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「買い物付き合ってよ、夏初」  日曜日の朝、まだ眠たそうな声で電話に出た夏初に、虹は開口一番そう告げた。 『……おはよう、虹』 「うん。買い物行ける?」 『あと一時間待ってくれれば』 「そんなに待てないよ。オレもう用意出来てるし。三十分で用意して」  スマホを持ったまま自分の部屋を出て、虹は玄関まで降りる。靴箱からスニーカーを取り出すと、框に座り込んでそれをはき始めた。 『三十分か……頑張るよ』 「これから夏初ん家行くから、オレ」 『え?』 「待っててよ、じゃあね」  虹は夏初の返事を待つことなく電話を切ると、スマホをカバンに仕舞いこんで、家を出た。 虹の家から夏初の家までは歩いて十分ほどの距離だ。すぐに加賀造園の会社の入り口が見えてくる。 「おじさーん、おはよー」  ドアの開いていた事務所の中に虹が声を掛ける。 「早いね、坊ちゃん。ウチのボンクラならまだ寝てるよ。飲み会だかコンパなんだか知らないけど週末ったら飲み歩いて……」  夏初の父がそう話していると事務所の電話が鳴り響いた。虹は、そのボンクラ起こして来るよ、と笑って事務所の脇の獣道を進んだ。ここを行けば夏初の家の裏に出る。今度は庭先で洗濯物を干す夏初の母に会った。 「あら、虹ちゃんおはよう」 「おはよー、夏初ママ。夏初起きた?」 「なんだかさっき慌てて降りてきて、今風呂場かしら――ナツー、虹ちゃん来てるわよー」  開け放っていた掃き出し窓に向かって夏初の母が叫ぶ。遠くから、もう少し待ってて、と夏初の声が聞こえた。その焦った声に虹と夏初の母は顔を見合わせてから吹き出すように笑った。 「そういうことだから、虹ちゃん少し上がって待ってて。虹ちゃんの好きな『福屋』の上生菓子あるの」 「ホント? 食べる!」  虹は、いらっしゃい、という夏初の母に続き、掃き出し窓から家の中へと入る。すると、タオル一枚の夏初がちょうど脱衣所から出てきた。その姿に虹が驚く。 「やだ、あんた。着替えくらい持って入りなさい」  夏初の母がそう言ってリビングのドアを閉めた。その向こうで階段を駆け上がる音が響く。その音はいつまでも続いていて、でもそんなに階段が長いはずないと考えてから、今聞こえるこの音は、自分の鼓動の音だとようやく気付いた。  日々父親の仕事を手伝っているためほどよく筋肉がついた腕はTシャツ焼けしていて、広い胸板は厚くはないがしっかりとしていて男らしい。筋肉で引き締まった腰は虹の細いだけのとは大違いだった。  その体にドキドキした。憧れのようで、それでいてその胸に飛び込みたいような不思議な興奮が虹を包む。思えば、ここ三年くらいはプールや温泉など裸になるようなところに二人で行った事はなかった。大人になりきった夏初の体を見るのはこれが初めてだったのだ。 「虹ちゃん、こっちいらっしゃい」  ぼんやりと突っ立っていた虹に、夏初の母の優しい声が飛ぶ。虹は慌ててその声に頷き、リビングのソファに座った。目の前のテーブルに小さな皿に乗った和菓子と冷えた麦茶が入ったグラスが置かれている。 「こっちが『藤』、こっちが『清流』ですって」 「きれいだね、和菓子って。こうやって並べると小さい庭みたい」  添えられた黒文字を手に取り虹が和菓子を眺める。 「しのみ屋さんにも立派な藤棚と遣り水があるものね」  虹の傍で夏初の母が微笑む。その時、リビングのドアが開いて着替えの終わった夏初が顔を出した。 「待たせた。ごめんな」  夏初は虹の隣に座ると、虹の頭を軽く撫でた。  いつものことだけれど、今日はなんだかドキドキする。さっき、夏初の裸を見たせいだろうか。それでも、虹はそんなことを表に出すことなく、許す、と口を開いた。 「夏初ママにおやつ貰ったから、いいよ」 「そっか。じゃあそれ食べ終わったら出ようか」  その優しい目に虹は頷き、上生菓子を食べ始めた。  またワガママをきいてくれた、と虹は隣の笑顔を一瞥した。一時間というのを三十分にしたあげく家に押しかけた。それなのに夏初は怒ることもせず、逆に謝った――待たせた、と。  それが夏初に許されているような特別感になる。けれど同時に自分のワガママはきかないといけない、そんなふうに思っているから受け入れてくれているのではないかという不安にもなった。  夏初の父は虹のことを『坊ちゃん』と呼ぶ。それは虹が得意先の息子だからだ。夏初にも、虹に対しては失礼がないようにと言い聞かせていた。だから、夏初の中で自分は『怒らせてはいけない腫れ物』なのではないか――そんな不安はいつまでも心の隅にこびりついていた。
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