1 遠い激情

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「わ」  突然に抱きしめられて思わず声が漏れる。息ができないくらい強く抱きしめられても、菫は鈴の腕にされるがままに任せていた。抵抗しようなんて思いもよらない。それどころか、色々な思いを全部閉じ込めて、そばにいるのを許してくれる腕が嬉しい。  今まで、恋人と朝を迎えたことはあるけれど、こんな気持になるのは初めてだ。相手が男性だから、というわけではない。鈴だからだ。 「鈴?」  あんまり力が強いから、もう起きたのだと思って、菫は遠慮がちに声をかけた。もう少し、鈴の寝顔を見ていたかったから、少し残念に思う。 「ん……?? あ……」  しかし、鈴はその菫の呼びかけで目を覚ましたようだった。長い睫毛が数回瞬く。それから、しばらく、ぼーっ。と、菫を見ていた目が焦点を結んだ。 「すみれ……さん?」  まるで、子供みたいに不思議そうな表情。正直、可愛いと思う。こんな鈴の顔を見ることができるのは、多分、鈴の家族か自分くらいだ。緑風堂に鈴目当てでやってくる女子は誰も知らない。そんな、優越感。 「あ? え?」    菫をじっと見つめた後、鈴は目を見開いた。 「菫さん!?」  それから、はじめて菫を閉じ込めるみたいに抱きしめていることに気付いて、慌てて菫を腕から解放した。 「おはよう。鈴」  別に離してくれなくてもいいのに。と、少し名残惜しく思う。いや、むしろ、菫はそのまま抱きしめていてほしいと思っていた。 「おはようございます」  少し顔を赤くして、鈴が取り繕うみたいに言った。 「……よく。眠れました?」  表情の変化が可愛くて、じっと顔を見つめていると、鈴は少し居心地が悪そうに視線を逸らした。 「うん。……あ。でも、夢。見た」  ふと、目覚める直前まで見ていた夢のことが頭をかすめる。 「夢? どんな?」  菫の注意がそれたことで安心したのか、鈴が続きを促した。 「……ええっと。……あれ?」  目を覚ました瞬間には覚えていたと思う。確か、変な夢を見たと思った記憶はある。けれど、何故か思い出せない。 「……忘れた」  理由はわかっている。夢の中の記憶なんて元々かなり曖昧だ。怖い夢を見たと思っても、怖いという感情だけが残って、内容はよく思い出せないなんてことは、菫にとっては珍しくはない。それに、目が覚めた瞬間に目の前に世界遺産級の芸術作品があったのだから、驚きでふわふわとした夢の記憶なんて吹き飛んでもおかしくはない。 「……んー? なんか、変な夢だとは思ったんだけど……。ま、ただの夢だし」  菫は深く考えることをやめた。折角鈴といられるのに、そんなことを考えているのはもったいない気がした。 「夢……」  けれど、小さく呟いた鈴の表情はどこか沈んでいるように見えた。ただ、すぐに吹っ切ったように表情を変える。 「朝ごはん。何にします?」  その笑顔は、いつも通りの鈴だった。
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