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〇高原 瞳
「こんにちは。」
あたしが深々とお辞儀をすると、目の前のその人は…
「…え?瞳…ちゃん?」
目を丸くして、驚いた顔。
「はい。」
目の前のその人は…父さんの愛した人。
ううん…今も、愛し続けてる人。
さくらさん。
今日、あたしは…何の連絡もせず、桐生院家を訪れた。
「え…っと…知花?」
「いいえ。」
「千里さん?」
「いえ…」
「…華音…は、ないわね…」
「…さくらさんに…会いに来ました。」
「……」
「お邪魔していいですか?」
「あ…ええ…どうぞ。」
スリッパを出されて。
それを履いて、ゆっくりとさくらさんについて家の中に入る。
前々から思ってたけど…大きな家だな。
あたしは、外からしか見た事がない。
先月亡くなられた、さくらさんのご主人のお仏壇に手を合わさせてもらった。
写真のご主人は、柔らかい笑顔の人。
生前は、何かと…父さんとお酒を酌み交わしたりもしていたようだけど…娘のあたしにも、不可解だ。
なぜ…父さんは、さくらさんを奪った形になったこの人と…友人関係にあったのだろう。
「お待たせしてごめんなさい。」
さくらさんが、お茶と羊羹を持って現れた。
「こんな物しかないんだけど…」
「いただきます。」
「……」
「……」
静かな時間が流れた。
「…母に…聞いた話だと…」
あたしが話し始めると、さくらさんはゆっくりと視線を上げた。
「あたしは、小さな頃…さくらさんのファンだったって。」
「ファン?」
あたしの言葉に、さくらさんは少しキョトンとされた。
「ええ。歌ってるさくらさんを見て、ゴキゲンになってたそうです。」
「…お母さん…そんな話を?」
「はい。晩年は特に…」
あたしの言葉に、さくらさんは目を細めて…柔らかく微笑んだ。
だけど…
「さくらさんが歌ってるレストランに行って…客席で美味しい物を食べながら、さくらさんの歌を聴く。それが楽しみだったって。」
「…レストラン…」
さくらさんは、首を傾げた。
「…?」
あたしがその様子を眺めていると。
「あ…ごめんなさい。」
さくらさんは小さく謝って。
「実は、昔の事があまり思い出せなくて…」
さくらさんは伏し目がちになって…口元は優しく笑ったままなんだけど…
その表情は寂しそうだった。
「事故に遭って…から…ですか?」
確かさくらさんは事故に遭って…ほぼ寝たきりの状態で。
そんなさくらさんを、父さんが日本に連れて帰って…献身的に、身の回りの世話をしていた…って聞いた。
「そうみたい。何となく…ボンヤリと何かが…霧の向こうにあるのに、それが分からないって感じなのかしら。」
「…すみません…こんな事話して…」
「ううん、いいのよ。嬉しいわ。」
余計な事を言ってしまっただろうか…と、少し気になったものの…
あたしはお茶を一口飲んで続けた。
「…母は…ずっと後悔してました。」
「……」
「本当なら、あなたが結ばれるはずだった父を…奪った…って。」
「そんな事…それに、私は自分で選んでここに来たんですよ?」
「…知花ちゃんが居たから…じゃないですか?」
「…え?」
「父から聞いたんです。あなたは、知花ちゃんを死産したと聞かされて…その存在を知らなかったって。」
「……」
「その知花ちゃんが、生きてたと知った…だから…ここに来た。」
あたしの言葉に、さくらさんはしばらく黙っていたけど。
「…もし、そうだとしても…もう、昔の話です。」
そう、小さくつぶやいて…笑った。
「…さくらさん。」
あたしは、座布団から降りて…畳に手を着く。
「…瞳ちゃん?」
そして、さくらさんの目を見て…
「お願いです…父と…結婚して下さい。」
そう言って、頭を下げた。
「何…何言ってるの?そんな事やめてちょうだい。顔を上げて?」
さくらさんはあたしの隣に来ると、あたしの手を取って。
「こんなおばあちゃんに、そんな話…血圧が上がっちゃうわ。」
笑いながら…そう言った。
おばあちゃんだなんて…
さくらさんは、全然年相応に見えない。
可愛らしくて…まるで少女のようだ。
「出来れば…」
あたしは、さくらさんの手を握り返して。
「あなたの事を…母と呼ばせてください。」
真顔で…言った。
「……」
それには、さくらさんも絶句して。
ふい、と目を逸らして…
「…周子さんが…」
小さくつぶやいた。
「母の願いでもあるんです。」
「……」
「お願いです。さくらさんの気持ちは…まだ、あの頃と変わっていないんでしょう?」
「……」
それから…
さくらさんは、何も答えてくれなくなった。
これ以上困らせるのも…と思って、あたしは帰る事にした。
「…突然来て、ぶしつけにすみませんでした。」
門まで送ってもらって、あたしが頭を下げると。
「…ううん…会いに来てくれて、嬉しかった。」
さくらさんはまるで…友達みたいに気さくにそう言って。
「ありがとう。」
優しく…あたしを抱き寄せてくれた。
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