第1章・絶望の果てに 5ー①

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第1章・絶望の果てに 5ー①

今は何時だろう。 アイシャが目を開くと、そこは見た事もない部屋だった。 ファイザルの部屋のように、華美な装飾や置物もなく。 真っ白な壁や、天井しかない。 ただ、見知った黒い長髪の男だけが枕元に座っていた。 「……目が覚めたか。アイシャ……」 「ファイ……ザ……ル……」 薬が効いているのか、頭が回らず、口も上手く開かない。 「腹、腹の……」 「子供は大丈夫だ。……厳密に言えば」 「……厳密に?」 「だが、もう、お前の腹にはいない」 「それ、どう……いう……」 「母体と一緒のままでは死ぬ所だった。すぐに取り出して、保育カプセルに入れた。今後はカプセルで育てる」 子供は、自分の体を離れてしまった。 そんな状態で育つのだろうか。 アイシャは、子供が実験に使われてしまうようで堪らなくなった。 「受精直後の卵子なら、育つのは無理だったかも知れん。だが、ある程度、獣人の形が出来ていたから助かった。ある意味、お前の小さな子宮で最後まで育てると、王族の子供は大きいから腹が裂けていたかもという懸念はあったから、この成育で正解だっただろう」 「……そう……」 アイシャの体のどこかが、すっぽりと穴が空いてしまったような空虚感があった。 生きてはいてくれている。 それだけでも、良かったと思わねばならなかった。 「……なぁ、子供に会えないか?一応、母親なんだからさ、俺」 「分かった」 ファイザルは、アイシャの膝裏に手を差し入れて横抱きにした。 そして、すぐ隣の部屋へ移動した。 その時になって、自分はファイザルの研究室で寝ていたのを知った。 目の前に大きな水槽が現れた。 中に、小さな子供が体を丸めている。 その子は辛うじて人の形をしていたが、見た目では生きているのかすら分からなかった。 「名前をつけてやれ。アイシャ」 「名前……」 「好きな時に会いに来たら良い。その時、呼んでやる名前がある方が情も湧くだろう」 「情が湧くなんて、アンタらしくない言葉だな」 「……そうかも知れんな」 アイシャは考えた。 毎日、会いに来て、少しずつ目に見えて成長する我が子。 産む痛みや苦しみのないのは、愛情にどう作用するかは分からないが、見て育つのならば、子供との距離を縮められると思った。 無事にここから出て来て欲しい。 アイシャは、それだけを願った。 「……アンタが名前、考えてくれよ。俺、そういうの、浮かばないし。まがりなりにも、アンタは……その……父親、なんだからさ」 アイシャは、言ってから失敗したと思った。 一瞬、ファイザルの目が見開いたかと思うと、聞いた事もない位に大きな音でバッサ、バッサと尻尾が揺れる音が聞こえたからだ。 またコイツの変なスイッチを押してしまった、と直感した。 すると、ファイザルはアイシャを抱き込み、その顔中にキスの雨を降らせた。 咄嗟にそれを止めるように、ファイザルの顔を押さえ込んだ。 「ばっ、……馬鹿っ!な、何、浮かれてるんだよっ!テメーは!」 「……浮かれる?これは『浮かれる』という気持ちなのか?」 自分の気持ちも分かっていない。 変人もここまで来ると酷すぎる、とアイシャは思った。 いくら学者馬鹿で研究ばかりの人生だったとはいえ、喜怒哀楽がなさすぎる。 だがそれは、ファイザルの殺伐とした過去が見えるかのようで寂しくもあった。 「……では、父親として命じよう。『聖なる者』の意味を込めて『サラ』と名付ける」 「……サラ。サラね。ちょっと、女の子っぽい名前だけど、この子、女の子?」 「染色体的には女だ。だが、男でもサラなら問題ない。お前の『アイシャ』だって女名だろう」 「ま、そうだな」 ファイザルに抱かれたまま、アイシャは水槽のガラスに手を伸ばした。 「サラ……。元気に育ってくれよ?」 「この子は、この世界を変える。まさに『聖なる者』となるだろう」 ファイザルはアイシャの唇に優しいキスをした。 アイシャは、もう、それを避ける事はしなかった。
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