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 わたしがその雑貨屋さんを見つけたのは、本当に偶然の出来事だった。冬の寒さが去り、春の足音が聴こえてきた頃だったと記憶している。駅前の桜並木の蕾たちが膨らんできた季節、わたしは道に迷ってしまったのだ――長年住み慣れた、この街で。  たぶん、ぼーっと歩いていたんだと思う。三駅先のところにある職場からの帰り道、ふと気付くと知らない路地に立っていた。いつの間にか桜並木のメインストリートから外れて、全く知らない住宅街の中に、ひとり。 (あれ……どこかしら)  実家を出て、この街でひとり暮らしを始めてから五年。だいぶ駅前のあたりの道は知っていると思っていたが、まだ通ったことのないところがあったとは。そのことに驚きつつ、わたしはキョロキョロとあたりを見回りした。人の気配は、全く無い。 (とりあえず歩いていけば知っている道に出るでしょ)  手始めに、そこの十字路を左に曲がってみる。びっくりするくらい静かな家々の間、わたしのパンプスの靴音だけが響いた。  コツ、コツ、コツ、コツ。 (……静かすぎるわね)  まっすぐ歩いていくが、全くと言っていいほど知っている道にたどり着く気配は無い。なんだか霧もかかってきたようで、風景が霞んで見える。そして相変わらず人の居る感じもしない。もしかしたら、わたしはぼーっとしすぎて駅前から外れて違う街に来てしまったのかもしれない。  そう思っていたときだった。どこからか、小さくジャズのような曲調の音楽が聞こえてきたのだ。 (音楽がどこかで……)  わたしはその音が聞こえる方へ、吸い寄せられるように歩いていった。その角を右に曲がって、少し行くと。  あった。小さな看板が掲げられている。少し昔の木造建築といった感じの建物で、正面は大きなガラス戸になっていた。 (お店……?)  雑貨屋のような雰囲気がしている。どうやらジャズは、この店の中から流れてきているようだった。ガラス戸の前に立ったわたしの視界に入ってくるのは、可愛らしい掛け看板。 『雑貨の霧屋』  お店の名前が書いてあった。雑貨の霧屋。どこかで聞いたことのあるような店名だった。わたしは少し迷ったけれど……このまま通り過ぎて心細くひとり歩き続けるのも嫌だったから。勇気を出してお店に入ることにした。  ガラガラガラ。引き戸を開けると、カランコロンと軽い鈴の音が鳴った。そして、店の奥から聞こえてくる「いらっしゃいませー」という、のんびりした声。 (……普通の、お店だ) 「こ、こんにちは」  恐る恐る挨拶を返し、店内をざっと見渡してみる。アンティークな雰囲気に、あたたかい感じの木目模様の商品棚。そこにはたくさんの――いわゆる雑貨が置かれていて、端の方には服も売っているようだった。壁に沿っては、本棚が続いており、いろんなものを扱っているお店らしい。 「すごい……」  わたしが思わず感嘆の息を漏らすと同時に、ガタガタと物音がして。棚の向こうから、人影が現れた。 「ありがとうございます。古今東西……とまでは言いませんが、色んなものを取り揃えてありますので」  そんな言葉とともに、わたしの前で笑顔が弾ける。現れたのは背の高い、若い男の人だった。「雑貨の霧屋」と可愛らしいフォントで書かれたエプロンをつけている。黒髪の、清楚系イケメンで……わたしはその人の顔を見て思わず「あっ」と声を上げる。 「ど、どこかでお会いしたこと、あります?」  自分でもなんでそんな事を聞いたのか分からなかった。だけれど、わたしは今目の前に居る男の人をどこかで見たことがあった気がしたのだ。 「あっ、す、すみません。今来たばかりなのに急に不躾に聞いてしまって……」  ひとりアタフタとしていると、それまで黙っていた店員さんがクスッと微笑んだ。 「大丈夫ですよ、桜葉あかりさん。あなたの記憶は間違っていないです」 「よ、よかったです……」  言いながら、二つのことに気がつく。 「え、あ、あれ……なんでわたしの名前を? それに『記憶が間違っていない』ってことは、やはりお会いしたことが……」
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