もう声は、思い出せない。

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もう声は、思い出せない。

ふと、亡くなって十年は行かない祖父のことを、思い浮かべた。 昭和一桁生まれにしては、すらりとした背丈を持ち、スーツをきっちり着こなす姿と、ゆったりとした和装姿でおお、別嬪さんが来たと思ったらオレの孫やった、と冗談を言った光景が印象に強く残っている。 見た目はいわゆる厳つい、頑固そうな祖父だったし、その娘である母は気難しいひとだと言っていたような気がする。それは本当なのだろうけれど、孫娘の私にはとんでもなく甘かったのだろう。たぶん。 お菓子が食べたいと言ったら、ついてきたら好きなもの山程買ってやると言われ、行く!と意気揚々と行くぞと息巻いたら、ようやく慣れてきた自転車に乗りなさいと言われ、祖父を見失わないように先をゆく自転車を隣町の大型店まで頑張って追い掛けた記憶もある。スパルタもあったのかもしれないが、それをクリアしている私も私なのだろう。確かに、マラソンなんかの類いでリタイアをしたことはない。 そんな祖父は、本当に身近な人だった。お互いの家が近く、ふらっと遊びに行ったりできたのもあるだろう。それに、本当に祖父は「なんでもできる人」で、シルバー人材センターから剪定の仕事を貰い、町中で剪定をしていた。たまたま祖父母のところに行こうとして道を歩いていて、木の枝を切っている人がいるなと思ったらそれが自分の祖父なのだ。昼までには終わらせるからばあちゃんに言っといてくれと、よく言われたものである。 庭は植木鉢や土に直植えされた植物で溢れていたし、大きな桶や昔は風呂釜だったろう容器にたくさんの金魚か、なにかの魚を飼育していて、今どきでいうところのベランダ空間には本格的な工具が大量に置かれ、万力が設置されていた。よくDIYがどうと言うやつがいるが、祖父のあの工房を知っている限り、格好つけるためだけのそれには嫌悪しかない。 裁縫は祖母のほうがよくやっていた印象だが、実はかつて祖父は裁縫の先生をしていたとかそんな話を訊いた気もするし、戦後に少しだけ存在していた「警察予備隊」に入隊していたとも訊いたような。待って、経歴がカオスすぎる。 一番衝撃的なのは、「あと半年でも戦争が続いていたらオレぁ、特攻してたろうなあ」という本当になんでもないことのように言う祖父の姿であった。その話を最初に訊いたのは小学生の頃。 唖然としたし、もしそうだったら私はいなかったんだと怖くなった気がする。けれどけろっとそんなことを言う祖父がなにより怖かった。結局、歴史を専門分野とした後の私として思うに、あの頃に生きた祖父にとって、死とはそういう他愛ない日常に存在した現象だったのだろう。恐らくその時代が、と言うべきか。 他愛ない日常として、けれど何度でも聞かせてくれたあの頃の話。もちろん戦地には行かずに済んだ祖父は、言い方は悪いかもしれないが幸運だった。 祖母もそれに負けじと、米国占領下での一幕の話をしてくれた。代替燃料として向日葵を育て、種から油を取るために種を蒔いていたらしいのだが、突然米国軍の車両がやってきて、『学校でチョコを配るよ』と告げていたらしいが生憎祖母は英語がわからないし、まだ怖かったらしくて、逃げ出したのだが、その先にあった爆発痕の大きな窪みにダイブしてしまったらしい。ちなみにチョコは貰いそこねたそうだ。 そんな話を幼少期から聞かされ、母は母でいろんな図鑑や図録系の歴史書を用意してくれたおかげで、小学生のくせにやたら歴史に詳しくなったりもして、ああ私が歴史を専門にするのは当たり前だったのだ、と納得すらする。 そんな祖父は、私が小学生の頃に一度大病を患った。 胃がんである。 幸いにも転移のたぐいはなかったらしく、胃の切除で済むということだったが、小学生にそんなことはわからない。昼から夜まで病院の待合室でひたすらに待つだけの時間は、ひどく恐ろしかった。 病院なんて、大体祖父母の顔を知ってるものだから、あそこのお孫さんと言われて、私も先生に懐いていたぐらいだから、怖いと思ったことはなかったのに。 祖父の入院先は、防衛医科大学とかいういかつい名前で、大きくて、たくさんの先生が走り回ってて、たくさんのひとが辛そうで、手術が終わるのを待つ間、ずっと、ちくちくとどこかが痛む心地だった。 手術は無事に終わり、食事量についてはアレソレあったらしいけれども、おじいちゃんは元気になれたんだ!と私は無邪気に孫らしく愛想を振りまいた。今度あそこ行こうね、じいちゃんの代わりにお花にお水あげておいたからね、なんて。祖父はそうかそうかと聴いてくれたような気がする。 ただ流石にそこからは、派手な外出は減ったと思う。それでも生きているだけでいいのだ。おじいちゃんに思う心なんて、子供ならそんなもんだろう。 母方の祖父母は比較的、それからしばらくは大病はなかったけれども。父方は、ひどかった。 ずっとリウマチとかいう病気をしていて動けないという祖母は、むすっとしていて怖かった。祖父はまだ気さくな人だったけれど、なんとなく落ち着かなかった。路地裏に玄関口のある小さな小さな二階建ての家で、父が育っていたことに驚いたものである。 私はめげずに愛らしい孫らしく振る舞う。会話は多くはなかったけれども、私がいる間はどうも、穏やかだったらしい。 そんな父方の方の祖母は、私が中学生のときに、リウマチで亡くなってしまった。どうも悪性だったらしかった。やばいと、一家が集められた。学校の掃除時間中に先生が駆け込んできた記憶がやけに強い。 小学生のころの母方の祖父の手術のときよりも、たくさんの管に繋がれている祖母が怖かった。人なのかなと疑ってしまいそうなほどだった。 最後の顔は見れなかった。 本当の病院って、こんな怖いんだなと想い知った。 人が亡くなった以上は、葬式が訪れるけれど。葬式屋さんにしっかり整えてもらった祖母は、管だらけだったことを忘れてしまいそうなほどに綺麗な顔だった。ただそう思ったし、薄暗い雰囲気に居心地の悪さを感じていた私は、ふと言葉をこぼした。 きれいだね、おばあちゃん。 そんな私の言葉に、私の知る由の中で、その時初めて父が泣いた気がする。 お墓も集団墓地にしては西洋風でおしゃれで、石畳を跳ねた記憶がある。その頃の私はとっくに、過去の話の記憶や、歴史へ触れてきた人生から、「死は何も生まないわけではない」、「悲しいだけではない」、「平等にいつか来る」と薄らと持論として持っていた。 だからこそわざとらしいぐらいにきゃっきゃとして、墓石に収められるお骨を見て、こうなってるんだなあと呟いたりした。もちろん、身内だから許される話だ。その後の食事会も、静まり返る大人たちを他所に親戚一同の子供たちで楽しくやったものだ。そこで瓶コーラの存在がまだあることを知った。開けられなかったので父に頼んだ。長男で喪主を務めていた父は明らかに辛そうだったからこそ、パパと呼びかけて、こっちに戻ってきて貰いたかった。 手慣れたように鍵を使ってぽんと開ける父に、子供たちはなにそれー!とまた一騒ぎ。そうしてようやく大人たちも雰囲気が解れて、食事に手を付け始めた。 そんな頃から、祖父のちらりと垣間見える死にそうだった話すらも笑えたし、そうなるなよという言葉に頷きもした。オレはァもう十年もしたら死んでやるからな、もういい!なんて口癖にした祖父に対して、でも元気じゃんと何度も言った。 死別は悲しいだけではない。その人が生きた果てにあるもの、ゴールだ。だから薄暗い雰囲気じゃなくて、またねぐらいでいよう。 母方の祖父が救急車で搬送されたと訊いたのは、高校生の休み時間だった。 でも不思議と私は、まあじいちゃんなら大丈夫じゃね?という感覚を持っていたので、本当にやばくないなら普通に学校終わってから家帰るねと冷静に告げた。母もそうだったらしく、OKが出たので平然と授業を受けた。先生ごめん、気を遣わせた。 後から伺うに脳卒中だったらしく、おいおいやべーじゃねぇかと思ったが、幸運にも速さ勝負の病に勝利したらしく、爾後は悪くなかった。手足の痺れなどもなく、けろっとしていた。祖母が可哀想なほどである。祖母は祖母で病気をしない人だから、祖父が何かあるたびに心労が嵩むものだ。 ただ、流石に脳だ。本当に何もないなんてわけはなく、ついに認知症を発症し始めた。 幸いにも祖父は車は運転しないので、そういう事故の心配はないが、散歩は大好きだったので散歩時に持っていくもの全てに名札が取り付けられた。長らく連れ添ったろう、私もよく後部に乗せてもらった自転車も、ついに処分となった。でもこれは仕方ない、自転車で転んで骨折した祖父が悪い。ただ、骨折で少しの間動けなくなったからか、一気に認知症は進んだ。私の人生の持論の中に、「歳を取ってから骨を折ったら終わり」というものが追加された瞬間である。 ただ、私に関してはその認知症は発動されたという感覚はゼロである。流石にその頃は大学生で、アルバイトもして昔ほど会いに行けなくなったのもそうだが、にしたって珍しくやってきた日にはちゃんと孫娘として認識し、学校はどうだなどと訊いてくるのだ。 大学院に行きたいと言ったら、教授先生になるのか?とかまあ勉強して損はないと、頷いた。相変わらず祖父は昔の教育制度の賜物か、歴代天皇の名を諳んじることができて、個人的にはそちらのほうがすごいやと思っていた。ねぇ訊いてよ、年号変わったんだよ。儀式の日、雨模様が急に晴れたの。 成人式はしっかりと両親に連れ回され、これうちの娘です!と見せびらかせられまくり。前撮りの写真は両祖父母らに真っ先に届けられたらしく、写真を見てにこにこだし、振袖は母方の系譜で継がれてきたものだったから、帰宅場所が祖父母宅で、帰ってきた私を見てお疲れさんだなあとぼやいていた。本当だよ、あれ本人じゃなくて家族のための儀よね。朝早いし。 今思い返すと、脳卒中で倒れたあとから穏やかだったなと思う。見たままを認識していたからだろうか。 何もない、平穏のなか、風邪を拗らせて入院。御高齢の方にはよくあることだろうけれども。 何度か危篤になり、寝静まった深夜に呼び出される両親を見送り、帰ってくるまで起きていたこともあった。お見舞いには行かなかった。あのときの、父方の祖母が頭を過るからだ。 ついに本当にやばいと言われたときには、流石に私も深夜に見舞いに行った。消灯された病院に入るのは新鮮で、こんな感じなのかと含蓄の一部となる。 祖母と母との消耗が激しいものだから、代わりに飲み物を買いに行ったりなどして、静かな病院を歩いたが、ここにたくさんのひとが入院しているとは思えないほど、静まり返っていた。もちろん階層の問題でもあるだろうが、静かな空間だった。 温かい缶を数本手にして戻って、流石に何も話しかけないのは情がなさすぎるかと、意識を取り戻した祖父に孫娘だぜと手を振ってみせた。相変わらず私に対しての認知症はなかった。その頃には肺炎で呼吸も苦しそうで、きっと常に溺れているような苦しみがあるだろうにこくりと確かに私を見て、認識して頷いたのだ。 意外と祖父は点滴がちょっとと、呼吸器がつけられていただけで十分人間らしくベッドに横たわっていた。怖くなかった。それだけで私は満足した。いや、肺を病んだ祖父に対しては流石に私も辛そうでやだなという認識は持ったけれども。 そんな呼び出しなどを数度繰り返した果て、祖父が眠ったという報告を、アルバイト中に受けた。 気を遣ってくれる皆に対して、私は問題ないですと仕事を全てやり終えてから帰る。お迎えに来てくれた葬式屋さんがあれこれして祖父母の家に安置された旨を聞いてから、そちらに行った。 流石に病院にいた頃は小さく見えたものだが、明らかに祖父の棺はでかかった。青白い肌ではあったが、まあでもあの苦しそうな顔よりかは万倍もマシ。 祖父母宅は壇家であったため、近くのお寺からお坊さんも来てくれたが、なんと母の同級で近所付き合いもあり、知ってるおじさまで、身内すぎ〜!と笑ったりした。 おじさまもお父ちゃん頑張ったねぇ、いっちょ供養しますか!みたいなノリだったから余計に穏やかな通夜だった。 葬式本日はまあそれにしたって沈む人たちばかりで、寝不足も相まって私のテンションは壊れていた。 おじさまに仏教として、この後祖父はどういったふうになるものかを訊いたりした。おじさまもノリノリで疑問に答えてくれた。いやぁ勉強になります。 まだまだ冷え込む時期だったのもあり、お茶を配りまくった。母らの涙につられて貰い泣きする親戚の歳近いものたちに、なに泣いてんだ、その必要はないと説いた。 用意されたお菓子をめちゃくちゃ食べた。祖父はいっぱい食べると褒めてくれたので。 さて火葬場に運ばなければならない、その前に棺に入れるものがあればという段階で家族で花を詰め込んだわけだが、私は花のバランスやらに気を配った。 だって何でもできる人である祖父が、一番この手の飾りは上手かったのだ。 じいちゃんが一番上手いんやから無理だわと宣いながら、丁寧に花を詰めてやった。我ながら美しい比率だったと思う。そしてついに棺の蓋が閉じられ、火葬場に運ぶとなって車に乗り込んでも、そういやこういうときって同じルート選んじゃいけんのよねやばくねと話しもした。 荼毘に付されている間、のんびりまたお菓子を食べてだらだらしていた。このあとの食事はどうとか話していた大人たちは放っておいた。流石に自分より年下の親戚の子などいなかったし、いたとしてもいい歳なので、私はフリーダムを極めた。火葬場広いな、あれ何度になるんやろとぐらいに脳が終わっていた。 そして、終わりましたと言われたあと納骨のために別室に行くわけだが、何が面白いって。 「お骨がご立派すぎて入り切らないので」 とかいう事案が発生したのだ。確かに箸で掴み取ったとき、信じられん重さだった。骨粗鬆症とは無縁の人過ぎた。あと背丈もあったのだろう。詰め込むという行為に関しては地域性もあるらしいが、係の人も思ったよりも入らんという顔をしていた。係の人が押し込む様子を見つつ、はーじいちゃんやべーと零したものである。 私の純粋な感嘆に祖母でさえ、そうねという雰囲気になったのだから良しとしてほしい。あと、係の人が懇切丁寧に骨の解説をしてくれたのも印象強い。これが所謂喉仏で、とかよくわかるな。医療従事者や警察系の次ぐらいに人体の骨について詳しそうだ。ちなみにめちゃめちゃ綺麗に残っていた。 そんなこんなで孫娘は和気藹々と葬式すら過ごした。だって祖父は八十年と少しを生き抜いたわけなのだから、それを悲しむ必要はないと断じた。というか、もう死ぬ!と言ってから軽く十年ぐらいは積み重ねてきた。だからもう死ぬ。などと言う人間は覚悟したほうがいい、思っていたよりその自らはしぶといのだと。 話も聴けるだけ聴いたし、自尊心が立派にある程度には愛情も頂いた。エピソードがありすぎてまだ全然その姿を思い出せる程度には強い人だ。 なんなら夢に出てきた。生前となんら変わらぬ姿で、祖父母の宅で何も変わらない平和なおやつの時間を過ごすような夢だ。祖父はもしかしたらそんな夢を見ている最中だとすれば、そうだといいとも、私にそんな夢を見せるぐらい心配かけているのか、とも思ったが、私は大丈夫だぜという手紙を書き、燃やしたらぱたりと止まった。どうやら後者だったらしい。あとで祖母に報告したら、心配するのは孫のことなのねえとちょっと拗ねていらした。可愛らしいことで。 その後、遺品整理で出てきたアルバムの中にあった、モノクロの写真を見て、ちょっとだけ笑った。 ぴっしりとスーツで決めた祖父と、おしゃれなワンピース姿の祖母とが手も繋がず、腕も組まずに背景を皇居に写っていたのだ。 銀座にデートに行くとか、じいちゃんもやるじゃねぇかと思ったが、手は繋げないか。流石にな。 その写真は、形見としてもらった。 ある種の理想のカタチだった。 戦争についての書籍を積み上げる私を見て、まるで気狂いを見るかのような目をする皆様方。 私は決してそれが好きなのではないのだ。 私が愛するのは、そういった過酷に苛まれながらも人生大往生してみせたり、何かカタチを残す人の歩んだ轍である。 死が近いがゆえに、簡単な物言いをした祖父。空に逝く人々の残した遺書の言葉。対照的であったけれど、そこには生きたという事実だけがある。 もちろん悲惨なことはない方がいいに決まっている。だからこそ、こうして後世に残すのであるからして、見て見ぬ振りをするのは如何なものかと口にする。 私は、戦争が好きなのではない。 そんな背景を持ちながら、どう生きてきたのかを知るのがいい。 解釈は無限だ。 故に、祖父が行かなくてよかったことを私は、先達に感謝の意を捧げることすれ、罵倒などしない。 一つの国を守るということは、悲しくも、血の一滴からだ。 読み終わった本を閉じる。 悲惨な写真は見慣れた。大概の光景はうわ、と思っても体調に影響が出るほどではない。それでも瞬きを数度繰り返してから、深呼吸を一つする。 記録が残っているだけマシだ、と私は相変わらずぼやく。 人の記憶など、大したものではないのだと、祖父は身を持って証明している。 まだ十年程度なのに、私にたくさんのことを話して聞かせてくれたあの声は、もう思い出せやしないのだから。
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