side 音

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side 音

「手話ってのがあるらしいんだけど、興味ある?」 「そしたら、タブレットやスマホ出さなくても徹と話せる?」 「話せる、話せる。美弥子(みやこ)ちゃんとも話せるよ」 「へーー。じゃあ、習ってみようかな」 高校生の頃から働いていた居酒屋にそのまま就職した俺に、徹が手話の話を教えてくれた。 手話って聞いた事はあったけど、声を出せるし。 まだ、耳が聞こえるから気にしていなかった。 「取り敢えず、これ。図書館で借りてきた」 「電子でよかったのに」 「電子より紙のが覚えやすいから!ほら、持って帰って出来るかやってみる」 「わかった、やってみるよ」 「音君、今日はもう上がっていいよ」 「お疲れさまです」 居酒屋の大将は、俺が耳が聞こえなくなっていく事を知っている。 だから、こうやって雇ってくれて感謝してる。 「じゃあ、音が出来そうなら俺も通うから一緒に」 「うん!わかった。ありがとな」 「はいよ」 耳の事がわかった時、恋も結婚も諦めようと決めた。 だけど、高校の時。 少し付き合っていた美弥子は、忘れられなかった。 「ただいま」 「補聴器?そんなのなくたって音は聞こえてるわよ」 「それがいつまでかはわからないだろう。だから、先生も……」 「お父さん、音帰ってるから」 「姉ちゃん、ただいま」 「お帰り。あれ、それ何?」 「徹に借りた」 「へぇーー。手話。いいじゃん」 3つ上の姉は、俺のやる事を否定しなかった。 「手話って何?音、お母さんを恨んでるんでしょ?恨んでるからこんなの借りてきたんでしょ?」 「恨んでないよ。これは、徹に借りて」 「恨んでるなら恨んでるって言いなさいよ。遠回しに、耳が聞こえなくなったのは母さんのせいだってアピールしなくていいでしょ!わざわざ、こんな本まで持ってきて」 「こんなじゃないよ!徹が貸してくれたんだよ」 「母さん、もういい加減。音に八つ当たりするなよ。あれは、仕方なかったんだから……音だってちゃんとわかってるよ」 「嘘よ!嘘よ!嘘。その目は、いつも私を恨んでる。あの時、あの時って……」 「音、部屋に行きなさい」 「はい」 母がこの恨んでるでしょモードに入ると俺は近くに居る事は許されなかった。 「認めてくれないもんなんだな」 徹からもらった、手話の本をなぞる。 色々あって受け入れた俺とは違って、母の時計は止まっているようだった。 それが、何か妙に悲しかったのをよく覚えてる。 タブレットやスマホを取り出して、会話する事を許されたのも一年前だ。 父や姉とそれで話そうものなら、「私への当て付けでしょ」「恨んでるんでしょ」と言って、スマホやタブレットを床に叩きつけた。 コンコン…… 「はい」 「まだ、聞こえてる?」 「うん」 「これ飲まない?」 「懐かしいね。ラムネ」 「愛子(あいこ)ちゃんが亡くなってからは禁止だったからね」 「そうだったね」 姉は、「母さんには秘密だよ」と言ってからラムネを渡してくれた。 愛子ちゃんは、俺と姉に初めて出来た従姉妹だった。 「生きてただけでもよかったんだよ。お母さんも音も」 「わかってる」 「愛子ちゃんは、もう笑ったり怒ったり泣いたりも出来ないんだから」 「わかってるよ」 わかっていても、最初は母を恨んでいた日もあった。 それは、叔母さんも同じだった。 「あっ!来月、みくるちゃん連れてくるって叔母さん」 「めちゃくちゃ久しぶりだね」 「うん。三年ぶりらしい」 「そっか……そんな経つんだ」 「まあまあ。お母さんがあんなんだからね。叔母さん達夫婦も音も、時間、動いてるのにね」 ラムネを飲みながら、お姉ちゃんはため息をついた。 俺は、徹や家族と目を見て話したかっただけだった。 タブレットやスマホに羅列した文字を読むのが嫌だっただけなんだ。 そこには、温もりがない気がして。 だから、嫌だったんだ。 「音。補聴器つけたら?お母さんに内緒で」 「いいよ、いい、いい。どうせ、めっちゃ怒られるのわかってるから」 「音、最近。自分の声、あんまり聞こえてないでしょ?」 「な、何で……」 「たまに、発音がおかしい時があるし。鼻歌がズレてるなって思うから……違う?」 「そう……だよ。徹は、絶対音感あるから気づいてたみたいで。だから」 「それで、手話か……」 姉は、手話の本をパラパラ捲る。 「音。耳が聞こえにくくなってきてるなら、やっぱり補聴器つけなよ。つけて、ちゃんと自分の声聞かなきゃ!少しのズレでも、修正しとかないと……。音と話す人が、みんな優しいとは限らないんだからね」 姉が言ってくれたのに、俺は母を優先した。 やっぱり、母に黙って何かをするわけにはいかなかった。 だから、あの時……。
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