春蝉

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これは僕が中学生の頃体験したことである。 あれは…2年生の春休みのことだ。 まだ春だというのに不思議と暑い日だった。 アスファルトには太陽の光が集められ、嫌になるほどに僕の体を温めた。 こちらを見つめる入道雲は季節外れということに後ろめたさを持っているように、静かに通り過ぎていく。 当時受験生になるんだ、と意気込んでいた僕にはそれらすべてが邪魔者に見えた。 リュックサックに教科書とワークを突っ込み自転車を駆る。 最近買ってもらった新品の自転車だ。 太陽が緑の車体を照らす。 だが、照らしてしまったことを謝るかのように、その輝きはすぐに消え去った。 橋を突き進み、目指す先は図書館。 新品の自転車。そこそこのルックス。いちいち五月蝿い母親。関心のない父親。 それがその頃の僕の全てであった。 しばらく長い橋を渡る。人気があまりないのでスピードは緩めなくてもあまり問題はなかった。 だが。 「…わっ!ごめんなさい」 自転車がなにかにぶつかった。 みるとそこには一人の女性が座り込んでいる。 どうやら僕は彼女の体にぶつかってしまったようだ。 今考えるととても大変なことをしてしまったように思う。 その頃の僕はどうして冷静でいられたのだろう。 橋のど真ん中ではあったが自転車を降りその場に放置。 そして彼女のもとへ駆け寄る、だなんて今の僕にはもうできない。 「ごめんなさい、大丈夫ですか?」 彼女は顔を伏せている。体育座りをした膝に長い髪の毛がかかっていた。 「どこか痛いんですか?」 彼女は少しだけ顔を上げたが何も言わなかった。 髪の毛がずれ、透き通った黒色の目玉がこちらを見ている。 ゆっくりと瞬きをし、長いまつげが目の下に影をつくった。 彼女はしばらく僕のことを見つめていたがまた伏せてしまう。 「大丈夫…ってことでいいんですか?」 と、不思議なことが起こった。 彼女が肩を揺らし「声」を上げたのだ。 何かと何かを擦り合わせたかのような高い音。 不快になることはないが、少しだけ気味が悪かった。 彼女は肩を震わせたままゆらりと腰を上げた。 長い黒髪が振り払われ、黒い瞳がこちらを覗いた。 (…っ……なんて綺麗な…) 高い音を鳴らし続けたまま、僕のことをじっと見ている。 透き通った瞳はありえないほどに美麗で、この世のものとは思えなかった。 彼女は肩を震わせるのをやめた。 次の瞬間、僕は目を見張った。 彼女は千鳥足で柱にもたれかかり、そしてそのまま躊躇なく橋から身を投げだしたのだ。 するすると面白いほどに髪の毛が宙を舞っていく。 「なんでっ!?」 僕は柱から手を離さないように下側を見つめた。 橋の下は海。彼女はまだ死んでないはずだ。 だがその先には彼女の姿は見当たらない。 「チーー」  「っ!?痛い痛いっ!!!」 覗いていた海から一匹の蝉が飛び出してきた。 そいつは僕の顔に止まり、これぞとばかりに暴れ始める。 「チーチー」 僕は手で精一杯追い払う。すぐに顔から離れ、足元ににぼとりと転がった。 「なんなんだよ…ほんと」 僕はその場にしゃがみ込み、蝉を見つめる。 ピクッと一度だけ痙攣を起こす。 だがもう動く気配はなかった。 指で触る気にはなれず、なにかつつけるものがないかと振り返る。 近くにあった小枝があったのでそれでつついた。 が、びくともしなかった。 「死んだのかなぁ…」 僕は小枝をその場に投げ捨てると、少しだけ遠くになってしまった自転車の方へ向かった。 自転車にまたがり勢いよくペダルを漕ぐ。 …バリッバリバリバリバリ。 さっきの蝉を引いてしまった。まぁいいかどうせ死んでいるようなものだったし。 目指すは図書館だ。 少しだけ顔を隠した太陽のおかげか、吹いてくる風が涼しかった。 春の訪れを静かに僕に告げていた。 これが僕が体験したことである。 その後、あの女性がどうなったかは今もわからない。
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