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「……僕はもう、歌えないと思うんです」
俯き加減にぼそりと呟く。俺はこの瞬間凪佐の地雷を踏み抜いたことに気付いた。
「女性だった時、僕は歌が大好きでした。歌で生きていくんだって、一瞬でも本気で思ったくらいには……」
「男に戻ったら、歌が嫌いになったのか?」
「違います。歌は好きなんです。でも……僕の声が……」
凪佐は自分の喉に触れた。彼の指先には、確かに隆起した喉仏があった。
「数ヶ月前まで歌えた歌が突然歌えなくなって、思ったように声が出なくて、無理に出そうとして喉を傷めたりして……。歌おうとする度にもう歌えないんだと突き付けられて、苦しいんです」
凪佐は男ならほぼ誰にでも来る変声期を経験せずに今まで過ごしてきた。女性として六年生きてきたからだ。人生で最も多感な時期を、ほとんど「もう一人の自分」の人生を歩むようにして。
まるでシンデレラが魔法が解けて灰かぶりの娘に戻るように、「もう一人の自分」から突然「本当の自分」に戻される。「もう一人の自分」が好ましかった分だけ、そのショックは大きいだろう。
――もし、凪佐が「なぎさ」なら、その苦しみは幾ばくか――
「なぎさ」は、アイドルという職業を、歌うことを誰よりも愛していた。俺のような一介のファンにも、その想いの強さは伝わってきた。
しかし同時に、儚さをはらんでいたように思う。
この瞬間、この刻は、永遠ではないのだという切なさを帯びていた。決められた引退の時が、常に彼女に付き纏っていたからなのだと今は思う。
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