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序章・生きる為に ①
辺りの密林地帯は、生ぬるい湿気を帯びていた。
アルザークの都を抜け、森林地帯に足を踏み入れて三日目、アイシャは極度の疲労の為に息が上がる。
本来ならば、そのしなやかな筋肉を躍動させ、木々の間を抜けられた筈だったが、予想以上の体調の悪さが足を引っ張っていた。
決して誰にも見つかる事なく村へ帰る為に、わざわざ獣道を選んだのも、体力を磨り減らされる原因になった。
吐き気と立ち眩みが襲い、今は歩くのがやっとの状態で、アイシャの光る銀の髪も冷や汗で頬に張り付いて、更に不快感が増す。
このところの体調不良から、水色の瞳が青に変化していると『アイツ』に言われるまでは、自分でも知らなかった。
アイシャは犬族の少年だった。
犬族にしては勝ち気そうな双眸に、しっとりとした襟足だけ長く伸ばした真っ直ぐな銀髪からは、尖った耳だけが飛び出していた。
その野性的な印象は、他の犬族よりも大きな耳を尖らせ、気性の荒さを醸し出していて、反感を買う事も多い。
アルザークの都に住む獣人は、王族、貴族、犬族の三種に分かれていた。
身分差は絶対的なものであり、その垣根を乗り越えるのは不可能だ。
それは髪の毛と尾の色からも、地位が明らかに判別されていた。
頂点に君臨する『王族』は、全ての者が黒髪に黒い尾を持ち、ほとんどの者が獣に近い顔形をしていて、他のどの一族よりも頭脳も身体能力も優れた、大型の獣人逹だった。
アルザークの都の中枢機関の全てを王族が支配し、それに準じて貴族が仕えている。
『貴族』の者は、総じて赤や褐色の髪と尾であった。
性質も穏和で、気位の高い王族に仕えるには適した性質だった。
王族と貴族の生活を支える下々の仕事をこなすのが、獣人とは見なされず『物』として扱われていた『犬族』だ。
犬族は、その能力の低さや生命力の弱さから、髪の毛や尾の色が、白や金や銀などの薄い者がほとんどだった。
アイシャは、ある王族の召し使いとして支えていたが、この度、初めての『発情期』を迎えて、村へ帰るのを許された。
犬族は一生の内の数回しかない『発情期』を迎えると、その期間は番と共に暮らし、子作りに専念する。
性欲が弱く女性的な犬族は、その出産に力を注ぐ。
番は生まれて直後に定められた相手と、可能な限り、お互いの子供を産む。
犬族は、ペニスも子宮も持った、両性の獣人だった。
性欲の弱い一族が生き長らえる為には、夫婦で互いに、互いの子供を産む定めがあった。
それ以外の期間は、首都アルザークへ出稼ぎに出て、家族を養う為に働く。
王族は犬族を同じ獣人とは認めず、まさに犬のように酷使したが、その人手を失う訳にはいかなかったので、発情期である繁殖の時期には村へ返すのを許した。
アイシャも18になり、初めての発情期は番のフェリドと過ごす筈だった。
フェリドの発情期より、アイシャの方が先に来たので、アイシャは母になるべく心踊らせていたのに。
それがどうしてこんな事になったのか。
仕える主にも認められて、アルザークを後にする予定だったにも関わらず、今は逃亡犯として追われている。
アイシャは、何度目かの吐き気に襲われ、木の根元に嘔吐した。
「ちくしょう……。何で、俺が逃げなきゃなんねーんだよ」
脱力感に へたり込み、汗にへばり付いた前髪をかき上げた。
番のフェリドは、アイシャに発情期が来たと聞いて、先に村へ帰っている筈だ。
予定より帰るのが遅れているアイシャを、心配しているかも知れない。
よろめく体を奮い立たせ、アイシャは村への道のりを急いだ。
王族に追われる自分が村に帰れば、他の犬族の迷惑になる。
フェリドと共に、誰にも見つからない密林の奥地へ逃げ、そこで二人で暮らす。
その為にも今ここで、追跡者に捕まる訳には行かなかった。
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