第九章【手際がいい】

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第九章【手際がいい】

◆  上野家から帰って夕食を済ませた後も、私は妖術書を読み進めた。 「今はなんの本を読んでいるんですか」  チリチリと鈴が聞こえたかと思うと、暁がやってきた。  そして彼女は、私の(ひたい)を拭いてくれた。特に額に汗をかくわけではないが、彼女はいつも丁寧にそうしてくれるので、私はそれを享受している。 「今は、妖術書を読んでるの」 「妖術書は面白いですか」  暁はおそらく現在は、寺子屋で読み書き計算を習っているのだろう。 「うん。知らないことばかりで面白い」  私がいうと、暁は「そうなんですね」と微笑んだ。 「暁は最近、あまり山に入ってないといってたけど。誰かに何かいわれた?」  暁は朝比奈家の人間なので、紅娘山を恐れる様子はない。しかし現時点では、山に入るなと公言もされていないはずである。 「なにもいわれてません。でもなんとなく嫌な感じがするので、入ってないです」  彼女は彼女なりに、敏感になにかを感じ取っているのだろう。 「どうしてですか?」  私は「ううん、なんとなく」と言葉を濁すことしかできなかった。 ◇  暁が離れ座敷を去った後、私は風呂に入った。  湯船につかる間「沼黄泉が探しているのは、やはり私ではないか」という予感に支配された。  私が朝比奈旭灯として十六年間生きたのは事実である。  しかし私は、自分が転生したことを知っている。沼黄泉が転生した私を、この世の異物として認識しても不思議ではないように思った。  紅娘山に入って、沼黄泉に出会ってしまうのは怖い。  しかし私は、自分がこの世界で生きていていいのかを、沼黄泉に問いたい気持ちもほんの少し存在していた。 「旭灯。風呂か?」 「え、影彦?」  外から影彦の声がしたので、私は思わず湯船の中で体をすくめた。 「うん。ちょっと、気になることがあったから来たんだ」  影彦の声色はいつも通りだった。 「わかった。もう出るから、縁側で待ってて」  私はそういって、湯船から立ち上がった。  立ち上がるタイミングが早すぎたらしく、水音に振り返った影彦と、ばっちり目が合った。  私は慌ててもう一度、湯船に顔まで浸った。  湯船から出ても顔の熱がとれる気配はなかったが、私は影彦の待つ縁側へと向かった。 「この本に、気になることが書いてあった」  影彦は通常運転だったので、私は少々気が抜けると同時に安堵した。  影彦はその場で本を開いたが、夜も更けており灯籠と月明かりだけでは、文字は読みにくかった。  私は影彦を自室に招き、文机に明かりをつけた。 「ここだ。角仙娘とその御神体が邂逅すると、その記憶がより深く継承されることがあるって書いてある。旭灯の呪いが解ける手がかりがあるかも知れない」  私自身は妖術書の勉強を最優先にした方がいいといわれたわけであるが、彼はしっかり私の呪いに向き合ってくれているらしい。こんな風に自分のことを思ってくれる人がいるのは、何より心強いことだと思った。 「角仙娘の御神体が、紅娘山のどこに祀られてるかわかる?」 「うん、わかる。山頂付近だ。ずっと前に興味本位で近づいたことがある。でもなんだか妙な感じがしたから、近づかないようにしてた。たぶん簡単な結界みたいなものがあるんだと思う。その中に入れないわけじゃないけど、入ると嫌な感じがするような結界だ」  それは村人が紅娘山に感じるそれと同じなのかも知れなかった。 「入れないわけじゃないなら、いってみたい」  私はいった。 「うん。いくなら早い方がいいと思う。これを見つけた時、沼黄泉が探してるのは角仙娘の御神体かも知れないって思ったんだ」  影彦は思いもよらぬことをいった。 「角仙娘の御神体が、沼黄泉に異物だと認識されてるってこと?」 「うん。待機してる妖将官たちも、その可能性はあると思って行動してる気がする。御神体になにかあれば、山の妖怪も騒ぐと思う」 「それなら、今から御神体にいった方がいいかな」 「いや、それはダメだ。さすがに夜の山は危ない」  山を知っている人の言葉である。 「明日の朝いこう。絹香の件が終わってから」  私は「わかった」とうなずいた。 「徒真がいってたように、絹香が山に入ってるのは俺のせいな気がするんだ。だから、危険な目にあってほしくない」 「うん。危険な目に合う前に、気付けてよかったと思う」  影彦は私を見つめると「うん」と、静かに微笑んだ。  それは今まで見たことのない、彼の柔らかい笑顔だった。 ◆  翌朝、私たち四人は上野家の祠を見下ろせる場所にいた。 「久しぶりに紅娘山に入ったけど、やっぱり不快感というか。そわそわしますね」  仲緒がいうと、徒真は「俺も」と同意した。 「仕事柄、禁足地といわれる山に入ることも多いけど、子どもの頃から畏怖の念を抱いていた紅娘山に入る感覚は別格だな」 「影彦も旭灯さんも、なんともないんですか」  仲緒は私と影彦を見つめた。 「俺はなんともない」 「私もなんともない。不快感って、どういう類のものなんですか」 「なんていうか、泥の付いた草履で畳を踏んでいるような、そんな居心地の悪さがあるかな。自分が場違いだって気持ちになる」  徒真がそういった後で、視界の隅でなにかが動いたような気がした。  それは私だけではなかったらしく、全員が息を潜めた。 「絹香(きぬか)だ」  影彦が低い声でいった。  私たちの見下ろす祠には、絹香が近づいていた。  彼女は膝を折って祠にお米をお供えすると、両手を合わせた。  それから絹香は立ち上がり、祠の横手から山に入っていった。 「やっぱり、山に入っていたのは絹香だったんだな」  絹香はしっかりとした足取りで、山へと入っていった。 「よほど深い理由でもあるんでしょうか」 「そうでないと、こんなに迷いなく山に入らないだろうな」 「俺は後を追う」  影彦は迷いなく絹香を追った。 「私もいきます。二人は無理しないで」  私も、影彦に続いて絹香を追った。 「え、おい」  後方から徒真の声が聞こえたが、私たちは足を止めることなく絹香を追った。  絹香は向かうべき場所が決まっているらしく、迷うことなく足を進めた。 「この先、なにがあるんだ?」  徒真の声に、私も影彦も振り返った。 「来たのか。大丈夫か」 「気持ち悪いけど、我慢できないほどじゃない。お前ら二人と、絹香さんを放っておけないしな。でも、姉さんは置いてきた。朝食までに俺が戻らなければ、大人たちに状況を連携してもらう」 「相変わらず手際がいいな」 「何年お前に付き合ってると思ってんだ」  それは、彼らの歴史の感じさせる会話だった。 「で、この先には何があるんだ」  徒真は絹香に目を向けたまま、もう一度同じ質問をした。 「この先は水子(みずこ)(ぬま)だ」 「さっきの祠には水子が祀ってあるんだけど。もしかしたら関係あるのか」  徒真はいった。 「水子って、生まれることができなかった子どもとか、生まれてすぐに死んだ子どものことだよな」 「うん、それであってる。でも、七歳未満の子どもを指してることも多いらしい。予防接種がない時代は、子どもの死亡率はかなり高かったからな。黒瀬家の男児が七才まで女児の格好をする風習も、そういう理由だろ」  この世界には現代日本と同じく予防接種の制度があるらしい。漠然と明治時代くらいであるとは思っていたが、私の知らないことはまだまだあるのだろう。 「しかし、紅娘山にはもっと妖怪がいると思ってたけど案外いないんだな」 「みんな夜行性だからな」 「それもそうか。姉さんの話だと、絹香さんはいつも朝食の時間には上野家にいるって話だった。そろそろ引き返すんじゃないか」  徒真がいった通り、ほどなく絹香は立ち止まった。  そして水子沼に向かって、祈るように両手を合わせた。  それは祠にそうしていた時間よりも、ずいぶん長い時間だった。 「なんだ。沼がおかしい」  影彦の言葉を合図に、私は絹香でなく水子沼に視線を向けた。その水面は、不自然に揺れていた。そしてその揺れは、次第に大きくなっていった。  そして黒い霧は、静かに絹香に近づいていった。 「絹香!」  影彦はなにかを察したらしく、隠れることをやめて絹香へ叫んだ。  沼に手を合わせていた絹香は影彦の声に、目を開いた。  その後で、自分が黒い霧に覆われていることに気付いたようだった。 「影彦様! 来てはいけません!」  絹香は影彦に叫んだ。 「なんだ、なにしてるんだ!」 「私は、私を罰してほしいと水子たちに頼んでいたんです」  絹香は悲痛な声を上げた。 「影彦様の弟君から目を離して死なせてしまったことを、私はずっと悔やんでおりました。しかし黒瀬家の方々は、一度も私を責めませんでした。影彦様を立派に育ててくれたらそれでよいと、寛容にそういってくれました。しかし黒瀬家を離れ、自分の子どもを授かってから、この上なく愛しいと感じるようになってから、自分の罪の重さに耐えられなくなってしまったんです。だから私は、なにかに罰してほしいと願っていたんです」  絹香はそういって涙を流した。  黒い霧が絹香と影彦を覆い始めると、二人の足元は泥に飲まれるように沈み始めた。 「影彦! 沼黄泉だ!」  徒真は叫んだ。  影彦は絹香の両脇を抱えると「徒真! 受け取れ!」と彼女を力任せに、こちらに放り投げた。 「えぇぇええ!」  徒真は困惑しながらも絹香をしっかりと受け止めた。  それにほっとしたのも束の間で、影彦はその場に足を取られて抜け出せない様子だった。  黒い霧はみるみるうちに影彦の姿を隠してしまった。 「影彦!」  私は影彦がいた場所へと駆け寄り、虚空に手を伸ばした。  影彦が私の手を取った瞬間、私たちは地中へと飲み込まれた。 ◆第九.五章◆ 影彦  山の端に日が触れる頃、影彦の胸はぎゅうと痛くなる。  影彦は幼い頃、夜が来ることが嫌で仕方がなかった。自分と、大人たちしかいない家に帰らなければならないことが、どうしようもなく悲しくなる瞬間があった。  そんな気持ちに支配される頃、絹香はいつも紅娘山まで迎えに来てくれた。  彼女が迎えに来ると、影彦はようやく家に帰ろうと思えた。 「なんで絹香はここに来ると、手を合わせてるんだ?」  絹香と山から帰る途中、彼女はいつも同じ場所で手を合わせた。  その姿があまりにも切実に見えたので、影彦は絹香に問うた。 「ここは水子沼(みずこぬま)というんです。だから、手を合わせているんですよ」 「水子って、暁闇(ぎょうあん)のこと?」  影彦の双子の弟の名は、暁闇だった。 生まれて五ヶ月ほどで死んでしまった暁闇は、水子(みずこ)と呼ばれていることも影彦は知っていた。 「そうです。暁闇様や、生まれることができなかった子ども。幼いままに天に召された子どもたちのことです。この沼は、私たちが毎朝手を合わせている地蔵堂(じぞうどう)と同じような存在であると、私は思っております」  絹香は毎朝、黒瀬家の庭の端にある地蔵堂に熱心に手を合わせていた。  彼女を真似て、影彦も毎朝そうするのが日課になっていた。  そうするとどうしてか、影彦の心は少しだけ癒やされるように思った。  トゲの刺さった柔らかい心がの痛みが、減っていく。 ――何度もいうが、あれは事故だ。あなたのせいじゃない ――あなた一人に、赤子二人を任せていた私たちにも責任があるわ ――あの子の分もというわけではないが、引き続き影彦をよろしく頼む  影彦の誕生日が来る度に、両親は絹香にそんな言葉を掛けていた。  弟の暁闇は、不幸な事故で死んだ。  どうしようもないことだったと、みんなが口を揃えていっていた。  どうしようもないことだったとしても、大人たちは今も深い悲しみの中にいる。 両親も絹香も、暁闇のいないこの世界を嘆いている。  彼らの傷は、自分ではどうすることもできない。 暁闇にしか、癒せない。  影彦は幼いながらも、いつしかそう悟っていた。 そして自分ではなく、暁闇が生きていればよかったのにと、思うようになっていた。  暁闇がいないから両親はまっすぐに自分を見てくれなくて、暁闇がいないから絹香はいつも困ったように笑っている。  暁闇がいてくれたらよかった。  暁闇がいる世界ならよかった。  絹香と地蔵堂に手を合わせる度に、影彦は強くそう思った。  
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