0人が本棚に入れています
本棚に追加
01 酷い雨の日
夕方から降り始めた雨のせいで、女の歩く地面はぬかるんでいた。
丈の長いトレンチコートを着ていた女は、泥が跳ねないよう慎重に歩を進めていた。
女の目的の店は、大通りから一つ外れたところにあった。女は吸い込まれるように、階段を二階まで上って行った。
ネオンが輝く夜の歓楽街で、看板ひとつさえないその店は、積極的に客寄せをする気がないように女には思われた。
もし、女が多少注意を払っていたら、店の扉の横に控えめな文字で「Raining」と書かれた名刺が貼られていたことに気付いていただろう。しかし、その店の名は、女はおろか店員さえも滅多に口に出すことは無く、単に「シュウさんの店」と呼ばれていた。
傘立てにビニール傘を立ててから、女は扉を開けた。いつもと変わらない、バニラの香りが場を満たしていた。壁面に、ずらりと並ぶボトル。真っ直ぐなカウンターに、背もたれのある椅子が十脚。それがこの店だ。
「いらっしゃいませ、アカリさん」
「どうも、シュウさん」
店には店主、永沢修斗以外の誰も居なかった。まだ時刻が七時を指したばかり、開店したてのせいもあるが、そもそもこの店は客を選んでいた。フラリと立ち寄る者はまずおらず、大体が紹介でやってくるのだ。
「雨、まだ酷いですか?」
「うん。今夜はしばらく居させてもらうね」
コートを脱ぎ、脩斗に預かってもらったアカリは、真ん中辺りの席に座った。それから、ショルダーバッグからタバコの入ったポーチを取り出した。それに呼応するかのように、修斗は彼女の前に灰皿を差し出した。それから、暖かいおしぼりも。
「特別な一杯を」
「かしこまりました。僕のでいいですか?」
「うん」
修斗は赤ワインのボトルを取り出し、グラスに注いだ。それから、冷蔵庫に入れておいた、手に収まるサイズの小瓶を取り出した。中は赤い液体で満たされていた。彼は液体を二、三滴ワインに入れた。
「お待たせいたしました」
アカリはまずじっくりと、赤い液体の入ったワインの香りを楽しんだ。それから、くっと飲み込む。彼女にとっては久しぶりの、まろやかな感触。これは、修斗の血が入ったワインだった。
「やっぱり美味しい……」
アカリのその言葉を聞いて、脩斗は満足そうに微笑んだ。そう、これは、吸血鬼専用の「特別な一杯」なのだ。
最初のコメントを投稿しよう!