1

1/5
前へ
/163ページ
次へ

1

 〇高原 瞳 「こんにちは。」  あたしが深々とお辞儀をすると、目の前のその人は… 「…え?瞳…ちゃん?」  目を丸くして、驚いた顔。 「はい。」  目の前のその人は…父さんの愛した人。  ううん…今も、愛し続けてる人。  さくらさん。  今日、あたしは…何の連絡もせず、桐生院家を訪れた。 「え…っと…知花?」 「いいえ。」 「千里さん?」 「いえ…」 「…華音…は、ないわね…」 「…さくらさんに…会いに来ました。」 「……」 「お邪魔していいですか?」 「あ…ええ…どうぞ。」  スリッパを出されて。  それを履いて、ゆっくりとさくらさんについて家の中に入る。  前々から思ってたけど…大きな家だな。  あたしは、外からしか見た事がない。  先月亡くなられた、さくらさんのご主人のお仏壇に手を合わさせてもらった。  写真のご主人は、柔らかい笑顔の人。  生前は、何かと…父さんとお酒を酌み交わしたりもしていたようだけど…娘のあたしにも、不可解だ。  なぜ…父さんは、さくらさんを奪った形になったこの人と…友人関係にあったのだろう。 「お待たせしてごめんなさい。」  さくらさんが、お茶と羊羹を持って現れた。 「こんな物しかないんだけど…」 「いただきます。」 「……」 「……」  静かな時間が流れた。 「…母に…聞いた話だと…」  あたしが話し始めると、さくらさんはゆっくりと視線を上げた。 「あたしは、小さな頃…さくらさんのファンだったって。」 「ファン?」  あたしの言葉に、さくらさんは少しキョトンとされた。 「ええ。歌ってるさくらさんを見て、ゴキゲンになってたそうです。」 「…お母さん…そんな話を?」 「はい。晩年は特に…」  あたしの言葉に、さくらさんは目を細めて…柔らかく微笑んだ。  だけど… 「さくらさんが歌ってるレストランに行って…客席で美味しい物を食べながら、さくらさんの歌を聴く。それが楽しみだったって。」 「…レストラン…」  さくらさんは、首を傾げた。 「…?」  あたしがその様子を眺めていると。 「あ…ごめんなさい。」  さくらさんは小さく謝って。 「実は、昔の事があまり思い出せなくて…」  さくらさんは伏し目がちになって…口元は優しく笑ったままなんだけど…  その表情は寂しそうだった。 「事故に遭って…から…ですか?」  確かさくらさんは事故に遭って…ほぼ寝たきりの状態で。  そんなさくらさんを、父さんが日本に連れて帰って…献身的に、身の回りの世話をしていた…って聞いた。 「そうみたい。何となく…ボンヤリと何かが…霧の向こうにあるのに、それが分からないって感じなのかしら。」 「…すみません…こんな事話して…」 「ううん、いいのよ。嬉しいわ。」  余計な事を言ってしまっただろうか…と、少し気になったものの…  あたしはお茶を一口飲んで続けた。 「…母は…ずっと後悔してました。」 「……」 「本当なら、あなたが結ばれるはずだった父を…奪った…って。」 「そんな事…それに、私は自分で選んでここに来たんですよ?」 「…知花ちゃんが居たから…じゃないですか?」 「…え?」 「父から聞いたんです。あなたは、知花ちゃんを死産したと聞かされて…その存在を知らなかったって。」 「……」 「その知花ちゃんが、生きてたと知った…だから…ここに来た。」  あたしの言葉に、さくらさんはしばらく黙っていたけど。 「…もし、そうだとしても…もう、昔の話です。」  そう、小さくつぶやいて…笑った。 「…さくらさん。」  あたしは、座布団から降りて…畳に手を着く。 「…瞳ちゃん?」  そして、さくらさんの目を見て… 「お願いです…父と…結婚して下さい。」  そう言って、頭を下げた。 「何…何言ってるの?そんな事やめてちょうだい。顔を上げて?」  さくらさんはあたしの隣に来ると、あたしの手を取って。 「こんなおばあちゃんに、そんな話…血圧が上がっちゃうわ。」  笑いながら…そう言った。  おばあちゃんだなんて…  さくらさんは、全然年相応に見えない。  可愛らしくて…まるで少女のようだ。 「出来れば…」  あたしは、さくらさんの手を握り返して。 「あなたの事を…母と呼ばせてください。」  真顔で…言った。 「……」  それには、さくらさんも絶句して。  ふい、と目を逸らして… 「…周子さんが…」  小さくつぶやいた。 「母の願いでもあるんです。」 「……」 「お願いです。さくらさんの気持ちは…まだ、あの頃と変わっていないんでしょう?」 「……」  それから…  さくらさんは、何も答えてくれなくなった。  これ以上困らせるのも…と思って、あたしは帰る事にした。 「…突然来て、ぶしつけにすみませんでした。」  門まで送ってもらって、あたしが頭を下げると。 「…ううん…会いに来てくれて、嬉しかった。」  さくらさんはまるで…友達みたいに気さくにそう言って。 「ありがとう。」  優しく…あたしを抱き寄せてくれた。
/163ページ

最初のコメントを投稿しよう!

61人が本棚に入れています
本棚に追加