葉加瀬清二の遺書

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「父のように立派に仕立てをしたいのですが、うまくできなくて……練習として、勇さんの服を仕立てさせてもらっているんです」 「如月くんは服を取っ替え引っ替えしていると思っていたけれど、紬さんの仕立てたものだったのですね」 「はい。私の我儘で……」 「百貨店に売っているものかと思っていました。僕もいただきたいくらい」  紬さんはパッと顔を上げました。私は口を抑えました。初対面で何を云っているのだろうと。第一、借りを作るような発言をすれば、我が家の財産を対価として奪われることになると、父からきつく教わっていたのに。  ですから私は訂正の句をつごうとしたのです。そのために息を吸ったのです。しかし、その息が吐き出されることはありませんでした。  紬さんが笑ったのです。  それは今まで私が見てきた「女の微笑み」とは正反対でした。「男はこういう顔が好きだろう」という驕りも、「金銭慾を巧く隠してやろう」という(はかりごと)もなかったのです。紬さんはただ「嬉しい」という感情を表現するためだけに笑ったのです。 「本当ですか。よろしければ、何か仕立てさせてください。たくさん練習をしたいのですが、勇さんに申し訳なくて……」 「は、はい。お願いします」  紬さんの微笑みをきっかけに、場の空気は完全に彼女のものになりました。  紬さんは袖無(ちゃんちゃん)の色や柄について、私の好みを訊ねてきました。私は答えることしかできません。紬さんの純白の笑顔を享受するのに頭脳(あたま)を使い切っていたのです。  いつの間にか戻っていた如月くんは、にやにやと私達を見ていたといいます。彼に声をかけられるまで、私達は会話に没頭していたというのです。  これが私と紬さんの出逢いでした。そして私の罪の始まりでした。
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