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2.私は、本当に幸せだ⋯⋯。
私は初めてバラルデール帝国領に入った。
バラルデール帝国は馬車に乗りっぱなしで、マルキテーズ王国から2ヶ月以上も掛かる。
私はマルキテーズ王国の周辺諸国については、勉強したが帝国については知らないことが多い。
父も、今回の縁談がなければ、遠いバラルデール帝国まで手を伸ばそうとは思わなかっただろう。
馬車の外に見える風景が、目新しい。
夕暮れで暗くなり始めているのに、街灯が付いていて街中には沢山の人が行き交っている。
犬のモモだった前世の記憶を思い出してから、自分が人間であることに幸せを感じる。
目に映る全ての人たちと関わってみたいという好奇心が抑えきれそうにない。
(初めての友人ができたりして⋯⋯)
「ルミナ⋯⋯素敵ね、親が子供の手を繋いで歩いているわ。夕暮れのお散歩は空の色が移り変わって行くから楽しいでしょうね」
ルイとお母さんが手を繋いで私に会いに来てくれた日を思い出した。
ルイのご両親は彼にとっては悪い人ではない。
ただ、犬だった私のことを家族とは思っていなかっただけだ。
「姫様、ルミナは最期の時まで姫様と共にいます」
私の様子がいつもと違って、ルミナを不安にさせたようだ。
確かに私は生きる喜びを忘れて、マルテキーズ王家の為に動く道具だった。
風景はいつも白黒で、何も楽しいことなど何もなかった。
令嬢たちとのお茶会も楽しめず、王家の邪魔になる人間を引き摺り下ろすネタを掴んだ時だけ心が踊った。
馬車が止まり扉を開けると、そこには見たこともない程の沢山の花々に囲まれた皇宮が見えた。
花の香りが優しく私の鼻を擽り、私は思わず馬車を飛び降りた。
「素敵⋯⋯ここが私の新しいお家なのね⋯⋯」
思わず漏れた言葉に、レイ・サンダース卿がエスコートしようとした手を引っ込めた。
手を差し出してくれてたのに、美しい世界に惹かれて気が付かなかった。
「お前が、モニカ・マルテキーズだな」
低く重い声、肩までつきそうな黒髪にエメラルドグリーンの瞳が鋭く光る美しい獣のような男。
一目で彼が特別な存在の男だと分かった。
この帝国の若き君主アレキサンダー・バラルデールだ。
確か私より歳は3歳年上で、大人の色気というか雰囲気のある方だ。
流石は帝国の皇帝と言ったところで威圧感があり、私は少し緊張した。
若くして彼が皇位を継いだのは、先の皇帝である彼の父親アルガルデ・バラルデールが突然死なさったからだ。
女嫌いと噂される彼も皇位を継いだことで、お世継ぎを望まれたのだろう。
そこで、お声がかかったのが私だ。
「アレキサンダー・バラルデール皇帝陛下に、モニカ・マルテキーズがお目にかかります。本日からよろしくお願いします」
「美しいとの評判だったが、どこにでもいそうな女だな」
私を睨みつけると、アレキサンダー皇帝はスタスタと皇城に向かった。
冷たい方だと聞いていたが噂は当てにならない。
陛下は、わざわざ私を迎えに来てくれた優しい方だ。
女神のように美しいと誰もが言う私の事を、どこにでもいそうな女だと言ってくれて親しみを持ってくれている。
犬としての記憶が蘇ってから、何もかもがキラキラして見える。
確かに犬だった時の私は、人間のしてくれる事にいつも感謝ができていた。
王女として育ち、かなり傲慢になり過ぎていた気がする。
「陛下、私のことはモモと呼んでください。短くて呼びやすいでしょうし⋯⋯」
「そのような、おかしな名前では呼ばん。それから、結婚式もする予定はない。とりあえず貴族どもが煩いから黙らせる為に皇妃を娶っただけだ」
私自身、陛下が「モモ」と呼んでくれるとは期待していなかった。
ただ、犬であった時の謙虚さを忘れないように主人になる彼には「モモ」と呼んで欲しかっただけだ。
「房事は月に1回で、1回目が今晩だ。準備しておけ」
「はい。分かりました。陛下⋯⋯」
いわゆる初夜が今晩ということで、私は緊張してきてしまった。
もう、夜遅いので食事を取って入浴を済ませ次第、陛下をお待ちすることになった。
どうやらアレキサンダー皇帝とは別々に食事を取るらしい。
食事のサーブは若草色の短い髪に憂いを帯びた薄茶色の瞳をしたメイドがしてくれた。
彼女は体がガッチリしていて、メイド服が八切れそうだ。
膝下に覗いでいる足も、筋肉質で思わず見入ってしまった。
彼女からは女性らしくない鉄のような匂いがする。
(失礼だから尋ねられないけれど、女性よね⋯⋯)
「あれ? この食事は何か草のようなもので味付けしていますか?」
私は出された白身魚のマヒマヒを食べながら、サーブしてくれたメイドに尋ねた。
「いえ⋯⋯モニカ様がどのようなものを好まれるか分からないので、シェフは特別な味付けはしていないと申しておりました」
私は彼女の声が見た目からは想像できない高い女性の声で安心した。
メイドは私から目を逸らしながら呟く。
味はほとんど素材の味だが、なんだか草の匂いがするのだ。
「そのような困った顔をしないで。私は美味しいと伝えたかったのよ」
「そうですか⋯⋯」
先程のメイドは、食事のサーブだけでなく私の入浴の手伝いもしようとしてきた。
「私、マルキテーズ王国から、専属のメイドを連れてきているのだけれど彼女はどこに行ったのかしら?」
「すみません、私の方では分かりかねます。私が、今日から専属メイドを務めさせて頂きます。クレアと申します」
ここに来てから、ルミナともレイ・サンダース卿とも引き離されてしまっている。
クレアはやり過ぎなくらい、丁寧に私の体を洗った。
少し彼女の手の力が強過ぎて、「痛いです⋯⋯」と呟いたら触れるか触れないかの力に弱めてくれた。
(腕もムキムキなのね⋯⋯働き者なのかしら⋯⋯)
「えっ? ちょっと、そんなところまで洗うのですか?」
「お体に何か隠されていないか、確認しなければならないので」
私からまた目を逸らして、体を洗うクレアに申し訳ない気持ちになった。
彼女だって頼まれて仕方なく、他人の洗いたくない箇所まで手を突っ込まされている。
まるで、囚人のような扱いを私にしなければならなくて気まずいのだろう。
そのような事をされてしまうのは、私がマルテキーズ王国の姫で陛下を害する可能性があると疑われているからだ。
実際、私は犬としての記憶が蘇らなければ、陛下の命を狙っていた。
クレアが私の体に香油を塗ろうとしてきたので、私は手で制した。
「ごめんなさい。体に匂いがまとわりつくのが苦手なので何も塗らないでいただけますか?」
私の嗅覚は相当敏感になっていた。
クレアは無言で香油の蓋を閉めた。
「クレア、丁寧な仕事をしてくれて、ありがとうございます」
私がお礼を言うと、彼女は俯いてしまった。
「モニカ様、こちらのお部屋で陛下がいらっしゃるまでお待ちください」
「ここが、私の部屋なの? 凄く素敵ね。絨毯の刺繍も細かいわ。職人の腕が良いのね」
クレアに案内された寝室は、私がマルテキーズ帝国で使ってた部屋の3倍くらい広かった。
「⋯⋯モニカ・マルテキーズ様ですよね?」
「そうですわ。もう、私の名前覚えてくれたのですね。嬉しいですクレア」
「私の名前も覚えて頂きありがとうございます」
クレアが少し照れ笑いをしながら、お辞儀をした。
(よかった、少し彼女も私に打ち解けてくれたのかも⋯⋯)
私は目を瞑ってフカフカのベッドにゴロリと転がった。
「ベッドもふかふか、ネグリジェーもさらさら」
私は夢にまで見た人間になったのに、今まで何をしていたのだろう。
森の中をひたすらに寒さに耐えながら歩いてルイの影を求めた日々を思えば、このようなな幸せな時が来るとは想像もしてなかった。
「私は、本当に幸せだ⋯⋯」
そう呟いて目を開けると、私を見下ろすアレキサンダー皇帝と目があった。
(私の聴覚でも全く彼がいたのがわからなかった! この人、気配を完全に消せる)
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