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 いつものように学校から帰った篠宮虹(しのみやこう)は、自宅の庭に長身の男が立っているのを見つけ、嬉々として駆けた。門を乱暴に開け、玄関ではなくそのまま庭へと廻る。  夏初(なつは)がいる――そう思うと嬉しくて、一刻も早く会いたくて、虹は風になびくタイが肩に廻るのも気にせず走って庭へと入った。 「夏初!」  その勢いのまま名前を呼ぶと、ホースを持って芝に水を撒いていた加賀(かが)夏初が虹を振り返る。 「おかえり、虹。走ってきたのか?」  虹の息が上がっているのを見て、夏初が微笑む。そう言われると、夏初に会いたくて走ってきたみたいで、それは少し恥ずかしい。虹は、違うよ、と息を整えてから口を尖らせた。 「今日は暑いから、早く帰りたくて早足になっただけ」 「確かに五月にしては今日は暑いよな」  夏初は言いながら眩しそうに太陽を見上げる。虹にとっては、その姿の方が眩しかった。いつも優しく明るい笑顔、日に焼けて浅黒くなった腕、いつものTシャツと、腰のところで袖を結わえた作業着、短い髪も、全部眩しい。虹は、もう四年もの間、幼なじみである夏初に恋していた。  自覚したのは、中学二年の時だ。生まれたころからずっと一緒に居た夏初に彼女が居ると知った時はとにかく悲しくて、でも原因も分からなくて、自分でも自分がコントロールできなくなった。けれど、夏初に彼女とは別れた、と聞いた途端、虹の悲しみはすっかり消えたのだ。それが嫉妬だったと後になって思い、夏初が好きなのだと自覚した。以来、高校二年になっても虹は夏初だけを想い続けている。 「虹、ぼーっとしてどうした? 虹は小さくて細っこくて体力ないんだから、暑いなら家に入れよ。日焼けしたら痛くなるんだし、無理するな。俺はまだあっちの雑草抜きあるから」  虹の小さな頭を夏初の大きな手が撫でる。確かに夏初が言う通り、虹は女の子みたいな背格好で、色素が薄いのか肌は白く、髪も茶色がかっている。とはいえ、本当に女の子でもなければもう子供でもない。虹は夏初の手を払って、平気だってば、とテラスにカバンを放った。 「一緒に来るか?」 「うん。手伝わないけど」 「いいよ。これは俺の仕事だから」  そう言って笑う夏初の作業着には『加賀造園』という刺繍文字が入っている。夏初の家は造園業をしていて、虹の家が営む旅館『しのみ屋』の庭師でもある。その縁で虹の母親が夏初にバイトとして自宅の庭の手入れを依頼したのだ。夏初が大学に入ってすぐからだから、それももう三年になる。 「明日から現場だから、今日中に手入れしてやらないとな」  夏初は軍手をはめ直しながら言った。夏初の言う現場とは、父親の仕事現場のことで家業を継ぐつもりの夏初には大事なものだった。だから、邪魔しちゃいけないとはわかっているけれど、そうすると夏初に会う機会は激減するのも現実だった。 「しばらく会えない。ごめんな」  夏初が作業しながらさらりと言う。虹はその言葉に心を読まれたようで動揺し、別に、と強く答えた。 「宿題やってもらおうと思っただけだし! 夏初なんか居なくても平気だし」  虹がそっぽを向いて言うと、こちらを向いた夏初がくすりと笑った。 「そうだな。お前は昔から、女の子みたいな可愛い顔してるくせに強かったよ」 「んなことねえよ」  夏初がいないと心細くなったのはいつだったか――虹には思い出せないほど前だ。けれど夏初は、ほら昔二人で迷子になっただろ、と話を始めた。 「覚えてるか? お前がまだ幼稚園で俺が小学生の時、大女将と俺の母親と四人で海行っただろ」  それは虹の中で一番古い夏初との記憶だと思う。大女将、つまり虹の祖母が夏休み中ずっと自宅の庭でばかり遊んでいる二人を見て、祖母の田舎に連れて行こうと計画してくれた。多分その時の話だろう。 「うん。海からの帰りだろ? ばあちゃんも夏初ママも先に家戻ってて、でも一本道だから心配ないって思ってたけど迷ったんだよな」  夕闇はどんどん迫っていて、どこまで行っても目指す家は見えなくて、どんどん二人とも口数も減っていた。怖くて泣き出しそうになったけれどその瞬間、夏初が『虹、手』と言って手を繋いでくれたから泣き出さずに済んだ。結局十分の道を三十分以上かけて戻り二人で家に帰ったのだが、あの日のことは多分この先も忘れないだろう。 「あの時、俺だって不安だったのに、虹は泣かずに偉いなと思ったよ」 「あれは……いや、うん、まあな。オレだからな」  夏初が居てくれたから、と言いかけて虹は言葉を濁した。その答えに夏初が笑う。 「だから今度も泣かずに待ってろよ」 「だから、別に夏初がいなくても泣かないし、待ってもないから」 「寂しいこと言うなー」  可愛くないな、と言いながらも夏初は軍手を外して虹の頭を撫でた。 「あ、そうだ。虹の花壇見たか?」 「花壇? いや」  夏初が思い出したように聞く。虹が首を振ると、おいで、と夏初が歩き出した。  庭の片隅には虹専用の花壇がある。別に虹が好きで育てているわけではなくて、虹のバイトに必要なものをそこで育てているだけだ。 「バラがキレイに咲いてるんだ。今週はこれ生けたらどうかなと思って」  虹は毎週、『しのみ屋』で花を生けている。旅館業の跡取りとして育てられた虹は、一人っ子ということもあり、普通は女の子が習うような華道や茶道もやらされていた。それを活かし、今は館内に飾る花を生けるバイトをしている。バイト、というには簡単なものだが、それをやらねば小遣いが入らないので仕方ない。 「ホントだ。じゃあこれに合う花材見繕ってよ、夏初」 「了解。金曜日に旅館まで届けるよ」 「ん、わかった」  虹が答えて花壇を見やる。他にも季節の花が咲いているが、片隅にまだ咲いていない花があった。 「これ、いつ咲くの?」  虹が気になって夏初を見やった。以前、夏初と一緒に植えたものだった。もうすぐつぼみも大きくなり、花が開きそうだが、花に興味もなく、詳しくない虹には何が咲くのかわからなかった。 「秘密。でもきっと虹は喜んでくれるよ」  夏初は虹に笑いかけてから細長い葉を指先で撫でた。 「オレが喜ぶ花ねぇ……まあ、楽しみにしといてやるよ」  虹が言うと、夏初が嬉しそうに微笑んだ。
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