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ウォルター編 1
どこまでも青く澄んだ空の下。
教会の鐘の音が辺りに鳴り響くと同時に、真っ白い鳩が数羽、優雅に飛び去っていく。
次いで聞こえた歓声を避けるように、ウォルターはフードを目深に被ると、足早にその場を去った。
今頃、式を終えたジュディは、来場者たちの祝福を受けていることだろう。
美しい花の刺繍が施された純白のウエディングドレスに身を纏い、新郎となったばかりの男の横に立って、挨拶を返すジュディを想像して、胸が痛くなる。
――本当ならば、ジュディと共に祝福を受けていたのは、俺だったはずなのに……。
そんな思いが胸に渦巻き、拳を固く握りしめた。
幼い頃から憧れていたジュディと晴れて恋仲になり、婚約を果たしたウォルター。ジュディの父であるフォレット男爵も二人の仲を認め、領内にある小さな教会で結婚式を挙げることになっていた。
夫婦になる日を指折り数えながら、新居の購入やや家財道具の選定、そして結婚式当日にジュディが着るウェディングドレスのデザインを一緒に考えていた矢先。
あの男が現れたのだ。
ザカリー・キャンプス。
西部最大の商会を営む商人。彼にはさまざまな噂が渦巻いていた。
ウォルターも同じ商人という立場から、ザカリーに関する話題を小耳に挟んだことがある。
決していい内容ではない。
目的のためなら、手段を選ばない男。
気分屋で癇癪持ち。虫の居所が悪かったというだけで、罪もない従業員をいとも簡単に解雇する。
反社会的な立場の人間と結託し、商売敵を潰したことは数知れず……。
そんな悪評が、実しやかに囁かれていたのだ。
これらの話を聞いたウォルターだが、真偽の程が定かではないため、半ば話半分で聞いていた。
たしかにザカリーは、人柄がいいとは言い難い人物のようだ。
しかし脚光を浴びるような有名な人物はやっかみに遭ったり、事実無根の誹謗中傷を受けやすいということも、彼は知っていた。
だからザカリーの噂を聞いても、聞き流すことしかしなかった。
それがまさか、ザカリーの非道なやり口を、身をもって体験することになろうとは……。
ウォルター自身、想像すらもしていなかったのである。
ザカリーは、商会をもっと大きなものにしようと目論見、ウォルターの最愛の人であるジュディに目をつけた。
“中央で政治の中枢にいる大貴族の傍流にあたる”
“けれど本人はそれほど権力を持っておらず、吹けば飛ぶような弱小貴族”
この条件に運悪く当てはまったのが、フォレット男爵家だったのだ。
ありとあらゆる手段を用いて、男爵家とフォレット領に圧力をかけたザカリーは、彼が望んだとおりの結果を手にすることができた。
ジュディはウォルターとの決別を選び、そしてほかの男の元へと嫁いだ。
結婚式の数日前。
フォレット男爵は溢れ出る涙を拭うこともせず、ウォルターに謝罪した。
『私にもっと力があったら、こんな理不尽なことは起こらなかった。あの男の圧力を跳ね除けられなかったせいで、君とジュディは……』
『男爵さま。ご自身を責めないでください。悪いのは全て、あの男なんですから』
慰めの言葉をかけたウォルターだが、男爵と同じことをウォルター自身も考えていた。
もしも自分が、ザカリーに対抗しうるような大商人だったら、絶対にジュディを奪わせない。
ジュディや男爵家、フォレット領に二度と手出しできないよう圧力をかける。
ザカリーの野望を潰した後は、兼ねてから決まっていた結婚を果たし、生涯かけてジュディを愛し、守り抜くのだ。
頭の中に、輝かしい未来が広がっていく。
しかし現実のウォルターに、そんな力などなかった。
ザカリーは目的を果たしたし、ジュディはただ今を持って“フォレット”から“キャンプス”に姓が変わったのである。
鳴り響く教会の鐘の音を遮るように、ウォルターはフードを深く被り直して、馬車の乗り場へと向かった。
そこには一台の馬車が止まっていた。
「これは、どこへ向かう馬車だ?」
ウォルターがそう言うと馭者は「南部だ」と言った。
フォレットへ戻るならば、この馬車に乗ってはいけない。
いけないのだが……。
ウォルターは暫し考えた後、「乗せてくれ」と馭者に言った。
フォレットに戻ろうと思えなかった。
ジュディの愛した領地に、自分一人が戻ってなんになろう。
フォレットのどこを探しても、彼女はいない。
しかし領地のあちこちに、彼女の痕跡が残っている。二人で過ごし、愛を育んだ痕跡だけが……。
今のウォルターにとって、これほどつらい場所はない。領民たちから向けられる、痛ましげな視線も苦痛でしかなかった。
だから彼は、フォレットに戻らないことを選択した。
どこか知らない土地で、ジュディを想いながら生きていこう。
そして。
――キャンプスの悪事を暴いて、ジュディを助け出す。
あの男を、俺たちと同じ目に遭わせてやる……ウォルターはそう決意した。
けれど、今の自分では正面から挑んだところで、勝ち目はない。職を失い明日をも知れぬ身である自分と、金と権力を持った悪人。どちらに軍配が上がるかなんて、考えなくてもわかること。
だからウォルターは、ザカリーの弱点を掴み、逃げられないよう少しずつ絡め取りながら、外堀を埋めようと考えた。
以前噂で聞いた話。それは恐らく、真実なのだろう。つまりそれは、あの男に煮え湯を飲まされた被害者が存在するということ。
その人たちを探し出し、ザカリーが行った悪事を聞き取って裏取りを行い、証拠が揃い次第警察に訴えるのだ。
全ては秘密裏に行わなければならない。狡猾な男のことだ。こちらの動きを察知されれば、あっという間に手を封じられるだろう。以前、商家の職を奪ったときと同じように。
事は慎重に。しかし早急に。
キャンプスという牢獄で苦しんでいるジュディを、一日も早く助け出す。
――待っていてくれ。再び会えるその日まで、どうか無事で……俺の、お姫さま。
固い決意を胸にしたウォルターを乗せた馬車は、ガタゴトと音を立てて南部へと向かっていく。
その上空を、雁の群れが消えていった。
**********
南部に着いたウォルターは、荷役労働者の仕事に就いた。一日十時間、波止場で大量の荷物を運び続けるという、過酷な仕事である。そのわりに賃金が非常に安く、貯金など夢のまた夢と言ったところなのだが、年齢や学歴、職歴はもちろん、出自や経験、犯罪の有無なども一切不問。誰でもできる仕事ということで、従事する人間が多数いるのだ。
ウォルターの経歴を考えれば、商家で仕事をすることも可能だった。しかし、敢えてそれはしなかった。
商家の仕事はポーターをするより遙かに賃金がよいものの、休みは週に一度程度。こんな状態で、ザカリーの悪行をはたしてどこまで調べられるか、不安だったのだ。
対してポーターはというと、働きたいときは波止場にいる斡旋業者に申し込めば、その日募集している日雇いの仕事を紹介してもらえる。
好きなときに稼ぎ、残りの時間は自由に過ごす。
今のウォルターには、これがちょうどよかった。
さらにもう一つ、ウォルターにとって最大の利点がある。
それは前述のとおり、ポーターが“誰でもできる仕事”ということだ。
ウォルターの経験上、ザカリーは邪魔者と見做した者を容赦なく排除する傾向にある。中にはかつての自分のように、職を追われ再就職を果たしたくともザカリーが手を回したせいで、どこにも雇ってもらえず路頭に迷う者もいるだろう。
そういった者たちが糊口を凌ぐのに、ポーターという職はちょうどいい。
もしかしたらポーターの中に、ザカリーの被害者がいるかもしれない……ウォルターはそうも考えた。何百人といるポーターの中から、被害者を見つけるのは骨の折れることだろう。それでもウォルターに、やらないという選択肢はなかった。
どんなに小さな可能性も捨てたくはない。
ジュディを救うためなら、どんな努力も惜しみたくはなかったのだ。
ここで仕事を始めて早一ヶ月。仕事に調査にと、毎日がめまぐるしく過ぎていく。
クタクタに疲れた状態で安宿に向かい、簡単な食事を済ませてから、ジュディに宛てて手紙を書く。これがウォルターの日課となっていた。
いかがお過ごしですか――元気にやってると信じてます――ジュディを想いながら、一文字一文字に心を込めて書き綴る。
さすがにウォルター・マクレガンの名前では出すのは躊躇われたので、宿の女将の名を無断で拝借させてもらった。
ジュディから返事が来ることはない。ザカリーに見つかったときのことを考えて、宿の住所も書かずに送っているのだから。
――それでも、彼女がこの手紙を読んでくれるだけでいい。
手紙を送る行為が、今のウォルターとジュディを繋ぐたった一つの縁縁に思えて、書かずにはいられなかったのだった。
その日もウォルターは、波止場で荷役の仕事に従事していた。
顔見知りのポーターたちに挨拶をし、なんてことない世間話をした後、仕事に取りかかる。
この暮らしにも、すっかり慣れてきたな、と内心独りごちる。
――そろそろ本格的に、ザカリーの被害者捜しを始めるか。
そんなことを考えていたとき。
「泥棒っ!!」
大きな声が波止場に響いた。見ると、上等の鞄を抱えた男が、一目散に駆けている。その後ろには、パリッとした服を着た、年若い男の姿。
「誰か、あの男を捕まえて!!」
年若い男が叫ぶ。どうやら荷物をひったくられたらしい。
かっぱらいはポーターたちの間をすり抜け、ウォルターのほうへと近づいて来た。
彼は咄嗟に荷物を放り投げると、向かってきたかっぱらいに向かって体当たりした。
「ぐふっ……!」
突然の行動に避けることができなかったようで、ウォルターの体当たりをまともに食らったかっぱらいは、情けない声を出してその場に倒れ込んだ。
近くにいたポーターたちが、かっぱらいに縄を打ったり警官を呼んだりと、辺りは俄に騒然となった。
かっぱらいの手から離れた鞄を拾い上げ、表面についた土を払っていると、ようやく年若い青年が到着した。
「あっ、ありがと……ございま……」
全速力で走ったのだろう。やや明るめの茶色い髪が、かなり乱れている。ゼェハァと荒い息を吐いているせいで、お礼の言葉もままならないようだ。
「礼はいらない。それよりこれを」
そう言って鞄を差し出すと、男はパッと顔を上げて素直に受け取ろうとして……ピタリと動きを止めた。
「もしかして、ウォルターさん、ですか?」
見知らぬ相手に名を言い当てられ、ウォルターの全身に緊張が走った。
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