ふたりめ

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   9  会社に近づくたび、俺の足はだんだんと重くなっていった。胸がバクバクと激しくなり、変な汗がだらだら流れる。会社の入るビルを前にした時には何だか泣き出してしまいそうなほど、俺は完全に緊張してしまっていた。  まさか自分の心がこんな状態になってしまうほど、山田にやられていただなんて思いもしなかった。山田からしてみれば多分、そんなつもりはなかったのかもしれない。けれど実際、こんな症状が現れてしまうくらいには追い詰められてしまっているのだから、どうにかしないわけにはいかないのだ。  部長と下拂がどんな話をして、どう山田に伝えているのかもまだ聞いてもいないのだけれど、せっかくアカネが俺のためにこの惚れ薬入りの香水を作ってくれたのだから、試してみないと。これで万事解決なら、部長にも下拂にもこれ以上、迷惑をかけずにすむのだ。  俺はビルに入るとエレベーターで3階へ向かった。  すぐ目の前のうちの会社の扉……には入らず、一旦香水をつけるためにトイレに足を向ける。  廊下を数メートル進んだ左側には手前から女性トイレ、給湯室、男性トイレ、という順に並んでおり、足早にその廊下を進んでいると、ガチャリと音がして、 「……あっ」  当の山田が女性トイレから姿を現し、小さく眉間に皺を寄せた。  俺は驚きと焦りで思わず立ち止まってしまい、真正面から山田と向き合う形になる。  互いになかなか言葉が出ず、けれど目があってしまったものだから、視線を逸らすことすらできなかった。  しばらく俺たちは見つめ合うようにしていた。  俺は緊張で手足が小さく震えて、なかなか言葉を発することができなかった。咄嗟に上着のポケットに手を入れ、アカネからもらった香水を探る。  先に口を開いたのは、山田の方だった。 「……ごめん、渋谷。私、言い過ぎたみたいで」  素直に頭を下げる山田に、俺は呆気に取られる。 「え、あっ……」とうめくような声しか出せない。 「部長や下拂くんに呼び出されて、話、聞いた。追い詰めるつもりはなかったの。本当に、ごめん」  そんな、謝られても、俺だって、なにをどう言って返せば良いのか、わからない。 「次からは言い方、気をつけるから」  よくよく見れば、彼女の目元はうっすらと赤く腫れているようだった。泣いていたのだろうか? 「あ、い、いや……」  俺はしどろもどろになりながら、 「こ……こっちこそ、ミ、ミスばかりでごめん。お、俺も、気をつけるから……」 「……うん」  山田は小さく、本当にわずかに頷いて、すっと俺に右手を差し出してくる。  俺は咄嗟に身を引きつつ、 「……え、なに?」 「握手。その……なんて言えば良い? 仲直りの証、みたいな……?」  握手? 山田って、そんなことするようなタイプの女だったか? 下拂にそうしろって言われたのか? たぶん、そうなんだろうけど…… 「あ、あぁ、うん……」  俺も色々考えながら、けれどここは素直に握手しておくべきだろうと、上着に突っ込んでいた手を出したところで、 「……あっ」  例の香水瓶が手に引っかかって、ぽろりとポケットからこぼれ落ちた。香水はマットの敷かれた廊下を転がり、山田の足に当たって止まる。 「何か落ちたけど、なに? これ」  山田は腰を屈めてその香水瓶を拾い上げると、ためつすがめつして、 「香水? もしかして、渋谷が使ってるの? 全然気が付かなかった」 「あ、いや、それは……」 「ちょっと試してみていい?」  言うが早いか、山田は俺の返答も待たずして、その香水を自身の左手首にシュッとひと噴きする。途端に甘い香りが漂い、俺の鼻を刺激した。 「……あ、結構好きかも、この香り。どこのメーカー? 私も買おうかな。ねぇ、渋谷」  俺は頭が痺れるような感覚に陥っていた。  甘い香りが脳を刺激し、揺さぶり、山田の綺麗な瞳に心臓が高鳴りを覚える。  紅く艶っぽい唇はあまりに魅力的で、サラサラの髪も美しくこの手で直に触れたくてたまらなかった。 「え、なに? どうしたの、渋谷。もしかして、怒ってる? ごめん、勝手につかっちゃって……」  口から発せられるその声の、なんと耳心地の良いことか。  嗚呼、なんで俺は今まで気が付かなかったのか!  山田がこんなにまで魅力的で素晴らしい女性だったということを!  ダメだ、気持ちが! 俺の気持ちが溢れて止まらない!  山田、山田、山田……! 「……山田」  俺はがっしりとその山田の肩を両手で掴み、じっと煌めく彼女の瞳を見つめる。 「えっ……あ、な、なに……?」  明らかに動揺する彼女に、俺はハッキリと口にした。 「……好きだ。愛してる」  瞬間、山田は大きく目を見開き、その可愛らしい口から声を漏らした。 「……は?」
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