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なんとなく、想像はついていたのだ。
きっと、取り返しがつかないくらいの事態になっていること。
事態は一刻を争う。
それでも、昨夜の菫には鈴と離れるという選択肢は存在しなかった。離れてはいけないと、強迫観念にも似た思いがあった。
鈴と温もりを分け合って眠ったからこそ、今日の何でもない朝を迎えられたのだと、半ば確信のように思う。
だから、後悔はしていない。
後悔はしていないのだ。
たぶん。
鈴の家のリビングに入ると、一番初めに目についたのは、菫のトートバックだった。昨夜はいろいろあったから、リビングに置きっぱなしにして鈴の部屋に引っ込んでしまった。
そして、そのトートバックの中身が恐怖の始まりだった。
ヴヴヴ。と、振動するそれに、菫は戦慄した。そう。兄・椿からの鬼LINEの数々は最早一刻たりとも無視することはできない状態だった。何と未読の件数132件。その殆どすべてが椿からだ。
普通に考えれば菫の歳の男性なら恋人と同棲している人だって珍しくない。しかも、おとといの晩はともかくとして、昨日の夜は鈴の家に来る前にちゃんと『鈴のところに泊まります』と、メッセージを送っておいた。電話にしなかったのはもちろんわざとだけれど、文句を言われる筋合いはない。
兄の過保護は今に始まったことではない。父と母が離婚した頃から、兄は異常なまでに菫を心配するようになった。父と母に別々に引き取られるはずだったのが、二人一緒でなければ絶対に嫌だと兄が駄々をこねたから、二人とも父に引き取られ、祖母と暮らすことになったのだ。
菫にとって、兄である椿は父であり、母であり、その上兄という存在だった。菫が今、人並みに生活できるのは全部椿のお陰だと思う。だから、兄が多少(?)過保護でも拒否できない。けれど、さすがに100件を超えるLINEメッセージを見ていると、殆ど狂気じみた執着にドン引きしてしまう。
横から菫のスマホを覗き込んだ(もちろん、菫に許可を得てから)鈴もなんとも言えない表情をしていた。
「すみません。俺が、引き留めたせいで……」
申し訳なさそうな顔をして、鈴が小さくなる。
「鈴のせいじゃない。一緒にいたかったのは俺も一緒だし。てか。兄ちゃんがおかしいんだよ」
前職の時、人間関係に悩んで、誰にも相談できなくて、家に帰ってこられないくらい仕事を詰めて、心を病む寸前まで追い込まれて以来、椿の菫に対する過保護ぶりはさらにエスカレートしていた。無理矢理会社に押しかけて、奪うように菫を離職させてくれなかったら、本当にどうなっていたか分からない。
椿は菫の少し真面目で、物事を深く考えすぎる上に、優しい性格に似つかわしくない強情で負けず嫌いなところをよく理解している。だから、恋愛においても一筋になりすぎてしまうところがあるのを心配しているのだ。
だから、菫も理解してもらうために鈴のことはしっかり話した。
幸いにも椿は同性愛には全く抵抗がないようだったけれど、何故か警戒が弱まるどころか、余計に溺愛ぶりに拍車をかけてしまっている気がする。
「……でも。一旦家に帰ってくる。着替えたいし。お昼までには買い物して戻ってくるから。そしたら、午後は一緒にいよう」
ただ、菫にとって椿は大切な家族だ。
菫を誰よりも大切に思ってくれているのは知っている。大切に思っているからこその束縛だということも理解している。行き過ぎなのは否定できないが、それでも、菫は兄が大好きだった。一番寂しくて辛かった時に一緒にいてくれた兄と祖母は菫にとっては鈴とは違った意味でかけがえのない人たちだった。
だから、鈴とのことを有耶無耶にしてしまいたくない。
「俺、一緒に行って謝ります」
心配そうな表情で鈴が言う。
「んー。大丈夫」
大丈夫。とは言ったけれど、大丈夫。というよりも、鈴を連れて行く方が怖い。まさに火に油を注ぐというのがぴったりな状況に陥りそうな気がする。そうなったら、今日、もう一度外出するなんて無理だ。
「ちゃんと言いくるめて(?)くるから、心配しないで。兄ちゃん。うっさいけど、結局は、俺には甘いから」
そう言って、菫は『今から帰る』と、LINEのメッセージを入れた。
椿が最終的に菫の意志を完全に無視するようなことをしたことはない。だから、今回もどうにかなると菫は楽観的に考えていた。
ただ、メッセージを送信してほんの数秒でかかってきた鬼電には最後まで出ることはなかった。
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