成長するにつれて、山で遊ぶことも多くなっていきました。私たちは山に入ることができないので、遊ぶ機会も自然と減っていきました」
「山って、紅娘山ですよね。入れないんですか?」
「入れないというのは、語弊がありましたね。私たちは単純に、紅娘山が怖いんです。この辺で生まれ育った者たちは、紅娘山にまつわる怖い話を聞かされて育ちます。その影響が大きくて、山に入ろうと思えないんです。そもそも朝比奈家と黒瀬家以外の者にとっては、禁足地ともいわれています。結界があるとかないとか、そんな話も聞いたことがあります」
それは初めて知る事実であった。
しかし初代角仙娘の御神体が紅娘山に祀られているのであれば、そんな結界もあって然るべきなのかも知れなかった。
「徒真は影彦に相手にされないことがなにより悔しいようで、影彦に変につっかかるようになりました。そしてそれに比例するように、徒真は勉強にのめり込むようになりました。その甲斐あって妖将官試験に合格したんですが、徒真本人は影彦に劣等感を抱いたままなんです。不思議ですよね。世間的には妖将官試験に合格した徒真の方が優れているとされるはずなのに」
徒真の気持ちは、少しわかるように思った。
私は両親に褒められることが何よりうれしくて、それ以外にはひどく無関心だった。誰に認められたとしても、両親に認めてもらえなければなんの意味もないとさえ思っていたかも知れない。
「いずれにせよ、徒真が影彦を怒らせることを口にしたのであれば、しっかり叱っておきます」
仲緒は宣言するようにいった。
そんな仲緒を見ていると、彼女を姉に持つ徒真を羨ましく思った。
「私がいうのもなんですが、影彦の側に旭灯さんがいてくれてよかったと思うんです。影彦は徒真が合格してからは、塾にも顔を出さなくなりました。心配だけはしていたんですが、私はなにもできないままでした。私は心のどこかで、影彦と肩を並べてくれる誰かが現れてくれることを、ずっと願っていたのかも知れません」
仲緒は「無責任だとは思いますが」と、恐縮して微笑んだ。
彼女は徒真の姉であり、影彦の姉であるのかも知れない。
「旭灯さんは勉強もできるし、とても親切だし。心から尊敬します」
仲緒はまっすぐに私を見つめた。
彼女がこんな風に接してくれるのは、私の持つ魔性のせいかも知れないとは思う。しかし、それでもいいと思った。
「私の方こそ、仲緒を尊敬します。私は初めて会う同年代の人間に教えを乞うこともできないし、家族のために頭を下げることも、心の底から誰かを心配することもなかったように思います」
私は仲緒をまっすぐに見つめた。
「あなたのことを、友だちと呼んでもいいでしょうか」
私の声は震えていた。
「もちろんです。私でよければ」
そう微笑んでくれた彼女を見て、なんだか涙が出そうだった。
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