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「おい」
不意に後ろから声をかけられて、菫は比喩ではなく飛びあがった。
「わあっ!!」
そのまま松葉に足をとられてこけそうになって、よろめく。しかし、菫が情けなく松葉の上に倒れ込むことはななかった。
「驚き過ぎだ」
がし。と、腕を掴まれて、抱き寄せられる。その声には聞き覚えがあった。
ふわり。と、香るマッチを擦った後のような香り。その匂いが、菫は嫌いではなかった。どちらかと言うと、好きだ。
「……黒羽」
顔を上げると、そこにはあのチャラ男がいた。今日は普通の格好だ。チャラくもなければ、神官風でもない。黒のサマーセーターにブラックジーンズ。雪駄履きなのはヤンキー臭いけれど、総じてごく普通の出で立ちだった。
相変わらず目元には赤いライン。松葉に遮られているとはいえ、木漏れ日が差し込む下で見るその姿は、間違いなく菫がいつも見ている『幽霊』とは違っていた。存在感が違う。目に見えているだけでなく、そこには体温も、重さも、匂いも、感じられた。
「……ふん」
腕に寄りかかったままの菫をぐい。と、引き寄せて、首元に鼻先を寄せて、すん。と、黒羽の鼻が鳴る。一瞬、考えてから、首筋の匂いを嗅がれているのだと気付いて、菫は思わず黒羽を引き離そうと腕に力を込めた。
「なに……して」
けれど、黒羽の腕は菫を離してはくれなかった。
「ヤったな」
菫の首筋に鼻先を埋めたまま、黒羽が呟く。
「一人前にマーキングしてやがるとは……ガキのくせにいい度胸だ」
一瞬。赤く燃える炎が見えた気がした。そして、その向こうに、何かが掠める。
けれど、それは掴み取る前にかすんで消える。
菫の首筋を黒羽がぺろ。と、舐めたからだ。
「うあっ。何すんだよ!」
反射的にぐい。と、腕を突っ張った上に、トートバッグを振り回す。
何故か、今度は呆れるほどにすんなりと黒羽の腕が離れて、さらにはでたらめに振り回したトートバッグがその顔面に直撃した。
「ぐあっ!」
鼻先を抑えて、黒羽が蹲る。
「おま……っ。相変わらず、手え早いな」
蹲ったまま恨めしそうに菫を見上げる黒羽。赤い炎は見えない。気のせいだったのだろうか。
「お前が。こんなとこ舐めるからだろ!」
掌で舐められた辺りをごしごし。と、拭いながら菫は答える。
「別にいいだろうが。あの北島のガキとヤったんだろ? 最初は譲ってやったんだから、味見くらいさせろ」
「はあ!?」
黒羽の言葉に菫の顔が真っ赤に染まった。鈴と菫が付き合っていることも、エッチしたことも、知っているのなんて椿くらいだ。もちろん、黒羽が知っているはずがない。
「な……なんでお前がそんなこと知ってんだよ」
冷静に考えれば、否定すればいいだけの話だ。もしかしたら、ただ鎌をかけられただけなのかもしれない。けれど、それに気づいたのは後のことで、この時は言い当てられて焦りまくって、完全に肯定してしまっていることに菫は気付いていなかった。
「そんなもん。……見ればわかる」
じ。と、菫の顔を見つめて、何故か妙に真剣な表情で黒羽が言った。
「お前のことなら。大体な」
けれど、そんな表情も一瞬で、視線を逸らして黒羽は立ち上がった。
「で? こんなところに何の用だ? 俺に会いに来たって言うなら、歓迎してやらんでもないぞ?」
急にチャラけた態度に変わって、ぐい。と、菫の肩を抱き寄せて、黒羽が言う。
何故だろうか。まるで、本音を隠しているように、菫には感じられた。この男のことを、たいして知っているわけではない。はじめに会ったときから、この男はこうだった。それでも、この軽薄な態度が彼の本質ではなく、それを隠すための仮面のように思える。
「別にお前に用なんてない」
そっけない言い方になったのは、その男が好ましくないからではない。要らないものは見えるくせに、その男が隠している何かを見ることができない役立たずな目がもどかしかったからだ。
「はいはい。わかっとるわ。これだろう?」
何処から出したのか、わからないけれど、す。と、その手にノートが現れる。それは、菫が探していたレシピノートだった。
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