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第1話「見参!驚飆のガデン」
警察署内部にある奥まった場所にある書類整理室。室内に置かれた簡素なデスクに向かって、俺はいつものように書類の波に飲まれていた。
ここの仕事は簡単だ。必要そうな書類と必要じゃないであろう書類を分け、必要のないものをシュレッダー行きにする。ただそれだけだ。
空気の淀んだ狭い書類整理室には、三代木信彦こと俺が一人だけ。他の人間はいない。何故ならここは、追い出し部屋だからである。
俺は元々この都市、蘇芳市にある警察署の刑事課にいた。日夜事件を追い続け、捜査では絶対手を抜かなかった。だが、それが仇となった。
蘇芳ではとある怪事件が何件か発生していた。何故か病院や刑務所から失踪者がでたり、化け物に襲われたという通報があったり…。
俺はその怪事件の数々について調べていくうちに、ある財閥の存在へと到達した。黄金原財閥という、蘇芳市で最も権力を持つグループだ。
黄金原財閥は蘇芳にある総合病院の経営や中小企業の支援、公共施設の運営などに関わり、多岐にわたってこの都市を支える重要な財閥である。
その黄金原財閥が運営する施設で、失踪者が続出しているのだ。化け物が出たというのも、財閥の運営する施設の近くが多い。
しかし、財閥はその事について何も言及もしていない。むしろ、失踪者が出ている事実や化け物のことを隠しているかのようなのだ。これは何かがおかしい、そう睨んだ俺は調査を進めていくことにした。
しかしその矢先、俺は唐突に刑事課から異動を命じられることになる。上司に説明を求めても「上層部が決めたことだ」の一点張りで何も答えてもらえず、俺はそのまま書類整理室に押し込まれてしまった。
これは圧力だとすぐに察した。黄金原財閥は警察とも関わりがあると聞いたことがある。きっと黄金原財閥が、自分達の周囲を嗅ぎ回る俺を潰そうとしているのだ。
これは絶対に何か大きな闇があると考えた俺は、書類整理室で仕事をしながら独自に調査を続行することを決めた。きっと、このことがバレれば俺は退職……いや、もしかしたらこの都市から消されるかもしれない。だが、この都市の平和を脅かす事件を見過ごすわけにはいかなかった。
書類をシュレッダーにかけていると、ふいにスラックスのポケットに入れていた小さな通信機……モチテルが震える。俺はあたりを見回してから、すぐにそれを取り出した。
ジケン ゴチョウメヒガシ カミヤマダンチ
四角の黒いモチテルの画面に書かれた文字に、俺は慌てて椅子にかけていた上着を手に取り素早く羽織る。
五丁目東の神山団地。警察署から自転車で行くことができる距離の場所だ。俺はこっそり整理室を抜け出すと、人目を気にしながら急ぎ足で警察署の裏口に向かう。
裏口を出てすぐ、大きなダストボックスの後ろに隠してある自転車に飛び乗った。ビルとビルの間にある警察署の裏手、細い抜け道を自転車で走り抜ける。早く行かなければと気持ちが焦った。
怪事件を追っていてわかったのだが、基本的に警察は病院や施設での失踪者の発生や怪物の出現情報などをほとんどスルーしている。大抵、事件が起きても適当にでっち上げた捜査結果を報告書に書いて提出しているのだ。これもまた、黄金原財閥の手が回っている所為なのだろう。
俺は失踪した人や襲われた人達の存在がないがしろにされている事が酷く許せなかった。市民を守るための警察のはずなのに、こんなことはあってはならないはずだ。俺は、何が何でも財閥の闇を暴いて本当の正義を示そうとしていた。
しばらく自転車を走らせると、アパートが立ち並んだ神山団地に到着する。俺は自転車を邪魔にならない所に停めて、事件が起きた場所を探そうとした……その時だった。
「キャーーッ!」
アパートの方からつんざくような悲鳴が聞こえ、アパートの入り口からエプロン姿の女性が裸足で飛び出してくる。俺はすぐさま女性に駆け寄り「どうしましたか!」と声を掛けた。
「わ、私の家に化け物が!」
「化け物……」
俺は女性の指さすアパートを睨む。これまで、捜査資料でしか読んだことのなかった怪物と、ついに対峙するのか……。俺は女性を速やかに安全な場所に避難させると、アパートの階段を駆け上がった。
アパートの階段を駆け上がってみると、一室ドアが半開きになった場所を見つける。きっとここから女性は逃げ出してきたのだろう。俺は覚悟を決めて部屋の中に飛び込んだ。
「……な、なんだこれは!」
部屋の中に入ると、部屋が泡の海になっていた。床も家具も、全てが泡の中に沈んでしまっている。泡は俺の腰辺りまで来ていた。一体なにがあったというんだ? 泡に埋もれながら、俺は恐る恐る歩を進めていく。しゅわしゅわと音を立てる泡を掻き分け、この泡が何処から来たのか探ろうとする。泡が発生するなら、キッチンのシンクか洗面所があるほうだろう。
どちらを先に見に行くべきかと考えていると、ふいに洗面所の方から音が聞こえた。誰かいる。
「ばぶあ! ばぶあ!」
機械の雑音みたいな、奇妙な鳴き声に心臓が高鳴る。あれは人の声ではないと俺の勘が告げていた。俺はジャケットの下のホルスターから拳銃を取り出し、静かに洗面所へと入っていく。
狭い洗面所、洗濯機の前に異様な影。ごつごつした、甲殻類のような真っ赤な肌は、明らかに人間の肌ではない。腕は蟹の鋏のようなものが生え、人から見たらそれは「蟹の化け物」といえるだろう。
「……動くなッ!」
目の前に現れた異形に戸惑いと不安を覚えながら、それでも声を張り上げた。怯むわけにはいかない。隙を見せたら終わりだと自分に言い聞かせ、銃を構える。手に無駄な力が入るのは、緊張している証拠だ。
俺の声に、ぬらりと化け物が振り返る。そのゆったりとした動きが妙に不快だ。全身を舐められているような、じっとりとした感覚に寒気がする。
「なんだ? 貴様は……」
ザラザラしたノイズのような声。俺は銃口を向けながら「警察だッ」と叫ぶ。化け物は一瞬無言になってから、テレビの砂嵐のような笑い声を上げた。
「警察? そんなものがなんのようだ?」
「お前が怪事件を起こしている犯人なのは知っている! 大人しく投降しろ!」
「そんなことを、このバブルクラヴ様がすると思うか?馬鹿な奴だ」
鼻で笑った化け物……バブルクラヴは「貴様に用はない、とっとと帰れ」と言って俺に背を向けた。完全に俺の事など眼中にないといった様子だ。
「お前は一体何を企んでいるんだ」
「なにを? 俺は、この都市に蔓延る汚れを泡で溶かしたいだけだ」
「汚れ……?」
「ああ。人間という、この世で最も醜い汚れがあるだろう。それを綺麗にするために、バブルクラヴ様は生まれたのだ。俺の泡は、人やものを溶かすことが出来る。お前だって……ほらみろ。服が、溶けだしているだろう?」
「……ッ!」
足元を見てぎょっとする。見ると、泡の隙間から見えるスラックスの布地が溶けだしているのだ。俺は慌てて泡を払いのけたが、バブルクラヴは「無駄な抵抗だ」と言う。
「今は布地だけだが、すぐに肉体にも泡は浸食しお前を溶かすだろう……」
「く、くそ!」
俺は無我夢中で、銃を発砲した。このまま何もせずに溶けてしまうよりも、少しでも抵抗した方がマシだ。逃げ出すという選択肢は、ない。
バンと大きな発砲音と共に、銃弾が化け物の胸に命中する。頼むから効いてくれ、そう心から願った。……だが、無駄だった。バブルクラヴは平然とした様子で、命中した弾丸を鋏の切っ先で器用に抜き取り床に落とした。絶望の淵に、叩き落された。
「……そうか。貴様は俺の仕事を阻もうというのだな? ならば、貴様は泡ではなく俺の手で殺してやろう」
そう言って、バブルクラヴが俺に向かってくる。俺はバブルクラヴに必死で発砲したが、奴は全く動じずにズンズンとこちらに歩いてきた。
「ふんっ!」
「ぐあっ!」
俺は歩いてきたバブルクラヴに勢いよく殴られ、洗面所からドアごと居間の方へと吹っ飛んだ。なんて威力だろう? 明らかに人間の力ではなかった。一般的な身体能力しか持たない俺が、相手をしていい奴じゃない。だが、立ち上がらなくちゃいけなかった。
俺は痛む身体をなんとか起き上がらせてファイティングポーズを取る。洗面所から出てきたバブルクラヴが「抵抗する気か」と笑う。
「当たり前だ!俺は……この都市を守る一人の警察官なんだッ! 正義なんだッ! お前には絶対に負けないッ!」
それは自分に言い聞かせるための言葉でもあった。今にも逃げ出しそうな足の震えを律するための言葉だった。死ぬ気で戦えと拳をぎゅっと握りしめる。
俺は警察官だ。圧力があろうとなんだろうと、絶対に自分の正義を貫く。理不尽な暴力に屈しない。それが、三代木信彦の魂の誓いだ!
「いいだろう。貴様の足掻きをみせてみろ!」
バブルクラヴが俺に向かってくる。またあんな威力の攻撃を受けたらひとたまりもないだろう。だが負けるわけにはいかないと、拳を構え直した。
バブルクラヴの攻撃は素早く、豪快な動きだった。三度ほどかわせたが、四度目がダメだった。脇腹に太い鋏の打撃を受け、よろけた隙をついてアッパーをかまされる。諦めずに拳を打ち込んでも、硬い甲羅で覆われた肉体にはびくともしない。完全に、俺の方が劣勢だ。
はあはあと息を荒げ、立っているのもやっとになる。意識がぼんやりとしてきた頃、バブルクラヴが俺の首を掴んだ。息苦しさに藻掻く気力もなかったが、それでも首元からバブルクラヴの鋏を引き剥そうと試みる。
「無駄だ。貴様はもう既に負けているのだ。大人しく、俺に殺されるがいい」
鋏が首に食い込む。こんなところで死ぬのか、俺は。まだ、やり残したことが沢山あるというのに……。俺はぐっと奥歯を噛みしめた。
「そのへんにしときな。蟹もどき」
薄れかける意識の中に突然声が降り注ぐ。
俺は目だけを声のした方に移した。そこでは、目に染みる派手なマゼンタ色のライダースジャケットを着た男が、キッチンに置かれた冷蔵庫にもたれ掛かって……バナナを食べている。
この緊迫した空気に似合わぬ光景に、もしかして俺は幻覚を見ているのかと思った。しかしバブルクラヴが「何者だッ!」と声を荒げた事で、あれは幻覚ではないのだと知る。
「俺か? 俺は……嵐を呼ぶ男だ」
「嵐、だと?」
首を絞めていた鋏の力が緩み離され、俺はその場に頽れる。どうやらバブルクラヴの関心は、俺からバナナを食べる男に移ったらしい。俺は男の方を見て、視線で逃げろと訴えた。こいつは、普通の人間が敵う相手じゃないんだ。だから、逃げてくれ。
俺の視線に気づいたのか、端正な顔立ちの男は俺と目を合わせてシニカルに微笑んだ。安心しろ、とでもいうような笑みにむしろ心配になってくる。どうして、こんなに恐ろしい怪物の前でそんな顔が出来るのだろう。
「貴様も俺の邪魔をするか」
「ああ、するさ。なんてったって俺は、正義のヒーローだからな」
男が自信満々に胸を張ると、バブルクラヴは「ばぶあ!ばぶあ!」と奇怪な笑い声を上げた。
「ヒーローだと?くだらんな。なんの武器も持たないお前に何が出来るというのだ」
「武器ならあるさ。見たいか?」
「ああ。是非とも見せて欲しいものだな」
小ばかにしたようなバブルクラヴの言葉に、男はバナナの皮をひょいと投げ捨て、「……言ったな?」とにやりとする。一体何をしでかすつもりなんだと俺が様子を見守っていると、男は両手を自身の首に持っていき囁くように言った。
「アルケマイズ、ガデン。」
言葉と同時に、男の全身が光り輝く宝石のついたチョーカーから溢れ出してきた黒いリボンのようなもので包まれていく。まるでミイラのような状態になった男にぎょっとしていると、黒かった全身の一部一部に花が咲くようにマゼンタの鮮やかな色がついていく。何が起きているのかと目を瞠るうちに、男は鮮烈な色味の仮面とスーツを身にまとった存在へと変貌していた。
「貴様は、一体……」
バブルクラヴも驚いているのか、息を呑んでいる。俺もまた同じようにその姿に釘付けになっていた。脳裏に、昔テレビで見たヒーローの事が思い浮かぶ。眩しくて、ぎらぎらしたその姿は、まさに正義のヒーローそのものだった。
「…ここじゃあないな」
ふいにヒーローが何かをぶつぶつ喋りながら、冷蔵庫の方からベランダの方へと歩いていく。それから「光の角度……ヨシ」とか「影もいい感じだ」などと言っている。何をしているんだろうか? 俺とバブルクラヴが首を傾げていると、すっと俯いていた顔をあげて男が言った。
「俺は驚飆のガデン。蟹もどき、お前を倒して悪を正す……ふふ、キマったな。」
ガデンと名乗った男は腰に装着されていた柄の長いハンマーを手にしてバブルクラヴを指す。逆光といい角度といい、完璧な仕草だ。まさかあれがやりたかったのか?
「はっ……やってみろ!」
一連の動作に呆気に取られていたバブルクラヴが、ガデンに向かって突進した。鋏のついた手を乱暴に振り回し、ガデンに次々と攻撃を仕掛けていく。俺と戦った時より一段と早い。バブルクラヴも、本気でガデンを倒そうとしているのだろう。
しかし、ガデンはその攻撃を全て素早く避けていく。華麗な身のこなしからして、只者ではない事がわかる。
「何故攻撃してこない! 逃げるばかりでは話にならんぞ!」
バブルクラヴが痺れを切らしたように殴りかかりながら怒鳴る。たしかにバブルクラヴの言う通りだ、攻撃を繰り出さなければ勝負にならない。もしかして、バブルクラヴが体力を消耗するのを待っているのか? それとも、隙を窺っているのか。どっちにしろ、今のままでは戦闘は平行線を辿るだけだ。
「お前が磯臭いからさ」
「……こいつッ!」
ガデンの余裕な態度が気に障ったように、バブルクラヴが勢いをつけて怒りの一撃を放つ。早い。これは流石に避けるのが難しいのではないか。俺はぐっと息を呑みこんだ。
「死ね……えぇっ!?」
突如、バブルクラヴの態勢がずるりと崩れた。それから勢いあまって、そのままガデンの方に倒れ掛かる。
「おっとあぶね」
ガデンは倒れ込んできたバブルクラヴを軽々と避けた。ガデンに避けられ、行き場を失ったバブルクラヴは……なんと窓ガラスをバリンと大きな音を立てて突き破り、狭いベランダから地上へと落ちていった。
「ばぶぁあーーーーッ!」
バブルクラヴの悲鳴が聞こえた後、爆発音と共に外がカッと明るくなる。
……え、まさか、落ちて死んだ? 俺がぽかんとしていると、ガデンが振り返ってベランダの方を覗く。
「派手に焼き蟹になったな」
やけに平坦な声を聞いているうちに、家の中に充満していた泡が少しずつ消えていく。バブルクラヴが倒れた影響だろうか。静かに充満していた泡が消え、フローリングが見えてくると、俺は床にある物が落ちている事に気が付いた。
「……バナナの皮」
さっき男が食べていたバナナの皮だ。もしかして、バブルクラヴはこれに滑ったのか……。なんとも間抜けな化け物に、俺は何とも言えない気持ちになった。俺がバナナの皮を見つめていると、ひょいとバナナの皮が持ち上げられる。顔を上げると、いつのまにかガデンはおらず、最初のライダースジャケットを着た男の姿がそこにあった。もしかして、男はバブルクラヴがバナナの皮に滑るように仕掛けたのではないだろうか。だとしたら、相当な策士である。
「やっぱりな。運は俺だけに味方する」
バナナの皮を見ながら満足そうに笑うと、男は溶けかけたゴミ箱にバナナの皮を放り込む。……運ってことは、まさかあのバナナの皮で滑ったのはただの偶然だったのか? 巧妙な罠でも、なんでもなく? 俺が座り込んで唖然としていると、男は俺に気が付いたのか神妙な顔になった。
「……酷い格好だな」
「え? あっ……!」
男の言葉に、俺は自分の恰好を見る。バブルクラヴの泡や戦闘の所為でスーツの所々が溶けたり破けたりして、俺はボロボロの状態になっていた。このままじゃ帰るにも帰れない。どうしたものか……と俺が悩んでいると、男が自身の近くにあった掃き出し窓のカーテンに手を伸ばす。ビリっと音を立て、男は薄緑色の綺麗なカーテンを勢いよく引き千切った。いきなり何をしてるんだこいつは!
男は引き千切ったカーテンを持ったままこちらに歩いてくる。そして何をするかと身構えていると、そのカーテンを俺の肩にふんわりと掛けた。
「これで少しは隠せる。早く病院にでも行くんだな」
男はそう言って、俺に背を向ける。その背中に俺は気づけば「待ってくれ!」と叫んでいた。男が振り返り「なんだ」と言う。
「き、君は一体何者なんだ……?」
「ふふ、言っただろう? 俺は嵐を呼ぶ男だ」
それは返答になっていないだろと睨んでも、男は静かに笑うだけ。
「また会おう」
男は意味深に呟いて、さっさと部屋から出て行ってしまった。追おうと思ったが、足に力が入らない。戦闘で、随分身体が痛めつけられてしまったようだ。早くかかり付けの医者に診てもらわなければ。
「……ガデンか」
燃えるようなマゼンタの色が、記憶に焼き付いて離れない。起きた事は全て現実だったのだろうか。謎の怪物に、突如として現れたヒーロー……。まるで、ドラマでも見ている気分だ……なんて、ぼんやりしてきた意識を取り戻すために、俺は自分の頬を手で打った。
夢うつつに意識を溶かしている場合ではない。怪物は本当にいた。やはり警察は、怪物の存在をないがしろにしてきたのだ。
だが、これを上層部に訴えた所できっと意味がない。俺が仕事をやめさせられて終わりだ。黄金原財閥と怪物の関係をもっと細かく調べ上げ、そこから警察との癒着問題も明確にする。言い逃れが出来ない程に徹底的にやるしかない。そして、この腐敗を正して都市を守らなければ。
俺は羽織ったカーテンを握り締め、一人決意を固めた。
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