雪を喰らう

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 ある日、いつものように仕事を終えて家路についていたら、不意に声を掛けられた。  振り向くと、並の男よりもはるかに背の高い女性が立っていた。白く整った顔に昼の海のように青い瞳が輝き、黒く波打つ髪がその瞳を際立たせるように輪郭を彩っている。  人とは思えぬその容姿に畏れを感じ、声が震える。 「……何かご用で?」 「お前、声の出せぬ女の夫か?」 「……ユキのことでございましょうか?」  恐ろしさから頭がまわらず、ユキの名を口にしてしまう。女の紅い唇が弧を描いた。 「ほう……。ユキに伝えよ。近いうちに参る、と」  そう言うと、女は夕闇へと消えていった。  俺は狐につままれたような気持ちを抱え家へ帰った。家ではユキが笑顔で出迎えてくれ、先程までの緊張がほどけていった。  俺は食事をしながら、大女のことをユキに話した。ふと顔を上げると、青ざめた顔をしたユキと目があった。ユキは目玉がこぼれ落ちそうなほど目を見開き、膝の上で両手を握りしめて小刻みに震えている。 「ユキ、どうした!?」  驚いて声をかけるが、固まったまま動かない。お松もユキの異変に気づいたようで、「どうした? どうした?」と呟きながらユキの背を撫でている。  暫くして、ユキは首を小さく横に振り、三つ指をついて頭を下げた。どうやら、先に寝るようだ。しかし、ユキの指先は小刻みに震えていた。 ***  それから3日後の夜だった。夕餉を終え片付けていたところ、戸締りしたはずの戸から夜風が吹き込んできた。  驚いて見ると、あの大女が立っていた。 「あっ、あんた! いつの間にっ!?」  大きな声を上げたが、女は構うことなく土間にいるユキを見る。 「あっ! ユキ!」  俺は駆け寄ろうとしたが、体が重く動けない。ユキは胸の前で両の手を固く結び、怯えた顔で女を見ていた。 「罰を受ける時がきたぞ。日が昇ると共に元の姿に戻そう」  女の言葉を聞き、ユキの瞳から止めどなく涙が溢れ落ちる。ユキが口を大きく開け何か言おうとしたが、声が出ない。  その様子を見て女が口を開いた。 「あぁ、先に声を戻そう。お前の口から話しておけ」  大女が両手を叩いた。パンッ! と空気を震わす音が家中に響く。  奥の部屋で赤子の泣く声が聞こえた。  女が踵を返した時、ユキが叫んだ。 「お待ち下さい! もう少し待ってもらえないでしょうか! 子がおります。せめて、子が歩くまで……」 「ならぬ」  女は言い放つと、戸の方へ歩いていき、すーっと消えた。  女が消えると体が動いた。慌ててユキへ駆け寄る。ユキは土間でへたり込み、両手で顔を覆って泣いていた。  ユキを落ち着かせるために、囲炉裏の前に座らせ、無言で背中を擦った。お松は子供たちをあやしに奥へと向かった。お松が戻ってくる頃にはユキも大分落ち着いていた。  お松が座ったのを見て、ぽつりぽつりとユキが話し始める。 「先程の御仁は海神様でございます」 「なんと!」  俺は驚いて目を見張った。 「私は罪深い人魚なのです。戯れに船を座礁させたり、人を船から落としたりしておりました。それが海神様のお怒りに触れたのです」 「それで声を失ったのか?」 「そうでございます。海神様は、姿と声を召し上げ、『人に愛情を持った時に姿と声を返してやろう』と仰いました」 「今、話せると言うことは、罪が許されたのか?」  ユキは膝の上で両手を強く握りしめ、首を横に振った。 「姿が戻ったら、陸では生きられない。独りで海に戻らなければいけない。きっと、これこそが罰なのです」 「どういうことだ?」 「私がしてきたように、愛する人たちと引き離される悲しみを味わうことが、私への罰なのです」  そう言うと、ユキはじっと自らの拳を見つめた。 「そんなっ!」  お松が悲壮な声を上げ、ユキに縋ってすすり泣く。  俺は膝の上の手に視線を落とした。  父や母、祖母の顔が浮かぶ。  ──あぁ、そういうことか……  俺は手をぐっと握りしめた。  ──でも、でもだ。ユキが俺にとって大事であることは変わらない 「…………なんとかならんのだろうか」  ユキに問いかけてみたが、首を横に振るばかりだ。 ***  そうこうしているうちに、空が白み始めた。 「子供達をお願いします」  ユキが頭を下げた。お松がその腕に縋ったが、ユキは首を振った。着物から覗くユキの腕に朱色に光る鱗が覗いた。  ユキはすっと立ち上がり、戸へと歩き始めた。 「ユキっ!」  俺が叫ぶと、ユキは振り向いて微笑んだ。 「雪が舞う日は、陸を想って歌うわ」  そう言うと、ユキは裸足で駆け出した。慌てて後を追ったが、すでにユキの姿はなかった。  それからの俺は、雪が舞うのを待ちわび、雪を食べユキを探し、ユキの歌声を聞いては降り積もる雪のように想いを募らせた。
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