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自分から身分証を出すような人間だ。とりあえずこの状況で嘘を吐けるようなヤツじゃないのは確かだった。凪佐に学生証を返し、男性用トイレを指し示す。
「何してんだ。トイレ行くんだろ。先入っていいぞ」
凪佐は口許を隠して笑っていた。何が面白いのか、怪訝に思ったが、笑った顔がやはり「なぎさ」を彷彿とさせる。
「優しいんですね。えっと……お名前伺ってもよろしいですか?」
メンズミディアムの濡れた鴉のような艶やかな黒髪、透明感のある白い肌、目元を覆うように伸びた前髪から覗く長い睫毛に縁取られた大きな黒い瞳──「なぎさ」が男になったらこんな容貌かもしれない、とさえ思う。
が、今俺は「なぎさ」を失ったショックでまともな判断ができない状態だ。似ているというだけで過剰に反応している可能性は大いにある。
「……依川世理人だ」
「依川さん、ではお先に失礼します」
──でももし、「凪佐」が「なぎさ」だったらどうする?
俺の横を通り過ぎる凪佐を目で追い掛ける。「どうする」もない。俺はただ、ステージの上の彼女が好きだった。それだけだ。
凪佐と交代でトイレに入り、出てきてカウンターの凪佐を横目に自分の席に戻る。
凪佐はカウンター席で本を開いていた。持っていたテキストを見る限り、受験生なのだろう。
今は十一月。来年から入試が始まる大変な時期だ。十時近い時間だから塾帰りにこの店に寄ったのかもしれない。
多少抜けてはいるが、真面目そうな印象の子だった。受験のじゅの字もなく、フリーター兼インディーズバンドの道を歩んでいる俺とは雲泥の差だ。
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