side 音

2/2
前へ
/30ページ
次へ
最寄りの駅前についた。 琴葉の仕事場は、電車で二駅先にある。 さすがに、もうついてるか……。 琴葉が現れた! 声をかけようとしたら、隣に知らない男が立っている。 俺は、慌てて見えない場所に隠れた。 傘越しに見ると、琴葉が嬉しそうに笑ってるのが見える。 「音、もう別れなさい」 「また?もういいって」 「聞こえる子はね、聞こえる子同士といるのが幸せなのよ。いっとき、付き合えたって最後には音を捨てるんだから……それぐらいわかりなさい」 半年前。 母さんに言われた言葉を思い出す。 聞こえる人といるのが幸せ。 そっか……。 そうだよな。 二人の姿を避けるように家に帰る。 【母さん、美弥子の連絡先教えて】 【会ってくれる気になったのね。向こうに音の連絡先送ってていい?そっちの方が早いでしょ?】 【じゃあ、そうして】 聞こえる相手とは、いっとき……。 だったら、割り切って付き合わなくちゃいけないよな。 部屋に入って、机の引き出しをあける。 「澄み渡った空の匂いって何か好き。わかる?音」 琴葉が言うから、好きになった。 耳が聞こえなくなっていく俺に、琴葉はいろんなものを教えてくれた。 鼻孔をくすぐる香りや手に触れる感触や目で見る色彩。 舌の上を滑るように落ちるチョコとか……。 耳が聞こえてるうちに、音と連動して様々な事を教えてくれた。 だから……。 引き出しに入った茶色箱。 蓋を開くとサファイアの指輪。 琴葉と見た、あの満天の星空の夜の色が忘れられなかった。 海のパシャンパシャンと跳ねる音。 砂を踏む音。 この色を見ただけで、全部思い出せる。 明後日は、付き合ってから5年目だった。 だから、プロポーズしようと決めてたんだ。 スマホを開いて、予約した店をキャンセルしてリビングに戻る。 「ただいま、おと」 「お腹、大丈夫?」 「だいじょうぶ。おとのかおみたらなおった」 「よかった」 「うん。なにかのむ?」 「別れようか」 「えっ?何?」 「俺達、別れようか」 「どうして?」 「俺、もう琴葉を好きじゃないから」 「えっ?ちょっと何で?意味わかんない。ちょっと待って、頭の整理がつかないから」 「悪いけど、出てってくれない?一週間以内に……」 「何で?そんな事言うの?もしかして、結婚の事でお義母さんに何か言われたとか?だったら、気にしなくていいよ。私、まだ結婚とか考えてないし」 「ゆっくり話して!!」 テンパっている琴葉は、早口で話しているから……。 唇を読むのが追い付かなくてイライラした。 俺は、スマホを取り出した。 「もう一回話して」 「私、結婚なんて考えてないよ」 「もっと長い言葉だったろ?二回言うのめんどくさかった?耳が聞こえてる人なら、こんなの見なくても普通に話せるもんな」 「何で、そんな言い方するの?」 「ごめん。俺は、もう琴葉に優しく出来ない」 顔を見たら泣いてしまいそうだったから、部屋に行く。 「パタンって閉まる音がするでしょ?ほら、持って。行くよ」 このドアは、文字にすればパタンって音が聞こえるドアだ。 何度も、何度も、琴葉が教えてくれた事。 「キュウリ食べる時は、頭の中にポリポリって音が響かない?」 「見てみて。お風呂のお湯。パシャンとかピチャンって聞こえない?」 「揚げ物をする時の、パチパチって音が好きなの。わかる?」 「ねぇーー、音」 「この靴の音、覚えてて。お気に入りだから」 「音が忘れないように同じの買うから……」 「同じ曲聞くから……」 「映画は、これ。最後に耳が聞こえた時に聞いたやつ」 俺は、琴葉に新しいものを触れさせてあげる事が出来ない存在なんだ。 だけど、さっきの人は違う。 琴葉に新しいものを教えてあげられる。 日本映画に字幕をつけて見なくたっていいし、音楽だって今ヒットチャートに上っているのを聞ける。 琴葉が欲しい靴を履いてもいいよって笑ってあげられる。 【結婚なんて考えてないよ】 さっきの羅列に胸を締め付けられる。 琴葉の優しい嘘は、いつだって俺を苦しめるんだ。 大好きだけど、大嫌いだ。
/30ページ

最初のコメントを投稿しよう!

5人が本棚に入れています
本棚に追加