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第1章・絶望の果てに 5ー②
「お待ち下さい!ファイザル様!私は、わざとやった訳では……」
「くどい。何度も言わすな」
廊下を足早に歩くファイザルへ、すがるようにしてスルターナは追いかけていた。
「あの犬が王族に対して無礼だったのを、しつけてやったのです!本来なら、あのような態度は……」
「私は初めに言った筈だぞ。アイシャは私の子を身籠っているから、敬えと」
スルターナは、ファイザルの怒りを肌で感じて震え上がる。
夫は冷たくはあったが、決して怒りを露にする性格ではなかった。
アイシャと出会ってからは、まるで性格が変わってしまった。
スルターナがファイザルと初めて出会ったのは、中央省庁から『神の申し子の子供を産め』と通達を受けた17の時だった。
ファイザルは、美しい子供だった。
子供を誘惑するのは簡単だと思っていたが、その子は交配日に義務的な交尾をする以外は、研究室から出て来ない。
次から次へと、中央省庁から女が送られて来ても、どの女にも靡く事はなかった。
いつしか、『誰も抜け駆けしない』という密約が、女達の関係の均等を保つようになり、『特別』にならない事が、いさかいなく過ごす為の糧となっていた。
あの、ヒト型のレイラですら『必ず子を成すように』と期待されているにも関わらず、同等の扱いを受けていた。
毎回、今月こそ妊娠しないか、来月こそはと祈るように過ごして、15年もの月日が流れてしまった。
そんな時、突然、アイシャという犬がファイザルの子供を妊娠したといって現れる。
そして、その扱いは格下の身分にも関わらず、ファイザルを虜にしていて、氷のような夫をまるで別人のように堕落させてしまっていた。
ファイザルは、誰のものであってはならない。
ファイザルは、特別な存在を作ってはならない。
そんな暗黙のもと、いつの間にか交わされていた約束事が崩壊し、気が付けばスルターナはアイシャを突き飛ばしていた。
咄嗟の怒りが、殺意にまで行き着いてしまった。
瞬間的な怒りが、スルターナの理性を失わせた。
「お、お許し下さい!ファイザル様!これからは、私が何としても貴方様の御子を……」
「もう、良い。お前とは離縁する。罰を与える事はしないが、早々に実家へ帰れ」
スルターナは、血の気が引いた。
ファイザルの逆鱗に触れてしまった事で、自分の退路を、自らで断ってしまった。
何度その名を叫んでも、ファイザルはもう振り返らなかった。
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