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箱庭飼育
私はメダカを飼っている。
よくあるご家庭の棚に置かれるような水槽を思い浮かべただろうか。そんなちゃちな量ではない。36Lの台形のバケツ二台に石を引き、それっぽく水草を入れ、ついでに観賞用に睡蓮を置いた、ちょっとしたアクアリウムの様相を見せるバケツだ。
バケツでなければもっと華やかなのだろうが、マンションの角部屋でできるサイズはこれが限界だろう。
冬の間、降雪まであったというのに奇跡的に水面が凍ることもなく、死者もほぼなく、越冬が叶いそうで何よりである。日があり、暖かな日には餌を与える。
つい先日は、冬の間に壁やらにこびりついた藻をある程度伐採したばかりだ。
こういう、時間はかかるけれど。何かを忘れられるような作業というのはいい。心の余裕というものは時間でしか解決できないのだ。
何も考えず、生えすぎた藻をピンセットで、パスタを巻くようにしてすくいあげるなんとも言えない時間は、とても何も考えなくていいという点で、よかった。
最近、上手く行かないと思っていたことも、忘れていく。
人間、どうしたって失言をすることはあるだろう。
その度合いは問わない。自覚の有無も問わなければ、それこそ無意識下ですごい量を吐いているはずだろう。
それは仕方ないと思う。生きてきた価値観、周囲の状況やらで個の普通というものが変わってくる以上、誰かしらとは気が合わないとなるのは当然だろう。そのとき、あ、合わないなと線引いて、かつお相手にダメージを負わせるわけでもなく、いい感じの距離感に収まれるかどうかが人間性の出るところだ、と勝手に思っている。
やれ世の中、セクハラだのなんだのとあるが、ぶっちゃけ、仕事に行けばほぼ毎日セクハラ発言はされる。拾い上げればキリなんてないだろう。でも、どうだ。
もちろん超えてはいけない最終ラインは存在する。が、これは戯れだなと思ってしまえば、それは別に表立っては失言に
カウントされないだけ。してないだけ。
そういう謎の理論も踏まえてだが、失言は日々山盛り存在していると思う。
なぜこの人間は、いきなり失言について論じようとしているのかといえば、私の無意識下の失言がしっかり失言とカウントされ、それを受けたご本人から優しいことに、ちゃんとお叱りがあり、へこんでいるからである。
お叱りがあるのならまだいい方である、とは流石に解っている。だって本当に無理ならば、叱るまでもなく処したり、離れて関わらない距離にまで行けばいいのだから。
お叱りがあるということは、改善すれば許してくれるともいうことで。
ただ、お叱りを受け、冷水を頭からかけられたように冷たくなった指先から心の臓を抱え、呻いたのち、私はふと思った。
まだ先の発言に関して、お相手からすれば礼を失していたことはまま解った。反省もしている。言葉のチョイス下手と。
ただわからないこともあって、名前の呼び方である。
さんや、ちゃん、くんと、日本語ではすごい量の敬称が存在するわけであるが、それなりの友情度があるのは確かであるのに「ちゃん」は勘弁とおっしゃるのだ。
まあ、そういうものかと済まないと認識したが、これは自分にはない感性であるからして、ふと思ってはメダカの水槽の中へ沈めていく。
自分の名前に自分を感じられないなどと、そういうのは、一種の解離性障害であると知識としてはある。嫌いとまでは言わないが、自分とは思えないとか、そういうものらしい。別の友人がそれで、なんとも言えない気持ちだとぼやいていたのは知っている。
だが、名前にちゃん、がばつであるのはどういうことだ。会社や異性のアレならまだわからなくもないが、同い年の同性で駄目か、かといえど呼び捨てにするのは流石に気が引ける。ならさん、になるが、よそよそしい……と本人に聴かない限りは答えなどないものを問答して、また側面にこびりついた藻を、くるくると園芸用のピンセットでちぎった。
ぶっちゃけ、これを考えている時点で失礼極まりない。申し訳もない。だが、こちらとしてはそういう仲のつもりだったのだ。それに相手は私のことをちゃん付けで呼ぶわけだし。私からだけさん付けて。なんか変や。
いつも何処から発生するのか分からないタニシ(日本在来種ではないもの)をピンセットで挟み、引き剥がしてアクアリウムから放り出す。
いっそ、別に「さん」でもなんでも正直いいのだ。今更私が外聞を気にしてもどうなるものでもない。ただ、駄目なんだそっか、というなんとも言葉にしがたいを壁や溝を感じた気持ちに勝手になっているだけなのだから。
本人がやめてほしいというのなら、それに従うべきである。そうするつもりはある。だが、今まで長らく染みてきた友人への呼びかけを修正するのはきっと、骨が折れるだろう。思春期の親への呼びかけのように、意識しているものではないのだから、ふとした瞬間に出てしまい、それを失言とカウントされたらたまらない。
まあ、この考え方がすでに独りよがりよな、と冬の寒さに腐り落ちた睡蓮の葉と茎を集めながら、ぼやいた。
結局、人間。
まず自己があって、他者がある。だからたぶん私は、これらの問題を一掃しようと思ったのなら、自己の大部分を改装しなければならないのだ。
なかなか、難しいことだ。
世の中の、たまに見かける謙虚オブ謙虚な方々は一体どういう精神で構成されているのだろうか。まあ、表に出していないだけで実はしっかり内で、自己を褒め称えているのかもしれないが、一貫して表はきれいな時点でとんでもない。
あのプロ野球選手はどうだ。謙虚というよりかは野球しか考えてないだけかもしれない。
あのアイドルはどうだ。わからん。そもそも偶像だ。
あの政治家はどうだ。いや、そもそも政治家って割と自己しっかりしてないと務まらんだろう。怖い。
天秤のつり合わせが、上手く行かない。
上手くいかないよねぇ、と水の中のメダカたちにぼやく。意外とこいつらは呑気にすいすい、と自由に泳いで過ごしている。
けれど、その呑気に見える光景も、私が世話をサボればサボるほどに薄暗くなるのだ。藻が蔓延り、タニシが増えるだけ増えるのと同じように。観測者とまでは言わないが、箱庭の世界というのは、酷く閉鎖的で身勝手に思えた。けれど、この子たちを放棄することなく、たまにこうやって掃除をし、水嵩を整え、餌をやり、温かい日が安定してくるようになれば当然のように毎日水草や藁に産み落とされる卵を、別の容器に分けて管理し、上手く産卵しきれずに腹が膨らむ個体がいれば、手遅れにならぬよう、綿棒で軽く刺激を与え、産卵を即してみたりもする。新たに生まれた子たちは別箱で養育し、程よい大きさになってからメインのアクアリウムへ旅立たせる。
それが、この箱庭の管理人としてできる誠意であるから。
だが、この私の「誠意」なんて、所詮、人という枠組みからしたそれであって、今水面下で泳いでいる彼らにとってどうなんて、わかりっこない。
だから、どうやったって、独善的なのだ。
わからないのだ。
失言だったことは、認める。でも。
その失言前の、あなたへ話した言葉に嘘偽りはこれっぽっちもなくて。失言後の発言も、どうしたってあなたに早く喜びを共有したくって。
自信があるとかではなくって。ちゃんと出来たよ、ありがとうの気持ちでそう言ったはずだった。
だからこそ、今私は。
メダカたちの箱庭に、しょっぱい水を落としてしまう。
今まで、人の心がわかってないだのなんだのと言われたこともあった。
わかるわけないだろう、他人の隠された心なんて。
やってやろうという鼓舞を流されたこともあった。
今、逃したらこんなチャンス、もういつ来るかもわからないんだと力説したのに、誰も聞いてくれなかった。
ズレてるとも言われたこともあったっけな。
何からズレてるっていうんだ。全人類同じ枠組みなわけないだろ。
自信があっていいね。
自信なんてないから、こうやって失言一つに指先も冷たくなって辛くなって、この世の終わりのように一日を無駄にしているのに?
結局、人間。
自分の見ている世界しか、理解していない。自分の求める箱庭しか観測していない。
私は人間でありながら、多くの人にとってはこのメダカたちと同じようなものでしかないのだ。
それ自体に、どうとは思わないけれど。
誰も。
今、噛み殺そうと努力している私の、虚しさは、知らないんだろうな。
新しい水草を植えれば、興味を持った数匹がちらちらと葉の隙間を泳いでは、深くへ消えていく。
私も、深くへ沈んでいたい。
分かり合えないことがある、それだけの確定事項に苦しめられ続けるならば、私はきっと口を閉ざすのだから。
それは、水底に沈むのと大差ないのだから。
それなら箱庭だとしても、温いところが、いいだろう?
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