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「由依、おかわりは? 今日は大変なお役目を果たしたのだから、たんとお食べ」
その日の夜、祖母は上機嫌だった。食卓には普段は見ないようなお刺身が並び、さながら誕生日のお祝いのようだった。父もまたビールを手に、いつになく饒舌だった。
「由依、知ってるか? 鎮守様のお役目を十六歳まで果たした女子には、立派なお婿さんがもらえるんだぞ」
「お婿さん? お嫁さんになれるんじゃなくて?」
「もちろんだとも。お嫁に行ったら由依の後に鎮守様のお役目をする女がいなくなっちゃうだろ。由依はお婿さんを貰って、可愛い女の子を産むんだ」
初めて聞く話に、胃のあたりがどんよりと重くなった。私はお役目を果たしたと言えるのだろうか。お饅頭を食べた事を今すぐにでも打ち明けたかったのに、陽気な祖母と父の様子にますます憚れるばかりだった。
と――
プッという短い音とともに、家中が暗闇に包まれた。
「停電か?」
「外を見て来い」
「仏壇にロウソクが」
外を見に行っていた父が、頭にこんもりと雪を載せて戻って来た。
「多分、この雪のせいで麓からの電線が切れたんだろう。今晩は諦めるしかないな」
いつの間にか外は吹雪になっていたらしい。テレビも消え、ロウソクの炎だけがほのかに室内を照らす中、ゴーゴーと言う風の音だけが家をなぎ倒さんばかりに激しく響いた。
お祝いムードはすっかり消沈してしまい、無言で再び箸を手に取った。その時だ。
――ギュッ……ギュッ……。
聞き覚えのある音が、私の耳に入って来た。
「ねぇ、何か音、しない……?」
もう一度耳を澄ましてみる。
――ギュッ……ギュッ……ギュッ……ギュッ……。
間違いなく、雪を踏む音だった。
「さっきからずっと誰かが外を歩いてるよ。そっちの方から、今はこっちに……その前は……」
返事がないのを怪訝に思った私は、見た事のない形相で私を睨みつける祖母と父に気づき、身をすくめた。
「由依……お前、まさか……」
父が口を開きかけたその時の事だ。
バチン!
という音とともに、左の頬に衝撃が走り、視界がぐるりと回転した。
「由依! 貴様、饅頭をどうした! まさか落としたのをそのまま置いて来たんじゃないだろうね! 正直にお言い! 由依っ!」
祖母が私の頬を張ったのみならず、床の上に組み伏せたのだった。
「あれだけ鎮守様の理を言いつけたにも関わらず、一体何をしでかした! お前はこの家を潰す気か! 村がなくなってもいいのか!」
頭という漢字に表される通り、饅頭はそもそも人間の代わりとしてお供えされるものだった。その昔は饅頭ではなく、生きた人間が捧げられていた。饅頭を汚したり、失くしたりすれば、腹を空かせた鎮守様の怒りに触れる。どんな災いが村に降りかかるかわからない。なによりも私自身が無事では済まない。
半狂乱の祖母から放たれる初めて聞く逸話の数々は、まだ幼い私には理解できなかった。何よりもロウソクの炎に揺れながら髪を振り乱し、目を剥いて怒号する祖母が恐ろしかった。
「お義母さん、やめてください!」
「うるさい! これはこの家の問題だ! よそから来た嫁に何がわかるか!」
「あなた! お願いだからやめさせて! お義母さんを止めて! 由依が殺される! ねぇ、あなた!」
母が泣き叫びながら父の腕に縋りつくと、それまで黙って腕組みしていた父は、意を決したように言った。
「……出て行け」
その言葉は、耳を疑うものだった。
「朝になったら由依を連れて、この家を出て行くんだ。どこか遠い南の方にでも行って、もう二度とこの村には戻るんじゃない」
「あなた! 自分が何を言っているかわかってるの? 由依が、由依が一体何をしたっていうの?」
「殺されたくなかったら!」
食って掛かる母をはねつけるように、父は叫んだ。
「……言う通りにしろ。もう一度言うぞ。この家を出て、どこか雪の降らないような遠い町で暮らすんだ。もう二度と、雪には近づくな」
それ以上、母と私に異を唱える事は許されなかった。
再び静けさを取り戻した家の外で、ギュッ……ギュッ……という雪を踏む音だけがいつまでも続いていた。
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