村瀬 寿

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村瀬 寿

 白壁に橙色と茶色の煉瓦が可愛らしい建物。木戸へと続くポーチにはオリーブの樹とユーカリが揺れ、足元ではラベンダーの花が芳しく迎えてくれる。 (いつ来ても可愛いなぁ、こんなお家が良かったのに)  ここは洋菓子とイタリア料理専門店、tout le monde chouchou、通称シュシュ。一歩店内に足を踏み入れると甘い砂糖とバニラビーンズの香りが身体を包みこむ。 「うわぁ、良い匂い。美味しそう」  シュシュの一番のお勧めは季節の果物をさっぱりとした生クリームで包み、ふわふわのスポンジ生地で巻いたロールケーキだ。 (洸平さん、このロールケーキ、好きなんだよなぁ)  けれど今はそんな気分にはなれない。賞味期限が明日までのロールケーキのように、夏帆の愛情も賞味期限切れ間近だ。 (えーと、寿さんは)  洋菓子コーナーの奥にはイタリア料理が手軽に楽しめるテーブル席がある。そこは仄かなランプの灯りが揺らめく落ち着いた雰囲気だった。 「おっそーーーい!ここよ!ここ!」  その全てを台無しにしてしまう底抜けに明るく快活な声の持ち主が村瀬 寿(むらせことぶき)その人だ。思わず人差し指を立ててシーーーー!と言ってしまった。 「あ、ごめん、ごめん」 「寿さん、相変わらず元気ですね」 「そーゆー夏帆は新婚の割にくっらい顔してるわねぇ」 「そっ、そうですか?」  鋭い、なかなか鋭いところを突いて来る。村瀬寿の勘の良さには定評がある。 「今日はお忙しい中、ありがとうございます」 「あぁ、そんな堅苦しいのはなし、なし!」 「は、はい」 「いらっしゃいませ」  水滴の付いたグラスにはクラッシュアイスとレモンの輪切りが浮かんでいた。 「えっと」  メニューを開こうとすると、村瀬寿は夏帆の鼻先で人差し指を立ててちっちっちっと横に振って見せた。 「ど、どうしたんですか」 「悩める者には(ほどこ)しを授けよう」 「授ける?」 「今夜は奢るわ。もうキャンセルは効かないわよ、コース料理を頼んだから」 「え、そんな悪いです」  夏帆は両手を左右にパタパタさせて断ろうとしたがそんな事はお構いなしに村瀬寿は話し始めた。 「で、どうしたの?」 「どうしたのって」 「新妻が旦那の夕食を作らないで此処にいるなんておかしいじゃない」 「あ、夫は出張で」  村瀬寿はテーブルに届いたシーザーサラダを皿に取り分けながらフフンと笑った。 「ふーん、出張ねぇ」 「そうなんです」 「あ、夏帆、あんたオリーブ食べられる?」 「はい」 「じゃ、私の分あげる。オリーブのグニャっていう食感が苦手なの」 「あ、はい」  手際よく取り分けてくれたサラダにはクルトンが五個づつ乗っていた。意外と繊細だ。 「あんたの旦那、何処となくグニャっとした感じがする」 「え」 「掴みどころがなさそう、私は苦手」 「そうですか?」 「意外と流されるタイプじゃない?」 「そう見えました?」 「なんとなーーーく、そんな感じ」 「なんとなく、ですか」 「夏帆が話したい事って、オリーブ男の事でしょ?」
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