最終話 すみれのしおり

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「菫さん」  しばらく、菫の言葉を待っていた鈴が口を開く。顔を見上げると、鈴は笑っていた。 「俺は、菫さんの言葉を信じます」  笑っていた。  けれど、笑ってはいなかった。 「菫さんの言葉は信じます」  何かを決意したように、鈴の視線が菫の瞳を見て、止まる。それから、鈴は敢えて言葉を選び直した。 「菫さんが誰に優しくしても、笑いかけても、大丈夫。……とは、今は言えないけど。その……いつかは全部許容できるくらいになる予定ですから、待っててください」  そこまでで言葉を一度区切った鈴は、ぐい。と、菫の身体を鈴の正面に引き寄せて、その肩を両手で掴む。そして、顔をしっかりと正面から見据える。 「だから……ほかのヤツならいい。でも、あいつはダメだ」  静かに有無を言わせないような声の響き。鈴の言葉には、黒羽のことが嫌いとか、そんな単純な感情論ではない、もっと複雑な感情が含まれているように思える。けれど、それがどんな感情なのか菫にはわからない。 「……鈴」  菫は鈴が好きだ。  好きだと、胸を張って言える。不釣り合いだとはわかっているけれど、好きな気持ちに嘘は一つもない。きっとそれを鈴は信じてくれている。  だから、その鈴の表情が菫に向けたものでないことは分かる。 「俺の言い方が悪かったかもしれないから、言い直します」  そう言った、鈴の表情に背筋が寒くなった。  去り際に黒羽に向けた冷たい視線。その視線は菫の方を向けられているけれど、菫を見ているのではない。その向こうにいる誰か。否、きっと黒羽を見ている。 「『近づかいほうがいい』じゃない。ここにはもう、二度と来ないでください。もし、また『繋がる』ようなことがあったら、すぐに呼んでください。俺の名前。呼ぶだけでいいから」  鈴はその表情のまま、ゆっくりと、噛んで含めるように、一言一言口に出した。その言葉自体に力を乗せているようだと思う。まるで、そうすることで言葉が実態を伴った拘束力を持つと思っているように見えた。 「……でも……鈴」  それがどんなに理不尽に思える言葉でも、逆らい難い響きが鈴の声にはあった。けれど、菫は殆ど無意識に反論していた。この時、菫が何故すぐに鈴の言葉を受け入れなかったのか、分かったのは後になってからだ。 「菫さん」  しかし、菫の反論は、鈴が少しだけ強くした言葉に消える。 「……お願いだから」  その上、見たこともないような悲しい顔をするから、もう、菫は何も言えなくなってしまった。無意識にでた反論には明確な形がなかったらだ。ただ、なんとなく黒羽を悪い何かとして扱って、近づかなければいいということにしたくなかっただけで、何故そう思うのかも、あいつが悪いものでないのを証明することもできはしない。  しかも、好きな人にこんな顔をさせてまで黒羽を庇う理由が、菫には思い当たらなかった。 「……ん。わかった」  だから、納得したわけではない。  納得はしていないけれど、頷いて見せたのだ。  それが、今、菫が鈴にしてあげられることだし、鈴に嫌われるかもしれないと思いながら、拒否する勇気は菫にはなかった。 「レシピノート戻ってきたし。もう、ここへは来ない」  色々な思いが心の中にはある。それでも、菫は笑った。 「あいつとも。会わない。もともと、そんな接点とかないし」  鈴の不安を軽くしたかったからだ。何をそんなに心配するのかは分からないけれど、何故そんなに黒羽が信じられないか分からないけれど、菫が鈴を好きなのは変わらないと伝われば、少しは不安を和らげることができると思ったからだ。 「……菫さん」  菫の言葉に鈴はほっとしたような表情になって、詰めていた重い吐息を吐く。その顔に本当に安堵しているのは菫の方だった。 「じゃあ。さ。買い物寄ってから帰ろ? それから、餃子作りながら、『pandemic.com』の配信見て……」  鈴がぞっとするような冷たい表情でも、思いつめたようなような顔でも、振り返らない無表情でもない、安堵の笑顔を向けてくれただけで安心したのだ。 「あと。……レシピノート」  ただ、それでも、さりげなくレシピノートに視線を移したのは、鈴の笑顔が少しぎこちなかったこと、それに気付いてしまったことに気付かれたくなかったからだった。自分ではできうる限り上手くやったつもりだったけれど、視線を逸らしていたから、鈴がそれに気付いてしまったかは分からない。 「……風祭さんにケーキのレシピ聞いておいたんだ」  葉に聞いたケーキのレシピの場所を示そうと、ノートに視線をむけたまま、パラパラと、ページをめくる。しかし、目当てではないページで、その動きは止まった。 「……あ」
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