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MADAM
春の日差しは穏やかに。桜もすでに葉桜となり、初夏も近いと季節の移り変わりを肌で感じる。その墓地に一人の婦人がいた。指先や頬には長く生きた証の皺が刻まれているが、その所作や笑みを崩さない表情は幸福に生きているように見えた。
「あなたと死別してから四十年ですか」
婦人は白い指で墓石をそっと撫でる。
「もう少しであなたのところへ行けますね。そんな年齢になりました」
墓地には、他にも墓参りに来た人たちがいる。家族連れの子供たちが綺麗なおばあちゃんだねと呟くと、年配の女性は身体で視線を塞ぐ。
「あの人とは関わらないようにね」
「どうして?」
「そのうち教えてあげるから。今は駄目だよ」
その声は婦人の耳にも届いていたが、気にも留めない。
「また来ますね」
婦人は優雅に歩き出す。
「あれ? 荒川さんじゃないですか?」
婦人に声をかけたのは四十代の男性。
「また旦那さんの墓参りですか?」
「ええ。毎月やっているもので」
「感心しますね。あんなことあったのに、今でも大切にしているんですか?」
「もちろん。最愛の人ですもの。細川くんはいいの? 私みたいな怖いおばあちゃんに声をかけて」
男性は、ははといかにも作り笑いを見せる。
「僕にとっては優しいご近所さんでしかないですよ。あれがあったのは僕が幼い頃ですし、わざわざ遠ざける理由もないでしょ? 昔は昔で今の荒川さんは本当にいい人ですもの」
「ありがとうね。ただ無理はしなくていいからね」
「問題ないですよ」
婦人は軽く頭を下げてまた歩き出す。男性は祖父母の墓参りだろう。婦人の主人が亡くなったのは四十年も前に。その四十年で婦人は再婚を考えたことは一度たりともなかった。主人を忘れられないのは確かだが、他の誰かと一緒になることは婦人にとっては屈辱でしかないのだ。理解されようとは思わない。主人との死別のあと、騒動はあったが穏やかに暮らせている。それ以上、何を望むというのか。
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