わたしはそれを

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 私が貴方を消した理由は、私が貴方を好きになりすぎてしまったからです。  貴方が現れたのは突然の事でした。まるで夜空から星が一筋降るかのように落ちてきた貴方。その断片を一つ一つ拾い上げ、私は貴方の輪郭を描きました。唇を、睫毛を、髪を、丁寧に描き上げた。完成した貴方は、私の使い古されたノートの中で冷たい顔をしていました。  私はその冷たい顔に一目ぼれしました。美しいその顔はまさに作り物。でもそれがよかった。私はすぐに貴方を追い求めて絵を描き始めました。それまで灰色だった世界に鮮やかな色が滲んで、ただの鉛だった鉛筆は貴方とのコミュニケーションをするために必要なテレフォンになりました。  私は嬉しくて仕方がなかったのです。貴方の様な美しい人が、この手の内に落ちてきてくれたことが。そしてその美しさを私だけしか描けない事が。私だけのもの。私だけの、私だけの貴方。それがどれだけ私を幸せにしたか、冷たい貴方には分からないでしょう。  雨の日の美術室で、貴方と二人きりでいるのが好きでした。人のまばらな大学の講義室の席の隅で、貴方を描くのが好きでした。貴方との時間はいつも甘美で、貴方の存在を私だけが創造しているという事実が耽美で、幸せでした。  しかしある日、友人から言われてしまうのです。 「貴方はいつも同じ人間ばかり描いていて気持ちが悪い」  私は衝撃を受けました。そんな事を面と向かって言われた事がなかったから。どうして、とか何故そんな事を言うのかとか、そういう抗議も反論も何も出来ず私は立ち尽くしてしまいました。  私は、気持ちが悪いのでしょうか。私は貴方に問いかけます。貴方は答えません。こんな時、貴方が一言でも「そんなことはない」と答えてくれたのなら、きっと世界はほんの数ミリ変わっていたかもしれません。  友人の言葉、答えない貴方。その全てが、私を今まで突き動かしていた歯車をぶち壊してしまいました。  私は家に帰ると、これまで何百枚も描いた貴方のスケッチも、キャンバスも、全て捨て去る事にしました。  たかが一人の言葉で。そう思う方もいるでしょう。でもね、言葉の力と言うのは暴力なのです。一人の想像の世界をいともたやすく破壊してしまう、核兵器なの。  そしてそれ以上に、何も答えない貴方の存在に苛立ってしまった。こんな醜い感情を貴方に向けたくなかった。だから私は私の感情ごと貴方を消し去らねばいけないと思った。  私は乱雑に物が詰まれた部屋を整理しました。壁に貼った貴方の絵も全て剝がして、全てゴミ袋の中に詰め込んだ。本当は全部燃やしてしまいたかったけれど、流石にこんなところで貴方と焼死体になる気はないのです。  ノートの整理をしていると、最初に貴方を描いたノートが部屋の奥底から見つかりました。ノートを捲ってみると、貴方の名前を考えあぐねている私の走り書きがいくつか散見されました。  そうなのです。私は貴方の名前を考えていなかった。貴方の事を一番に考えていたけれど、貴方を呼ぶことはなかった。貴方をわかっているのはわたしだけでよかったから、名前なんて必要なかった。だから途中で名前を考えるのをやめたのだと思い出したのです。  でも、私は最後に貴方の名前を呼んでみたくなりました。もう貴方を消すのだから、最後に貴方の名前を呼んでみたかった。  でも貴方に名前はない。私は最後の最後まで貴方の名前を呼べなかった。  気づけば泣いていました。私は悔しかったのです。他者に私達の関係を阻まれた事が。そして、なによりそれに傷ついている私自身が。そんなことで傷つくはずなどなかったのに、私は弱かった。「気持ちが悪い」と一蹴されて萎れる様な自分だった事が、ショックだった。  貴方、貴方、貴方。貴方の名前が呼べたら私はもっと強くいられたのでしょうか。貴方との繋がりを「名前」を通して深めていれば、私はこの世界から乖離できたのでしょうか。  もう、何もかもが遅い。私と貴方は分かたれてしまった。私達は一つじゃなかった。私が弱かったから。私は私の弱さを知りたくないから貴方を消す。なんて、愚かなのだろう。  それでもきっと、貴方は冷たい月の様な顔でいるのでしょう。例え私に、存在を消されてしまったとしても。  私はその、心底無機質で身勝手な関係を愛と呼ぶのです。
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