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第一章【目覚め】旭灯
◆
日だまりのように暖かくて、柔らかい場所だった。
トクトクと、轟々と、心地よい音がする。
いつからここにいたのか、もう覚えていない。
「奥様。この子は、八代目の角仙娘にございます」
深く響く女性の声がした。
その言葉を受けて、私を産んだ人、つまり母親は「はい」と落ち着いた声でいった。まるでそういわれることがわかっていたかのような、そんな声だった。
私は肌に触れる外気が冷たくて、鼻と口から入ってくる空気が苦しくて、あたたかな羊水が恋しくて、大きな声で泣いた。
「この子の名は、旭灯。この子は、朝比奈旭灯です」
そういった母の声を、今もはっきりと覚えている。
しかしそこからの記憶は、おぼろげである。
私は六才になっても発語せず、体も思うように動かせなかった。体を動かせる能力は備わっているが、そういう意思を持つことができなかった。
起きていても夢の中にいるような感覚が強く、物事を深く考えることができなかった。
それでも朝比奈家の人々は、なにもできない私を大切に根気よく育ててくれた。
そのおかげで十才になる頃には、用意された食事やお風呂、着替えや排泄は、他者の手を借りずにできるようになっていた。
私の世話をしてくれる者たちは、会話ができぬ私に毎日話しかけてくれた。そして時間があれば、本の読み聞かせをしてくれた。
だから私は離れ座敷から一歩も出ずとも、この世界のことをなんとなく知っていた。
この世界は日本の明治時代くらいの文明であるらしい。しかし現代日本と大きく違う点がある。
この世界には、妖怪や神様が当たり前に存在する。
その事実をゆるやかに受け止め始めた頃、私は日本とは似て非なるこの世界に転生したことを理解した。
◇
転生する前の私は、勉強ができること以外に取り柄のない人間だった。
勉強については、日本最難関といわれる大学に気負わずに合格できるくらいには得意だった。受験時の目標は、合格することは大前提として、理科三類のトップよりも高い点数で理科二類に合格することだった。
私の人生は、大学生までは順調といってよかっただろう。
教育機関で生きるうちは、勉強ができるという一点のみで様々なことが見過ごされてきたことが、今ならわかる。
私は本来、大学院に進学したかった。
しかし家族の強い勧めで、官僚になる道を選んだ。父も兄も官僚だったので、私もそうなるべきだと納得した。
国家公務員総合職試験に合格すると、家族はとても喜んでくれた。
しかしその選択が間違いだったと気づくのに、それほど時間はかからなかった。研修の時から違和感があった。しかしそれに気付かないふりをした。慣れない環境のせいだろうと、そう思い込むことで自分を誤魔化していた。
しかし私は官僚として働くことに、壊滅的に向いていなかった。具体的になにがどうと説明するのは難しい。とにかく向いていなかった。
秋になる頃、私は職場にいけなくなった。
仕事を辞めたいと打ち明けると、母はひどく狼狽した。そして、今の仕事を辞めるなら親子の縁を切るともいわれた。
「自慢の娘だったのに、今は知らない人みたいだわ」
母は悲しげにそういった。
両親に褒められることが生きがいだった私にとって、絶望するには充分な言葉だった。
通院することも「恥ずかしいからやめてほしい」と止められており、当時の私は静かに壊れていくだけだった。
なにかにすがりたい一身で、私は毎夜近所の神社に「まともになれますように」と、お百度参りなるものをしていた。
そして神社から帰る途中で、事故に遭った。
そして死んだはずだった。
◇
しかし私は今、朝比奈旭灯として生きている。
朝比奈家は、ずっと昔に村を救った一族として、その際に呪いを受けた一族として、今も高い地位にある貴族である。
そして私は、その一族の呪いを一身に受けた角仙娘と呼ばれるツノの生えた娘だった。
角仙娘として生まれた私は、朝比奈邸の離れ座敷で大切に育ててもらっている。
意思のようなものは持たぬまま、植物のように十六年、生きていた。
しかしその日は、世界が眩しく思えた。
昼食後いつものように縁側に座り、美しい庭を眺めていた。
昨日となにも変わらない景色であるが、私にはそれがまるで違って見えていた。
今までにないほどに、世界が鮮明に見える。
そう実感すると、視覚以外の五感も、急速に研ぎ澄まされていった。
池の鯉がぽちゃぽちゃと、エサを食べる音がする。そこに命がある、そういう音がする。
新鮮な感動が、私を支配していった。
「今日は過ごしやすい気温ですね」
暁はそういうと、いつものように私の額を丁寧に拭いてくれた。
暁は年の離れた妹で、数年前からこうして離れ座敷に顔を出すようになった。そして私の身の回りの世話や、部屋の掃除をしてくれている。彼女の赤い帯紐には小さな鈴がついており、動く度にチリチリと音が鳴る。私はその音が好きだった。
「そうね。過ごしやすい」
私はいった。
それは初めて聞く自分の声だった。
「お姉様、声が……」
返事がかえってくると思っていなかったのだろう。
暁はひどく驚いた様子で私を見つめた。
「うん。話せるみたい」
暁は「い、今。スミさんを呼んできます!」と、離れ座敷を後にした。
暁が去った後、私は再び庭を見つめた。
庭の松にとまっていた雲雀がつっと空に飛び立った時、自分はようやくこの世界と焦点が合ったのだと理解した。
「お嬢様。おやつをお持ち致しました」
縁側にちょこんと座ったままの私に、スミさんがおやつを持ってきてくれた。
スミさんは七十代くらいの女性で、私の世話役といっていい存在である。
彼女は朝比奈家と肩を並べる名家である、黒瀬家の者である。角仙娘の世話は、代々黒瀬家の役目であると決まっている。
スミさんは膝を折って、おやつを載せたお盆を私の横に置いた。
お盆の上には白くてぷわぷわした和菓子と、ほうじ茶があった。
「ありがとうございます」
私がお礼をいうと、スミさんは暁と同様に、やはりひどく驚いたようだった。
私が話せるようになったことを暁から聞いていなかったのか、聞いても半信半疑だったのかは不明である。
「この和菓子、なんて名前でしたっけ。水ようかんじゃなくて……」
驚く彼女をよそに、私はなかなか呑気なことをいった。
「お嬢様、お目覚めになられたのですね」
スミさんの声は震えていた。戸惑っているような、感動しているような、そんな声だった。
私は今までも起きていた。しかし「目覚めた」という表現が一番しっくりくるように思えた。
「はい。今までになく、頭がはっきりしています」
「そうなのですね。それは本当に、喜ばしいことでございます。お嬢様、これは。この菓子は、水仙まんじゅうです」
スミさんはそういうと、ほたほたと涙を流した。
「そうでした。これは水仙まんじゅうだと、スミさんが教えてくれたんでしたね。このお菓子、大好きです」
私は手拭いを出して、彼女の涙を拭いた。
「もっと早く仰ってくだされば、いくらでも出しましたのに」
「そうですね。もっと早く話せたらよかったんですけど」
◆
その日を境に、朝比奈旭灯としての人生が動き始めた。
「おはようございます。お嬢様」
スミさんが障子を開けると、眩しい光が部屋に差し込んできた。
「おはようございます」
私は少しかすれた声でいった。
「お嬢様がお目覚めになられたことは、昨日のうちに各所に報告いたしました」
各所とはどこなのか、私にはわからない。しかし朝比奈家は歴史ある貴族なので、縦にも横にも繋がりは多くあるのだろう。
「お嬢様のご両親につきましては、現在重要な任務中ですので、お帰りになるのは数日後になる予定でございます」
両親も忙しい中で、合間を縫って私の世話をしてくれたことを覚えている。
「そんな。わざわざいいのに」
「角仙娘が目覚めたのは、前例のないことです。そうでなくても、ご両親は一刻も早くお嬢様に会いたいのです」
歴代の角仙娘は昨日までの私のように、ほとんど意思のない状態で生き、二十歳前に衰弱死するのが常だった。
それらはスミさんや第三者から聞いたわけではない。しかし私はそれを本能的に知っていた。それは私に流れる角仙娘の血がもたらす記憶だった。
「体調がよろしければ、本日は朝比奈邸内を案内したいのですが、いかがでしょう」
「私は、この離れ座敷から出てもいいんですか」
「もちろんでございます」
それから私は、スミさんが用意してくれた着物に着替えた。
私がいつも着ている着物は、日本のそれとほとんど変わりがない。しかし細部に違いはある。帯は日本の着物ほど、太くも固くもない。さらに裾は、ふくらはぎほどまでしかない。そのせいか着物の下には短い襦袢と、薄手の馬乗り袴を穿いている。
しかしスミさんが着ている着物は、日本の着物と相違ないように見える。もしかしたら私の着物は、若年用なのかも知れない。
「では、参りましょう」
私はスミさんに促されるまま、離れ座敷の玄関を出た。
いつも縁側から見ていた庭を通り過ぎると、門扉の変わりに立派な鳥居があった。その鳥居には注連縄と紙垂が掛けられている。
十六年ここに住んでいるが、離れ座敷の入り口が鳥居であることは知らなかった。
「この鳥居はお嬢様をお守りするための、一種の結界のようなものです」
私が鳥居を凝視していたせいか、スミさんはいった。
私は呪われた子どもであると同時に、さながら神のように崇められる存在でもある。角仙娘の昔話をしてくれた時に、スミさんがそう教えてくれた。
私が住まう離れ座敷は、決して小さいわけではない。
しかし朝比奈家の母屋は、想像以上に大きかった。そもそも朝比奈邸内の敷地が、とんでもない広さであった。邸内には蔵や書庫、そして使用人が住む平長屋も存在していた。
「あちらの朝比奈邸に隣接した建物は、私塾でございます。紅々塾といいます」
スミさんはそういって、平屋の建物を指した。
「寺子屋のようなものでしょうか」
「いえ、寺子屋はもう少し山を下りた場所に別にあります。紅々塾は、官吏試験を受ける者が通う塾でございます」
朝比奈邸の裏には立派な山がある。そもそも朝比奈邸自体が山の中腹に建てられているので、少し開けた場所にいくと町や民家が見下ろせる。
「官吏というのは文官、武官、妖将官の三種でしたっけ」
「そうです。それらすべての官吏試験に、対応している塾でございます」
スミさんは関心した様子で私を見つめた。
「すみません。お嬢様がそのような知識を持っているとは思っていなかったので、驚きました」
「スミさんが話してくれてことや、読み聞かせてくれた本の内容は覚えてます。もちろん、すべてではないと思いますが」
武官は軍人や警察官のような仕事で、文官はそれ以外の事務官や技官のことである。
そして妖将官とは、主に妖怪を相手にする官吏である。妖怪や神様が当たり前に存在するこの世界では、妖将官は花形の職業とされている。試験は最難関といわれ、給料も他の官吏とは比にならないほど高いらしい。
そして朝比奈家と黒瀬家の両家は代々妖将官の家系で、両親も例に漏れず妖将官である。
「今は私の世話をしてくれていますが、スミさんも妖将官なんですよね。スミさんが出会った妖怪の話はどれも面白くて好きでした」
「それは、うれしい限りです」
スミさんは微笑んだ。
「お嬢様も読み書き計算ができるようになれば、紅々塾に通ってもらうことになります。それまでは母屋の一室に家庭教師を招いくことになっています」
「読み書き計算なら、できると思います」
「そうですね。きっとすぐにできるようになると思います」
スミさんは優しくいった。
「おそらく習わずとも今、できると思います」
私がいうと、彼女は思考する顔になった。
朝比奈邸内を一周した後、スミさんは私に一冊の本を差し出した。
それを音読してみせると、彼女は舌を巻いた。
その本は、それなりに難解な本だったらしい。
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