八章

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振り向けなかった。 そこに何もないことなんて、この数年の間に数えきれないほどあったから。 そして振り返った先に何も見つけられず、絶望に打ちひしがれることの繰り返し。 でも香りはどんどん強くなって。 ついにはあの時と同じように後ろから抱き上げられた。 あの時の夢を見ているのだろうか。 体が震えてどうしようもない。 両手で掴んだ星の飾りは、体が動かなくて、もみの木には付けられない。 彼に抱き上げられて、もみの木のてっぺんに星をつけてしまったら、それはあの時と全くの同じ状況。 そのあと泣きながらユノは目を覚ますのだ。 幾度も見た幸せで悲しい夢。 だからユノは星を付けられずにいた。 「一番上に付けるんじゃないのか?」 聞こえた声は、数えきれないほどに記憶でなぞり続けてきたそれだった。 でも記憶と違う台詞。 ただただ星を掴んだまま震えるユノはそっと地面に下ろされた。 「な……な……んで……」 振り返ることが出来ずにそのまま尋ねる。 凍てつく空気の中突然現れた彼に抱き上げられて、もみの木に星を付けた思い出は、あまりに美しすぎる記憶だった。 「こっちを向いてくれないのか?」 低く甘い声は幾度も夢で聞いたそれよりも甘く。 それでも向けるはずがない。 ユノはそんなことはできないとふるふると頭を振った。 「お願いだ。ユノ、君の顔が見たい……っ」 思えば彼にこんな風に頼まれたとき、ユノは断れたことなんて、ないのだ。 ユノは震えながらゆっくりと振り返った。 「ユノ……っ」 変わらないプラチナの艷やかな髪。 青い瞳。 でも背はもっと伸びていたし、すっかり精悍な大人の顔になっていた。 愛おしさで、胸が苦しい。 こんなにも会いたかった。 キリヤの指がゆっくりとユノに向かって伸ばされる。 でも、ユノは。 「だめ……っ……だって、俺は……俺は……っ」 ユノはキリヤの手から逃げるように後退った。 「言わなくていい……っ全部、全部知っているんだ」 キリヤの言葉にユノの動きはぴたりと止まり、驚きで目を見開く。 「全部……知ってるって……どういうこと……」 頭が混乱しておかしくなりそうだった。 「全部知っている。君が『黒い魔法』を使ってしまったこと……それが、僕を守るためだったことも」 「な……どうして……」 ユノは激しく動揺した。 「これだよ。これが君のことを全部知っていたんだ」 キリヤは言ってコートのポケットからあるものを取り出した。 「これは……っ」 キリヤが取り出したのは彼の青い魔法石の付いた懐かしい懐かしい指輪だった。 「最初のうちは、ユノの『忘却の魔法』がしっかり掛かっていたせいで、全く君のことを思い出せなかったんだ。ただ、部屋に僕の指輪とお揃いの、サイズの違う指輪があることが不思議でたまらなかった。そして、この指輪を持っているとすごく気持ちが癒やされることに気がついたんだ。だから、僕はこの指輪をネックレスに付けて、常に身に着けるようになった」 キリヤの言葉をユノは固唾を呑んで聞いていた。 「そうすると、指輪が少しずつ君の記憶を僕に流し込んでくるように伝えてくるんだ。この魔法石が見てきた記憶だから、僕の知らないことまでよく見えた」 そう言って、彼は震える手をユノに伸ばし、今度こそユノの涙で濡れた頬に触れた。 「小さい君がどんなに苦労したのかも、学園に入って血の滲むような努力をしたことも……そして、僕を守るために禁じられた魔法を使ったことも……っ」 キリヤの美しい青い瞳に張っていた涙の膜も堪えきれなくなって雫となり、彼の頬を伝った。 「……っ『忘却の魔法』なんて使って、ごめんなさい……っ」 ユノは勝手に彼の記憶を奪ったことをキリヤに謝った。 「謝らないで。君が僕を守ってくれたことにも気付けない僕は君に相応しくなかった……」 キリヤはそう言って首を振ったあと、続けた。 「でも僕はそれでもどうしても君のことが諦められないんだ……っ好きだ……ユノ……っ」 凍える空気の中で、ユノは彼の腕にとうとう捕まってしまった。 きつく抱きしめられて、どれほど彼に飢えていたかを思い知らされた。 彼の香り、温度。 ユノもまだ、少しも変わることなく彼を愛しているのだと強く強く思い知らされる。 そして、キリヤの手が手袋で隠されたユノの左手に伸びた。 「……っそれは……」 ユノの手袋を外そうとするキリヤ。 「お願い。見せて……」 彼はユノに囁くとするり、と手袋を外した。 誰一人にも見せたことのない、ユノの罪の証。 肘から指にかけて、ぐるりとユノの手に絡みつく茨の蔓。 ユノにはひどく醜く見えるそれなのに。 キリヤはその『悪魔の痣』と呼ばれる左手のそれに、永遠の愛を誓うように、それはそれは愛を込めて口付けたのだ。 「……っ汚いからっ」 思わず言うと、キリヤはもう一度うっとりとした様子で唇を落としたあと、言った。 「汚いなんてとんでもない……っ」 そして、キリヤはユノの左の薬指にもう一度、彼の青い指輪を嵌めたのだ。 指輪が嵌った光景を見て、ユノもキリヤも固まった。 なぜならば、それはとても…… 「……綺麗だ……」 そう、彼の青い魔法石の付いた指輪を嵌めると、まるで茨の蔓に美しい青い花が咲いたようにユノの左手は美しくなった。 ユノは信じられない思いで指輪を見た。 あの醜くて仕方なかった紋様が、こんなにも綺麗に見えるなんて。 「この指輪をまた付けてはくれないだろうか。君をどうしようもなく、愛しているんだ……っ」 魂の叫びのような声だった。 絶対にここに会いに来る あの日ここで誓った約束を違えないでくれたキリヤ。 離れてもずっとずっと愛していた。 他の誰にも代えられない。 「……キリヤ……俺も愛してる……っ……キリヤと一緒にいたい……っ一緒にいられるように頑張りたい……っ」 「ユノっ……愛してる……っ」 ユノの心からの叫びに、キリヤは息もできないくらいきつく抱きしめた。 いつも二人の未来は諦めてばかりだったユノが、二人でいる未来をようやく思い描くことができた瞬間だった。 そして二人の始まりのこの場所で、永遠の愛を誓うように二人の唇が重なった。 玄関のランタンの中から火の精が、優しく揺れながら二人を祝福していた。 終わり
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