恋愛詐称

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 そのブローチは、真珠の丸い粒で円を描いた物だった。どう見てもプラスチックの安物で雑貨屋さんで買ったような軽さ。私はキタミがアクセサリー入れに使ってる、お菓子の缶に自分のイヤリングを片方だけ忍ばせた。マキちゃんのアドバイスによると片方だけのイヤリングはカウンターパンチ並みに効くらしい。 何でも300円で買えるスリコでキタミに買って貰った雫型のジルコニアの透明な石がついたイヤリング。片方だけイヤリングを入れてお菓子の缶の蓋を閉じた。キタミが煙草を切らしてコンビニに出掛けている隙に、そっと。 コンビニから帰ってきたキタミは、煙草の他に限定デザートの桜ミルフィーユを買って来た。 「一緒に食べよう」 熱いホットコーヒーも2つ。 「ありがとう、おやつだ。嬉しい」 何でもないのに愛しいいつもの二人の日常。あの缶にイヤリングを入れても何も起こらない。じゃらじゃらとシルバーアクセサリーを身につけるキタミが、ある日眠そうに呟くだけ。 「ミナミ。忘れてるよ、イヤリング」 そう、きっとそうだ。私とキタミはこのミルフィーユみたいに一枚ずつ交互に重なり合って絶対に離れない。信じたい気持ちが半分、信じられない気持ちが半分。  だってあの針が取れた真珠の円のブローチ…。あれもたぶんスリコだよね?キタミがコンビニに出掛けてる間にブローチの写真を撮って、捨て垢でSNSに上げて、それを画像検索した。私のイヤリングと同じスリコ。まだ通販サイトに在庫がある。つまり、最近発売された商品。最近買ったブローチがキタミのアパートのクローゼットの中のアクセサリー入れにある。  アクセサリーを外さなきゃいけない事情が女性にあって、うっかり置き忘れる。しかもブローチの針が取れた状態で。  当たり前のように私を抱き寄せるキタミの腕を振り払いたくなる。でも、そうする事が怖いから思いつきで小さな嘘をついた。 「もう別れようか?」 突然の別れの言葉にキタミは激しく動揺した。 「なんで?俺のこと嫌いになった?」 出任せの嘘をどうやって繋ぐか必死で考えた。キタミが私の事を本気で思ってるか試す質問…。一か八かの賭けに出る。 「ママとパパにバレた」 冷静を装って静かに話す。 「バレたってそんな言い方するなよ。真面目に結婚前提に付き合ってるから挨拶に行く」 真剣なキタミの眼差し。嘘が滲んでいないか、逃げようとしていないか。疑う気持ちで心は鈍色に染まっていく。私が伏し目がちで戸惑っているとキタミは続ける。 「いつがいい?ご両親への挨拶。18日と19日は俺は休み。予定聞いてくれないかな?」 具体的に日時を詰めようとしている。来週の週末に挨拶に来ようとしてる。 「18日と19日で聞いてみる、本当に来てくれる?」 「うん、お嬢さんをくださいって。スーツをしばらく着てないからクリーニングに出して」 「キタミのスーツ姿見たい。来週楽しみだね」 全部本当かもしれない。全部嘘かもしれない。私の心のセンサーがこれが最後のキスとハグになると告げていた。キタミはたぶん逃げる。それでも、愛し合う事を止められなかった。最後のぬくもりを刻みつけるように。愛の輪郭をなぞり核心にある炎を手掴みで貪り食うように。 「ミナミとキタミって南と北で磁石みたいだよな?」 出会った日に路上ライブでセッションした後、キタミが言った言葉が浮かぶ。でも、私はキタミの本名も仕事も友達も知らない。YouTubeにキタミとして歌とギターを上げている事以外は何一つ知らない。 それでも一つだけ新しく知った事がある。終わる前の愛は狂おしい程激しく美しい。終わるからこそ美しいと言い聞かせる。ギターの弦を爪弾くように、キタミの背中に軽く爪を立てる。 男が堕ちる声を生まれて始めて聞いた。囁きより高く、歌声より低く、ギターの開放弦のミラレソシミのレの半音下。さっき食べた桜ミルフィーユより甘い吐息は、狭いこの部屋にすずらんを咲かせたように白く、短く、震えるように途切れ途切れに小さく花開いては寒さで儚く消えていく。 「18日か19日、お父さんとお母さんの都合聞いて教えて、なるはやで」 キタミは緊張した面持ちでアパートから帰る私を見送った。嘘が透けて見えるのにどうして怒れないんだろう。 「うん、わかった。パパとママもきっとわかってくれるよ」 親にバレたなんてつまらない嘘はつかなきゃ良かった。でも、もう遅い。いつもはアパートの外階段を降りて振り返って手を振るキタミなのに、今日は私が部屋を立ち去るとすぐドアの鍵を閉める音が聞こえる。愛が終わる音は冷ややか。ギロチンの刃で首を斬られた私の死体が転がって恨めしそうにもう一人の私を見ている。  18日になっても19日になってもキタミと連絡が取れない。LINEもSNSも音信不通。歌やギターを上げていたYouTubeの更新もない。月が変わって4月下旬になってから私はキタミのアパートに行ってみた。ドアノブに水道休止のお知らせがぶら下がり、ドアポストはうす緑色の養生テープで塞がれていた。念のために電気のメーターボックスを確認する。ピクリとも動かない電気のメーターは、コインを投入されるのを待っているジュークボックス。潰れた古いバーに忘れられた、一枚のレコードのように、電気メーターの円盤は静止している。 二度と奏でられない二人の音楽。 二度と触れない指先と唇と肩。 サヨナラも言えなかった。 年齢詐称して恋愛詐称までするクズ男。 大嫌い、「何が秘密だよ?」だ。 片方だけ残った雫型のスリコのイヤリングを、アパートの外廊下から砂利の駐車場に向かって投げ捨てる。 300円で好きになるなんて安いな、私。 違う、300円のアクセサリーがハイブランドに思える程きらめいた恋だった。 「さよなら、恋愛詐称のキタミ」 届かないサヨナラを呟いて、私はギターケースを担ぎ直した。こんな日は路上ライブをしよう。ギターを弾いて歌えば寂しくなんかない。自転車を全速力で漕いで駅前通路に向かう。涙は下り坂の向かい風が吹き飛ばしてくれた。足を大きく広げて漫画みたいに下り坂のスピードに乗る。今の私の恋人は背中に担いだギターだけ。行くぞ、相棒。駅前通路に着くのを待ちきれずに、私は自転車を漕ぎながら歌い始めた。 曲はヨルシカの「だから僕は音楽を辞めた」、私は音楽を辞めない。この悲しみが癒えるまで歌い続ける。 (了)
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