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京都の師走の喧騒から少し離れた、静かな路地の片隅に佇む長屋街の奥から3番目。
古ぼけた表札に「棗」と書かれた家では、結婚1年を迎えたばかりの藤次と絢音が、大掃除に精を出していた。
「…言うても、絢音が普段から細々と掃除しとってくれるから、そんな大袈裟な掃除はいらんな。強いて言うなら、家具の裏くらいか?」
「そうねぇ、気になると言ったら、そのくらいかしら。換気扇とかエアコンは、藤次さんが業者さん呼んでくれたし…高いのに…」
「ええんや。お前の綺麗な手、皸や切り傷でボロボロにしたないし、まあ…やって来よった若い業者が、絢音に色目使ってきたんは、計算外やったけど…」
人の女房にええ度胸やと、ゆらりと嫉妬の炎を燃やす藤次に苦笑いを浮かべながら、絢音は居間の茶箪笥を見る。
「掃除ついでに、模様替えとかもしてみたいけど、2人でこの茶箪笥…持てるかな?」
「大丈夫やろ。中身そんなないし。せーのでやってみよ?」
「うん。」
言って、2人でせーのと持ち上げた瞬間だった。
藤次の腰が、鈍い音を立てたのは…
「いっっっ!!!!?」
「藤次さん?!」
短い悲鳴をあげ、ばたりとその場に倒れ込んだ藤次に、絢音は慌てて駆け寄る。
「やだ!!どうしたの?!!」
「分からん…せやけど、なんか腰が…めちゃくちゃ痛くて…動けん…」
「ええっ!!!!」
とにかく、タクシーか救急車!と、パタパタとスマホを取りに行く絢音を見やりながら、藤次はひとりごちる。
「歳は…取りとうないのぅ…」
*
「ギックリ腰?!」
花藤病院の時間外診療。
応対に出たのが幸運にも外科医だったので、診断名を告げられ瞬く絢音に、若い白衣姿の男は続ける。
「取り敢えず、痛み止めと湿布は出しますが、早めに整形外科を受診して、適切な処置を行って下さい。年齢も年齢ですから、慢性化してしまう可能性もありますし…」
「分かりました。ありがとうございます…」
「先生…仕事は、したらあきまへんか?」
診察台の上でぐったりしている藤次に、医師は首を少し捻って思案する。
「どのような内容ですか?」
「デスクワークの他に、長時間の立ち仕事や歩きまわったり…まあ、営業マンみたいなもんです。」
「ふむ…」
暫時の沈黙の後、医師は口を開く。
「取り敢えず、診断書書きますので、1週間は安静にして下さい。腰痛コルセットと言う手もありますが、年齢も年齢ですし、矢張り無茶はお勧めできませんね。」
「分かりました。ほんなら診断書、早めにお願いします。年末やから、色々スケジュール調整ありますので…」
「分かりました。直ぐにご用意しますので、お待ちください。」
「ハイ。」
*
「…ええはい。まったく、僕の不徳の致すところで、申し訳ありません。明日、内方に診断書持たせて地検にやりますので、ご迷惑お掛けしますが、休暇手続き、よろしくお願いします。部長…」
病院から帰宅するなり、藤次は上司の葵に電話をして、居間に敷かれた来客用の布団に身を沈める。
「と言うわけや。明日、地検に診断書持って、行ってくれるか?棗の家内で、徳山事務官に取り次いで下さいと受付に言えば、部長に話行くように段取りしたから…」
「分かった。徳山事務官ね。任せて。」
「うん…」
「少し、寝たら?残業続きなのに、無理して家の事手伝ってくれたから、神様が休めって仰ってるのよ。でも、仕事も邪魔しちゃったし、お詫びにお夕飯…あなたの好物の唐揚げにするわね。」
「邪魔やなんて思わんでええ。ワシの不注意や。幸い仕事も余裕持ってスケジュール組んどったから、そない周りに負担もかけん。せやから、そないな顔も、せんでええんやで?」
「でも…」
今にも泣きそうな顔をする絢音に、藤次は優しく笑いかける。
「ほんなら、唐揚げの他にもう一個、お願い…聞いてくれるか?」
「うん!なに?かきたま汁?それとも筑前煮?豆腐ハンバーグだって良いわよ?」
「違う…して欲しいんは、これ…」
「?」
言って、藤次は絢音の正座で畳まれた、柔らかな太腿に頭を乗せる。
「と、藤次さん?」
「膝枕…しばらく、こうさせて。ほんで、後でええから、耳かきもして…お願いや…」
「…………困るわ。お買い物、行けないじゃない。」
「行かんでええ。唐揚げも…今日はいらん。店屋物取り。ワシを独りにするんは、ナシや。」
そう言って腰に手を回して縋り付く藤次に、絢音は小さく微笑み、大腿の上に乗った頭を優しく撫でる。
「1週間なら、直ぐにそのまま冬休みね。長いお休み…あなたには悪いけど、あたしもちょっとだけ、嬉しい。料理教室で習ったお節も、作らないとね。」
「せやったら、黒豆。あれ、試食したらめっちゃ美味かった。もうちょい高い…丹波産の使うてええから、ぎょうさん作って?」
「いやあね。よりにもよって一番手がかかる料理のリクエスト?…じゃあ、耳かきは無しね。」
「嫌や。膝枕も耳かきも黒豆も唐揚げも、ワシの側離れるのも、全部譲らん。ワシを病院送りにしたんや。責任取り。御託も言い訳も、聞く耳持たん。」
そう言ってプイッと、下腹部側に顔を向けて、耳を手で塞いで拗ねた素振りをするので、絢音は盛大にため息をつく。
「もう。とんだ甘えん坊さん。仕方ない人…分かったわ。責任とるから、トイレくらい行かせて?巽屋さんに店屋物の電話もしなきゃいけないし…何にするの?キツネうどん?カツ丼?天丼?」
「カツ丼…あと、食べさせて。」
「ハイハイ。もう、とことん付き合ってあげる。だから、トイレ行かせて。」
「ん…」
頷き、ようやく頭を退けたので、絢音はホッと胸を撫で下ろし、トイレへと向かう。
「綿棒…忘れずに持って来てや。」
「ハイハイ。」
ため息一つついて、こんな事なら模様替えなんて言わなきゃ良かったと、絢音は心の中でごちながらも、自分に甘えてくる藤次を可愛いと思いながら、トイレへと向かった。
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