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3 思春期みたいな
「あ。それ」
黒羽が持っているノートに菫は手を伸ばした。けれど、触れる寸前に黒羽がすい。と、高く持ち上げてしまう。黒羽は鈴よりも背が高い。恐らくは2m近い。だから、高く持ち上げられてしまうと、菫では手が届かなかった。
「ちょっ。……返せよ」
無駄とはわかっているけれど、ぴょんぴょん。と、飛び跳ねてそれを取ろうとするけれど、やっぱり、届かない。黒羽はわざと菫の届きそうな場所までノートを下げてみたりして、手を伸ばして届かずに悔しがる菫を見ては楽しそうにしていた。完全に、揶揄われている。
「黒羽。返せって言ってるだろ」
いい加減イラっとして、口調を変える。
「征伸だ」
菫の言葉が言い終わるか終わらないかのうちに黒羽が言った。レシピノートを高く掲げて、それを見つめる菫の顔の前に顔を寄せる。
「え?」
その顔が近い。鈴ほどではないけれど、かなり整っていて、鈴よりも少し大人っぽくて男性らしい顔。真面目な表情は同性で人外だと分かっていても、一瞬見惚れてしまうほどだった。
「征伸と呼べ」
「……ゆきの……ぶ?」
何を要求されているのかイマイチわからずにオウム返しに答えると、黒羽は満足そうに笑った。それから、菫の手にレシピノートを返してくれる。
「大事なものだろうが。落とすな。ドジっ子め」
その言葉に、どきり。とする。また、何かが、頭を過った。
「……ありがと」
けれど、それも、掴み取る前に泡のように消える。
ただ、何か優しくて、温かくて、それなのに、苦くて、痛い。そんな残り香のようなものだけが、残る。
「……ってか。名前とか普通に呼んでいいわけ?」
それが何なのか、菫は考えなかった。考えてはいけない気がしたからだ。だから、話題を変えたのは、わざとだった。
「あ?」
菫の言いたいことがよくわからなかったのか、怪訝そうな顔になって黒羽が問い返す。
「そういうの、知られたりしたら、お祓いとかされるんじゃねーの?」
それが現実的にどの程度の信憑性があるのかはさておき、人外のものは名前を知られると、力を失うと聞いたことがある。昔話にもそれっぽい表現があった。
「そんなの簡単に呼ばせていーわけ?」
そんなふうに、聞いてはみたけれど、別に本気だったわけではない。
大体、お祓いとかできる人が本当にいるのかだって怪しい。少なくとも、自称霊能者とか言う触れ込みの人達が霊を祓っているのを見たことはない。それどころか、『霊感在ります』という人で、菫が見ていた人ならざるものが見えていたのは、鈴と葉だけだ。
「お前は、俺が居なくなればいいと思うか?」
けれど、菫の問いに、黒羽は真面目な顔で問い返してきた。
「え?」
菫は別にとりわけ心配していたわけでもない。ただ、少し話題を変えたかったから、思いつきで、口にしただけだ。
もし、それが正式な名前だとしても、こいつらが悪さでもしないかぎりは、名前を呼ばれて不利益になるようなことはないだろう。大体、普通の人は名前を知っていればその相手をどうにかできるなんて思いもよらないし、こいつが化け狐だなんて、誰が信じるというのだろう。そもそも論として、こいつは自分と鈴以外の人間に見えているんだろうか。
もちろん、菫には黒羽をどうにかする力なんてないし、できる人も知らない。
「お前も……消えてほしいの……」
「なに言ってんだよ」
そんな、深く考えてすらいない一言に、あんまり黒羽が真面目な顔で問い返すから、菫は黒羽の言葉を途中で遮った。
「そんなわけないだろ? 大体、こっちは祓われたりしないか心配して聞いてやってんだぞ?」
黒羽のことを菫は何も知らない。耳と尻尾かはえた無節操なナンパ男だと思っている。ただ、命を助けられたことは、忘れられるわけがないし、感謝している。この男が、どんなモノであったとしても、菫の気持ちが鈴に届いたのは黒羽のお陰だ。
「一応命の恩人に消えてほしいとか、ナイだろ。普通」
ただ、命の恩人だということを差し引いても、いや、命の恩人だと思っていることよりもっと、菫は思っていた。この人外が祓われてもいいと思っているなんて、誤解されたくない。
道端にいる思いを残した霊なら、縛られている思いから解放されればいいと思う。けれど、たぶん、黒羽は生きていたものが死んで残された思いとは違うものだ。生まれたなら、生きたいと願うのが普通で、その権利はたとえそれが人ならざる者であっても、他人が簡単に奪っていいものではない。
「お前は。そうやって……また」
呟いた言葉は聞き取れないほど小さかった。
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