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昭和の話など古臭いけれど、鮮明に覚えている雪の思い出が、轍の雪道を橇に乗せられていた記憶である。
何歳だったのか覚えてないけれど、多分、幼稚園にも上がってない頃だ。
両親は仕事で忙しく、子どもを雪遊びなどで楽しませる余裕はなかったから、自分で雪道をうまく歩ける子どもなら、橇になど乗せずに歩かせていたと思う。
除雪されてない真っ白な道路を、走った車のタイヤの跡が目の前に長く続いていた。
轍を避けるように橇を巧みに操作していたのは父? それとも母? その辺はよく覚えてないのだけれど、除雪されてない不安定な道路はゆらゆらして、まだ幼子だったわたしにとって、楽しい遊戯だったに違いない。
新雪のさらさらしたきれいな轍。
凍りついた雪が算盤みたいになって、ガタガタした轍。
みぞれのような雪でグチャグチャした轍。
今は余程の大雪にまみえない限り、除雪車が夜間のうちに朝の通勤に間に合うよう、道路をきれいに除雪してくれる。なので近年、轍を見かける機会は少なくなった。
近代化された道路は昔に比べると、随分と歩きやすくなったけれど……。
人生の轍の溝はより深く、歩きにくくなったように思う。より複雑にうねうねとぬかるんで、うっかり油断をしていると足を取られる。
こんな歳にもなると、人生の轍を楽しむ気力も湧いてこない。
そのうち、杖が必要になるのだろうか。
轍のひどい道路に杖は役には立たない気もするが、そもそも人生を歩むうえで支えになる杖とは何か?
政治か、
宗教か、
それとも家族。
そのどれもが心許ない。
不注意なのか、学習が足りないのか、何度も轍に足を取られては転び、ぬかるみにはまる。人生はいつも年を追うごとに、新たな課題を突きつける。
轍にはまらないよう、気をつけて橇を押してくれた父、または母。
目の前に広がる真っ白な雪の道。
思わず泣けてしまうほど、懐かしい雪の思い出。
ーENDー
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