ふたりめ

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ふたりめ

   1  最近、どうにも眠れない。  夜の十時には布団に入り、瞼を閉じて寝よう寝ようと思っているのに、なかなか夢の中に落ちることができなかった。  それもこれも、全てはアイツのせいだ。  事ある毎に俺をなじってくる、あの女。  自分だって仕事でミスすることもあるっていうのに、とにかく俺がミスをするたびに細かく文句を言ってくる。  やれ仕事が遅い、やれ発注が間違ってる、やれ伝票の数字が違う、やれ、やれ、やれ。  本当にムカつく女だ。  あんまりにもムカつき過ぎて、どうやってあの女を言い負かしてやろうか、そんなことばかりを考えて眠れないのだ。  俺は大きくため息を吐き、何度も何度も寝返りを打つ。  ごそごそやっているうちにより眼が冴えてきて、全然眠れない。  そんな日々がここ二、三か月、ずっと続いていた。  このままでは、睡眠不足でどうにかなってしまいそうだ。 「大丈夫か、谷口?」  同じ職場の友人である下拂(しもはらい)がいつも気にかけてくれるのだけれど、下拂も下拂で俺とは逆にあの女に妙に気に入られてしまっているらしく、というかまるで彼女のように馴れ馴れしく接してくるものだから、本気で困っているらしい。傍から見ていてもウザそうだった。  極端に嫌われている俺と、極端に好かれている下拂。  どちらがマシか、と問われても正直、どっちも嫌なことに変わりはなかった。  自分の考え方、物事の捉え方に固執するあの女――山田涼香。  ほんと、俺はどうしたら良いのだろうか。  俺は今日も重たい足取りで職場に向かう。  清々しいほどの青空が広がる朝だというのに、俺の身も心も疲弊しきっていた。  自分でも解るくらいに足元が覚束ない。  こんな状態で、果たしてまともに仕事なんてできるのだろうか。  むしろミスを連発して、また山田に冷たい目とキツイ口調でなじられてしまうんじゃないのか。  そう考えるだけで、なんだか手足が震えてしかたがなかった。  ――重症だな。  思いながら、深いため息を吐き、コンビニの角を曲がったところで、 「――うわっ!」 「うきゃぁっ!」  女子高生と正面衝突して、俺はバランスを崩してそのまま道路にぶっ倒れた。  あぁ、こんな女の子にぶつかったくらいでぶっ倒れてしまうほどに俺の身体は弱ってんだなぁ、なんて思っていると、当の女子高生が慌てた様子で、 「ご、ごめんなさい! ダイジョーブですか?」  遠く空の向こうを見つめる俺の視界にその顔を覗かせた。  肩までの見た茶色い髪に大きな眼。形の整った唇と鼻筋が何とも可愛らしく、綺麗な子だなと俺は思った。 「……あぁ、うん。大丈夫」  俺は打ち付けた後頭部をさすりながら、ゆっくりと上半身を起こした。  首が痛い、頭が重い。手のひらに目をやれば少しばかり擦れて血が滲んでいた。  まぁ、このくらいなら大したことはないか。  ……いっそもう少しわかりやすく怪我ができてれば、このまま仕事を休んでやろうと思えたのになぁ。 「お兄さん、本当にダイジョーブ?」 「……えっ?」  俺はふとその女子高生に目を向ける。  女子高生は眉間に皺を寄せながら、 「なんか、すっごいボンヤリしてるから、心配で。ホントにダイジョーブです? 頭打ったんだから、しばらく様子見た方が良くないです?」 「あぁ、うん――そう、でも仕事行かなきゃ」 「……そうなんだろうけど、う~ん」  女子高生が顎に手を当て、訝しむような眼で俺を睨みつけてくる。  その表情すら可愛らしい。  俺、そんなロリコン趣味だったっけ? 「なにか?」  訊ねると、女子高生は首を傾げて、 「いや、今日は仕事、休んじゃいましょう」 「は?」 「ほら、頭打ったし。もしかしたら会社に着くまでにまた倒れちゃうかもしれないし」 「そんなおおげさな。大丈夫だって……」 「いやいや、甘く見ちゃダメですよ。絶対に倒れます。倒れてそのままお陀仏になっちゃうかもしれません」  お陀仏って……今どきそんな言葉を使う子なんて初めて見たかもしれない。  俺は軽く笑ってかぶりを振る。 「心配ありがと。でも、本当に大丈夫だからさ」  言って立ち上がろうとして。 「……あれ?」  立ち上がれなかった。  どんなに足を踏ん張ってみても、腰が浮かない。お尻が地面に張り付いたように、まったく動かなかったのだ。  俺は焦り、手をついて無理矢理立ち上がろうとして、けれど全然身体は言うことを聞かなかった。 「な、なんで……?」 「ほらぁ、だから言ったじゃないですか!」  女子高生は頬を膨らませ、俺と視線が合う高さまでしゃがみ込むと、まっすぐに俺の顔を見つめながら、 「だから、ほら。今日のところは休んじゃいましょう。それがお兄さんの為だと思うから」 「いや、でも、それだとみんなに迷惑をかけちゃうし――」  なにより、また山田になんて言われるかわからない。  その心配だけで、ずんと肩に重たいものがのしかかってくるようだった。 「ダイジョーブですって。そんなの、何とかなりますよ」 「何とかつて、キミみたいな子供にはまだ解らないかもしれないけど、会社を気軽に休むだけでグチグチ言ってくる輩がたくさんいるし、お客さんにも迷惑を」 「言いたい奴には言わせとけばいいんですって。言いたいだけなんだから。お客さんにも迷惑をなんて言うけど、そもそも他人にひとつも迷惑かけない人間なんていないんだから、そんなんお互い様ですよ」 「いやいや、それは」 「とにかく!」  女子高生は遮るように言って、俺のおでこに人差し指を突き付けてくる。 「今日は臨時休業。そんなに休めないって言うんなら、もう一発、今度は顔面にあたしのグーパンを喰らわせればいいですか?」 「えぇっ? なんでそうなる――」  そこまでして俺を休ませたい理由がわからない。  何なんだ、この女の子は。  思いながらも、もはやこれ以上押し問答をしてもしかたがないと俺は思って。 「――わかったよ。休むよ、今日は」 「それがいいです」  女子高生は言って、にっこりとほほ笑んだ。
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