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 毎週金曜日、虹は学校から家には帰らず、直接旅館へと向かう。裏の玄関から事務所へ入ると父親が帳簿の整理をしていた。 「虹、おかえり。さっき夏初くんが来て花材置いていったよ。母さんも客室のチェックに行ってるから、今のうちに着替えてしまいなさい」  のんびりとした声で父親が言う。虹はそれに、ん、と答えて自分のロッカーを開けた。そこには着物と前掛けが入っている。館内に出るにはこれを着ないとダメだと母親が頑なに言うので仕方なく着ているものだ。初めは着付けてもらっていたそれも、今では一人で手早く着られる様になった。旅館では男性は全員それに野袴を着けているのになぜ自分だけはないのだ、と以前母に聞いたことがあるが、『だって虹は可愛いから、野袴で隠すのはもったいない』と真顔で言われて以来、深く考えない事にしている。 事務所の奥、虹が花を生けるために使っている畳敷きの四畳半には、館内に置かれていた花器が集められていた。その他に一輪挿しが部屋の数だけある。これを仕上げるのが虹の仕事だ。 「さて、やるか」  虹は前掛けの紐を結ぶと、花器の前に座った。今日の花材はこの間夏初が言っていたバラがメインだった。虹は花鋏で茎をぱちん、と切る。既に棘が取ってあるのは夏初の優しさだろう。虹はそれが嬉しくてしばらく花を眺めてしまう。それから、そんな暇なかったんだと思い出し、作業を始めた。  一輪挿しを全て終える頃、虹、という声と共に襖が勢いよく開いた。振り返ると着物姿の母と、その後ろに夏初が立っていた。 「お部屋の分終わった?」  母は部屋に上がり一輪挿しを確かめる。納得したのか、仲居の名前を呼び、部屋に置くように指示を出していた。 「あとは玄関と受付、踊り場の分頼むわね、虹」 「はーい」  虹が答えると、はいは短く、と頭を小突いて母は忙しそうに出て行った。 「女将さん、相変わらず元気だな」  言いながら夏初が部屋に入り襖を閉める。その手にはお茶が二つ載った盆がある。 「あの人からそれ取ったら何も残らないからね」 「虹も将来あんな感じになりそうだな」 「それって、貶してる?」 「いや、褒めてる」  夏初は虹の隣に胡坐をかいて座り、完成間近の花を見つめた。 「いつもながら見事だね」 「慣れだよ、こんなの。小さい時からやってれば誰でもこのくらい出来る」  虹は剣山に向かって花を挿した。小学校に入る頃から習わされているので、この歳でもう人に教えることも出来る。けれど虹としてはあまり公にしたい特技ではなかった。女性の習い事のイメージがあるだろうから、高校生の虹にはまだ恥ずかしさが先に来る。なのでこうしてひっそりとやっているのだが、虹はこの作業は嫌いではなかった。花と向きあい、集中してひとつの作品を作る過程はやっぱり面白い。 「そうか? 俺には無理だから、虹はやっぱり素質あるんだと思うよ。着物も似合ってるし。将来は支配人っていうより若女将って感じだな」  その言葉にむっとして、オレ男だけど、と夏初に鋭い視線を投げる。けれどそれを受け止めた夏初は笑顔のままだった。 「だって可愛いから」  そう言われて、虹は夏初から顔を背けた。絶対に赤くなっているとわかる顔をいつまでも夏初に向けていられない。高鳴る心臓とはうらはらに虹は、夏初バカじゃないの、と口を開いた。 「じゃなかったら、目おかしいよ」  虹は言いながら、次の花器に花を挿していく。そんな虹の姿に、夏初はくつくつと笑い出した。 「何笑ってんだよ」 「笑ってないよ。虹はホントに……いや、これ以上言ったら虹の機嫌がまた悪くなるからやめるよ」  不機嫌に夏初の顔を見上げると、やっぱり笑っていた。面白くないまま、虹は花を生けようとしたが、やっぱり心が乱れているせいだろう、間違えて茎を短く切りすぎてしまった。 「あ! ほら、夏初のせい!」  頬を膨らませた虹が噛み付くように夏初に文句をつけると、ごめんね、と夏初が切り落とされた花を拾った。 「じゃあこれは、ここに」  夏初が手を伸ばし、虹の耳元の髪を優しくかき上げた。頬に触れる手のひらの熱に、虹は緊張する。そんな虹を他所に夏初は持っていた花をそっと虹の髪に挿した。虹の耳元で、真っ赤なバラが咲き誇る。 「似合うよ。キレイだ」  まっすぐに虹を見つめ、愛しそうに言う夏初に虹の心はあっさりと奪われる。しばらく夢見心地で夏初の顔を見上げてから虹は、はっとして我に返る。 「男子高校生に似合ってたまるかよ!」 「そうだな、ごめん」  口では謝っているが夏初は笑顔のままだ。虹はその顔を見て、まだ耳元に花がささっているのを思い出し、慌てて引き抜いた。夏初の表情が途端に残念そうに変わる。 「勿体無い……」 「可愛かったのに、とか言うなよ。すぐそうやってからかうんだから」  夏初なんか嫌いだ、と虹が唇を尖らせる。そんな虹の頭を、からかってないよ、と優しく撫でてから、夏初は立ち上がった。 「これ、玄関のだったよな? 帰りがけに置いてくるよ。花の正面こっち?」 「うん……」  笑みの消えた夏初の顔を見つめ虹が頷く。嫌いだは言いすぎただろうか――そう思い、虹は口を開く。 「ありがと、夏初……そうやって手伝ってくれる夏初は嫌いじゃない」  花を生けながら虹が呟くように言うと、夏初は嬉しそうに笑って、うん、と頷いてから部屋を出て行った。それを見届けた虹は深い息を吐く。夏初といるのは楽しいし嬉しい。けれどこうもからかわれてばかりだと、やっぱり悲しい。いつになったら対等に扱ってもらえるのか――そう考えると、虹は再び長いため息を零した。
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