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今日の隠し味
右手の甲から首あたりまでを火傷した。油跳ね系で、業務中かつ調理進行上の出来事であったから、その場の手拭きで油を拭って先に皿を完成させることを優先した。
後からのんびり水道水で冷やしていると、今日のタッグの同僚が目ざとく見つけてきて、ちゃんと冷したほうがいいと氷まで用意してくれた。その一連でホールがメイン担当の後輩ちゃんにも知られ、兎に角熱源から離された。
とりあえず、用意してもらった氷水が張られた小さめの寸胴に右手を突っ込む。仕事柄慣れているとはいえ、流石に意図して氷水に手を突っ込めば、ツンとした底冷えに背筋がぞわりとし、思わず手を抜き出すも、同僚は容赦なく捕まえて、改めて私の手を寸胴へ突っ込む。もはや拷問だよと言ってやれば、確かに水責めの方が息できるもんねと笑った。そうかもしれんけれども何の話だったろうか。
しばらくすれば、皮膚の上どころか右手全体が冷え切って感覚が薄らいだ。火傷も赤くはなっているが、大したことないように思え、もういいよと配慮への感謝を告げた。火や油を使うものを任せ切りにするわけにもいかないし、当たり前だが料理にも得手不得手が存在する。お互いそこを本来カバーすべきなのに、それ以外もやってもらうなどただの給料泥棒である。
だが、同僚の彼はまだ心配した。別に長く料理に携わっていれば、火傷など日常茶飯事であろうことは、彼とて解っているだろうに。痕とか気にしないけれどと伝えたら、驚いた顔をするからこちらが驚いた。
「気にしたほうがいいですよ」
それは、なぜ?と、恐らく私の顔はありありと語っていたのだろう。彼は苦笑いとともに言葉を続ける。
「せっかく白くて綺麗な肌なのに痕残ったら大変ですよ」
「そういうもの?」
「そういうもの」
よく肌が白いとは言われるが、そこまで言われるのはなかなかない。すでに割れ物やら包丁やらでやらかした過去の傷がうすらと残っている手だ、今更痕が増えたところで変わらないのに。
だが、心配してもらえることは嬉しいと思ってしまうもので、彼の言うことを聞くことにして、大人しく過ごした。幸いにも特別忙しい日ではなかったのもあって、なんなら仕込みに手をつけられる程度には余裕のある日だった。
後片付けをしていると、思い出したかのようにお湯が滲みて、赤みが痛みを主張する。さっきまでの痛みのなさはアドレナリンの類いだったか、と辟易とした。気づいてしまえばもうずっと痛いものだから、常備されている絆創膏の中でも傷をきれいに治すと評判の、お高めのものをチョイスして、右手に貼り付ける。この決して大きくはない手に三枚もだ。跳ねた油というのは怖いものである。まあ今回は油から引き上げようとした品本体が、膨張して小爆発を起こしたようなもので、正直予期などできようもない不運であった。しばらく唐揚げのやつとは絶交だ。
帰宅し、油の臭いの染み付いた身を湯船に投げれば当然に怪我してます!という傷への滲み込みを感じ、右手だけ引き上げる。利き手なのが余計に腹が立つ。何をするにもしばらくこの痛みからは逃れられない。
持ち上げた右手は、湯に浸かったのもあり、ふんわりと外側から赤らんでいた。海老やらの類いに火が通っていくのを思い出す。
手を洗ってなんぼの世界だ、あれをした、手を洗う、これをした、手を洗う、の動きが私には染み付いている。両手だけすっかり乾燥肌で、時折洗剤のせいで爪先が剥けることもあるほどだ。ネイルなどもってのほか、普段から短く整えてやすりをかけている。そこらの女癖の悪い男どもよりも、いつでも優しくできるだろう。
元々、あまり、自分の肌に興味はなかったが、こうして思うと本当に興味がなかったのだ、とまじまじと右手を見ていた。包丁の刃がたまたま当たってしまった爪の欠けた部分を撫でる。温まった証拠の赤みよりも幾分か黒ずんだ赤い痕に、ほんの少し嫌という気持ちが芽生える。
こんなことを考えるのも、同僚くんの一言のおかげである。こうなると気になって気になって仕方がないじゃないか。だけれども我が家に軟膏なんてものはなく、とりあえず傷を塞ぐべきではあるだろうという簡易処置だけした。
たぶん、痕は残ってしまうだろうなと思っている。別に構わないはずだし、すでに残っているものもあるのに、どうしてだか、気になった。
欠けていた爪を整え、髪を乾かし床に着く。
傷ばかりが気になって、明日の予約状況が思い出せずに船を漕いで、やがて意識は落ちた。
目が覚めても、利き手ということもあって傷はすぐ目についた。む、と自覚なしに唸る。手の甲から首にかけてというのも悪い位置だ。どうしたって見てしまう。かといって包帯を巻いておけるような業務ではないと、絆創膏を張り替えて出勤する。
本来ならば怪我をして、体液が出るような時点で包丁を扱うべきではないし、もっと格式の高いところならば厨房から叩き出されるか、もしくは皿洗いかに投げられるのだろう。幸いにも当店は、ほどほど、と言ったところかつ、人手不足で厨房にはどうあがいても入れられてしまう。
どうせすぐ中まで濡れて使い物にならなくなるだろうが、右手にゴム手袋を嵌めた。こうすると傷は見えないが、自分が手を怪我していると周知しているのと同じである。
恥だ。
とはいえ誰もが経験するもの、誰も文句は言えない。ただ、私が情けない気持ちになるだけである。
思い出せなかった予約状況は、店としては嬉しい悲鳴、一従業員としては最悪の状況だ。夜はフルコースの予約が詰まっているし、昼は昼として大人数の予約が入っていた。ランチの時点で普段の量+予約分に、夜に向けての仕込みとくれば、黙々と下ごしらえをしていくしかない。
幸いにもランチは比較的良心的価格でやっているものだから、パートのみなさんでも十分問題なく調理が可能だ。最初の数皿だけ説明も兼ねて調理して見せて、大部分は引き受けてもらう。
今日は出勤である料理長にももちろん見られたわけだが、怪我したのかあ、ちゃんと手当したかあとおじさま特有ののんびりしつつも小娘を心配する文言を挟みつつ、仕事は仕事と割り切っている様子である。そう、仕事なのだ。
根が真面目であるがゆえに、家では仕事やだやだなどと宣うが、こうして出勤してしまえばスイッチが入るというもの。怪我のことなど忘れ、ひたすらに食材をカットし、水にさらし、必要があれば下味をつけて寝かせ、スープの出汁もさっさと取っておく。ここまでやれば、火傷なんて忘れる程度の熱気が厨房には張り付いて剥がれないのだ。
だから今更火傷なんて、やっぱいいよ。
でもそう言ったら、同僚くんや後輩ちゃんは眉をひそめるんだろうな。
そんな大事にしてもらえるありがたみであたたまる心が、今日の隠し味。
いらっしゃいませ。
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