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「え?」
菫は聞き返した。聞こえなかったから。と言うわけではない。聞きたかったのは、一瞬だけ見せたその、寂し気で、優し気で、懐かしそうな、それでいて、思いつめたような表情の意味が知りたかったからだ。同時に、聞き返したことに少しばかりの後悔。それは、菫が知ってはいけないことのような気がする。
「この俺が、人間なんかに祓われるか」
けれどその瞬間に黒羽は表情を変えた。呆れたように両手を広げ、馬鹿にするような口調になる。そのままくるり。と、黒羽が背中を向けた。
「まあ、それでも心配なら、何とでも好きに呼べ」
誤魔化された。と、思う。顔を背けるのはその証拠だと感じた。それでも、誤魔化す理由を聞くことも、誤魔化されたと怒ることも、菫にはできなかった。
「……じゃあ……のぶ……で」
そう呼んだのには深い意味はない。ただ、以前飼っていた猫がゆき。と言う名前で、その名前でほかの誰かを呼ぶのには抵抗があったし、鈴が『きたじま』と、呼ばれるのを嫌がるように、黒羽も『くろば』と呼ばれるのが嫌かもしれないと思っただけだ。
けれど、菫が呟いた言葉に、黒羽はばっ。っと、振り返った。その顔に驚きの表情。
「え? あ。ダメ?」
悪いことをしてしまったのかと、問い返すと、黒羽は何もなかったかのように表情を戻す。
「……いや」
小さく言ったその顔は、不快そうではない。そう思ったから、菫はその顔の理由を問おうとは思わなかった。
「……あー。そだ。これ。お礼」
問うてはいけないと、また、警鐘が聞こえた気がした。
「きっと、のぶが拾ってくれてるだろうと思って……」
トートバッグの中に手を突っ込んで、中のものを取り出そうとすると、不意に、ぐい。と、引き寄せられた。それから、抵抗する間もなく、菫の唇に軽く、まるで羽根のように軽く、黒羽のそれが重なる。
「……は?」
感触なんて、殆どないくらいに軽いキスだった。キスなんて言えるほどのものでもない。今時中学生だって、付き合ってるならそれくらいはしている。そんな、思春期みたいなキス。
「礼はこれで許してやる」
怒る暇すらなかった。
「なに? 今の」
だからって、許したわけでもない。
「何って。知らんのか? キスだろ」
んなこたしってるわ!
とは、言葉にならない。
黒羽のちょっかいは全部、嫌がらせの類か、菫を揶揄っているだけだと、思っていたのだ。でも、そのキスが、黒羽の人柄に似ず、あんまりに優しくて、甘かったから、気付いた。気付いてしまった。
「や。そうじゃなくて……なんで」
いや、もしかしたら気付いていないのは菫だけだったのかもしれない。ほかの人から見れば、黒羽のしていることがどんな意味を持っているかなんて、考えるまでもなかっただろう。ただ、菫を責めることができない。人外の雄に本気で迫られることがあるかもしれないと思っている一般成人男性はあまりいないはずだ。
「『なんで』だと? そんなこともわからんのか? あほたれが。まあ、人間の無知は今に始まったことではないが……教えてやろうから覚えておけ。俺はだな。お前が……」
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